十字石と写真 2
朝食とも昼食ともつかない食事を終えた綺織と千彩は、家に帰ったときから見当たらない祖母の姿を捜した。しばらく庭や家の中を歩き回った結果、二階にある畳張りの狭い部屋で写真の整理をしている祖母を見つけた。
「お帰りなさい、二人とも。今朝は遅く起きたかと思えば急いで林の方に行きましたから、驚きましたよ」
祖母は何故林へ行ったのかを訊ねなかった。触れてほしくないところを見極めてそれ以上干渉してこないのは、姉妹二人が信用しているところだった。
「随分古い写真だね」
「掃除をしていたら何枚か出てきましてね。学生時代のものでしたから、このアルバムに整理していたんです」
わずかに埃っぽい年季の入ったアルバムの中には、若い頃の祖母が中心になっているセピア色の写真が整頓されている。ページを捲りながら千彩とそれを眺めていた綺織の手が、ある写真を見てぴたりと止まった。
「この人……」
思わず指差した一枚の写真は、祖母ともう一人の少女が被写体になっている。綺織にはその美しい顔立ちに見覚えがあった。髪型や髪の色は違うものの、どう見てもその顔立ちは風子と全く同じだった。祖母はその写真を見ると、優しく微笑んだ。
「風子さんという方です」
「えっ」
綺織と千彩は信じられない気持ちで目を見開く。
「同じ学校に通っていて、仲良しだったんですよ。この通り、学校どころかこの町で有名になるほど綺麗な女性でした」
「今はどこに?」
焦りそうな気持ちを抑えて綺織が訊ねると、祖母は眉を下げた。
「わかりません。突然、今の綺織と同じ十六歳のときに姿を消してしまったんです」
「もしかして昨夜言っていた、満月の夜に林へ出かけたきりいなくなったっていうのは」
千彩の言葉に頷き、祖母は続ける。
「ええ、風子さんですよ。朝になっても家に帰ってこなくて、風子さんの家族や町の人達大勢で捜索しましたが結局見つかりませんでした。お狐様に連れて行かれてしまったのではないかという話もありました」
「………………」
「それを信じる人はいたの?」
沈黙する綺織の代わりに、千彩が訊ねた。二人の頭の中では空き家でのこと、鬼灯宴でのこと、そして真紅郎と碧彦のことが次々と浮かび、消えていく。祖母は少しの間考え込むように黙っていたが、やがて口を開いた。
「この地域では白蛇信仰が根づいているのですが、蛇の話よりも狐が化けるという話がよく昔からあったのです。狐に限らず、ここから離れた他の地域では狸が、また別の地域では山犬が人間を化かして連れ去ってしまうという話がありました。当時はそのことを信じる人が多かったのですが、私は信じませんでした。あの林にいる動物達が原因だとは思えませんからね。よく狐や狸は人を化かすと思われていますが、そんなものは人間の勘違いから生まれた考えです。あなた達は、彼らが人を騙す生き物だと思いますか?」
綺織と千彩が首を横に振ると、祖母は微笑んで二人の頭を撫でた。
「そうでしょう。それに私は、きっと風子さんはどこか遠いところへ行ってしまっただけで、またいつか会えると信じているんですよ」
「…………ねえ」
祖母と風子が被写体になっている写真がもう一枚、祖母の手にあるのを見て綺織は言った。
「それ、私に頂戴」
「姉さん?」
千彩が怪訝そうに小首を傾げる。祖母も不思議そうに目を丸くしていた。
「ここのアルバムに貼ってあるものとそれ、ほとんど同じ写真だよね。だからその一枚を頂戴。悪いようにはしないから、お願い」
「今年は珍しいことが起こりますね。ホオズキの植木鉢に古い写真と、綺織がこんなにこの家のものを欲しがるなんて」
そう言って祖母は綺織の右手を取り、写真を持たせた。
「どうぞ」
「ありがとう」
その後祖母がアルバムを片付け、一階へ降りていった後で千彩が口を開いた。
「姉さん。姉さんが前に会った風子さんって、金髪だったんだよね」
「うん。でも、顔はこの写真と全く同じだったよ」
「……風子さん。鬼灯宴で、卵を飲んでからずっと少女の姿なのかな」
「そうだろうね。きっと変わらない容姿を少しでも誤魔化そうとして、髪を金色にしたのかもしれない」
ふっ、と笑って綺織は天井を眺めた。今頃風子はどこで何をしているのだろうかと考えながら、そのまま畳の上で仰向けになる。そして祖母と並んで微笑む風子の写真に向かって呟いた。
「もう一度だけ、会って話をしてみたいな」
それから二日間。姉妹はあの少年二人とはもちろん、風子の姿も見ることなく夏の時間を過ごした。もしかしたら風子は少年達と一緒にもうどこかへ去ってしまったのかもしれないと思ったが、綺織はそれを口にはしなかった。
「それじゃあ、また来年」
玄関先で見送る祖母と妹に手を振って、綺織はよく晴れた昼下がりの道を歩き始めた。白い砂塵の眩しく光る乾き切った道を進み、坂を下っていくと影が日の光を遮ってくれる。郵便局裏の路地を抜けると、古いアーケード通りが見えてきた。そこでふと綺織は足を止め、通りの入り口に置かれた白蛇の石像を見つめた。
「そう言えば蛇って、瞬きしないんだっけ」
目蓋がないからと瞬きをしないと思われがちの蛇だが、実際には薄い透明な膜である目蓋があって常に閉じられている状態らしい。いつだったか学校で理科の教師に教えられたことを思い出しながら綺織は駅舎の中に入り、改札を抜けてプラットホームに出る。予定通り発車五分前の電車に乗り込み、まだ多く残っている空席の一つに腰を落ち着けた。すぐ左の窓から見える無人のプラットホームを眺めていると、不意に声をかけられた。
「前の席、失礼していいかしら」
「あ、はい」
反射的にそう言って首を動かし、綺織の目が大きく見開いた。
「こんにちは。お久しぶりね」
「風子」
綺織に向き合うように座った風子は悪戯っぽい笑みを浮かべた。初めて出会った日とは違い、空色のマキシワンピースを着ている。
「何かあたしに訊ねたいことがあるんでしょう」
「訊ねたいことって言うよりは、確認したいことかな」
「ふうん」
「カガチ様って白蛇だろう」
それを聞いて風子は神妙な表情になって頷いた。
「やっぱり。だからあの人、一度も瞬きをしなかったんだ」
「すごいわね。そこに気づいたなんて」
「もしかしてあの卵を飲んだら、眷属になるの?」
「ええ。眷属になった者はずっとそのときの姿のまま、生きる。そしてカガチ様の代理として、各地を渡り歩く仕事を与えられるの。仕事と言っても、俗世のものとは全く違うわ。普通の人には知られない場所――桃色の雲が沸き立つ山脈や星屑を含んだ滝、水晶の宮殿にだって訪れることもできるのだから。心穏やかに、美しい風景を眺め、品格の高いものと言葉を交わしていけるの。その気になれば今のあたしのように、俗世に戻ることもできるわ」
そこで一度言葉を区切り、風子は綺織をじっと見つめた。
「あなたと妹さんは卵を拒んだ唯一の存在よ」
「ちゃんと自分自身で考えた結果だったけど、やっぱり失礼なことをしたかな」
「そんなことないわ。そのときの自分を偽って眷属になることの方が余程失礼だもの」
その言葉に綺織はわずかに安堵した。そして風子に次の質問をする。
「風子。きみは、かつての友人に会わなかったみたいだね」
口を閉じた風子の瞳には若干物憂げな翳りが映っていた。
「今の自分を受け入れてもらえないと思ってる?」
風子は首を縦に振った。
「私はそんなことないと思うけどね。風子の友人は、どこか遠いところへ行っただけだから、またいつか会えるんだって今でも信じているのに」
「それは、本当?」
「うん。本人がそう言ってたよ」
綺織は荷物の中に入れていた写真を一枚取り出し、風子に差し出した。
「会いに行けばいいじゃないか」
目を大きく見開いた風子はそっと写真を受け取り、自分とかつての友人の姿を見つめる。
「カガチ様は《これからよろしくね》と言っただけで、《全てを捨ててくれ》とは言ってなかったよ。風子のときも同じだったんじゃない? だったら今の姿で、会いに行ってもいいはずだよ。その写真は私がもらったものだけど、よかったらどうぞ」
「嬉しい。本当にありがとう、綺織」
今にも泣き出しそうな顔で、それでも美しく微笑んだ風子は静かに座席から立ち上がった。そして目隠しをするように綺織の目蓋を下ろさせた。綺織の視界が真っ暗になると同時に、車内のざわめきやどこか遠くで鳴いている蝉の声、発車を知らせるアナウンスが突然ぴたりと止んで静かになった。綺織は不意に前髪をかき上げられ、額に柔らかいものが触れたのを感じた。
「あなたにカガチ様のご加護がありますように」
優しげな声色の言葉が耳に入ったそのとき、綺織は電車が発車する音と振動を感じた。はっと目を開けるとそこにいたはずの風子がいない。まるでついさっきまでの出来事が全て白昼夢であったかのようだった。
ゆっくりと動き出す電車の中、綺織は窓の外を眺めた。すると進行方向、プラットホームの端に三人の見覚えがある姿を捉えた。見間違えるはずがない。真紅郎、碧彦、風子が笑顔で手を大きく振っている。綺織は急に胸がきゅっと締めつけられたように感じた。目から涙が零れ落ちそうになるのを堪え、笑顔を浮かべて彼らに手を振った。
「またね」
電車の速度は上がり、三人の姿はすぐに後方へと遠のいて見えなくなる。綺織は荷物の中から十字石を取り出した。暑さで少し火照った手に、ひやりとした石の冷たさが心地いい。
白雲母の中に浮かび上がる、黒蜜のような濃い色をした十字架の結晶。綺織は飽きることなくいつまでも妖精の十字架を見つめていた。
《鬼灯宴》完結致しました!
これで今年最後の作品(一応予定では、ですが)が終了しました。ちなみにこの作品は元々《猫窟島のケット・シー》とほぼ同じ時期に書き上げたものです。
この小説もやはり《猫窟島のケット・シー》同様、宮沢賢治に影響されて考えたものでした。一番影響を強く受けた作品は気づいた方もいるかと思われますが、『雪渡り』です。兄妹が冬に狐の幻燈会へ誘われるというとても幻想的で素敵な物語なので、興味のある方はぜひ読むことをおすすめします。
私も幼い頃は夏に祖父母の家へ泊まりに行きました。山の中を歩き回り、イタドリを齧ったり花を摘んだりして過ごしたことはよく覚えています。空き家はありませんでしたが猪用の罠らしい檻はありました。
作中の綺織と千彩は卵を拒み、人間のまま成長することを選びました。読者の中にはその選択に安堵した方もいるでしょうが、一方で卵を飲んだ後の姉妹が見たかったと思う方もいるかもしれません。作者である私もこの場面はとても悩みました。かつては子供だった私も、今ではいつまでも子供でいられるということがとても魅惑的に感じる年頃になりましたから(今でも精神はお子様ですが)。
しかしやっぱりこの物語は、少女達が一夏に体験した幻想的で不可思議な思い出として語られるような内容にしました。
読者の方がこれから夏に鬼灯を見るたびに《鬼灯宴》を思い出していただけたら、とても嬉しいです。
最後に、本作を読んでくださった方に両手いっぱいの感謝を捧げます。ありがとうございました!