第1章 ニート、外に出る
「ぐあぁぁぁぁ、目が」
いつものようにパソコンをいじっていると、目がやられたらしい。腰まで伸びるボサボサの髪をわさわさしながら悶え始めた。パソコンの液晶には、有害なライトが使用されている。そのため特殊なめがねをかけるという対策ができるのだが、ニートで親の臑齧りをして生きている関子には、それをねだることは安易にはできるはずもない。関子にも一応良心が存在するということだ。
関子は何を思ったのか、窓の外を見始めた。今までずっとパソコンの画面とにらめっこしていたから、今の季節や時間の感覚がすっかりあやふやになっていたのだ。
「ん……、夏?」
外の景色は闇に飲み込まれ、青青とした葉をみることはできない。窓を開け、ヘッドフォンを外せば、セミの鳴き声が聞こえるはずだ。……セミって夜ないていたっけ?まぁいいか。
関子は、夏にはある思い出がある。いい思い出でもあれば、悪い思い出でもある、青春の一ページ。関子が、まだ絶望という言葉を知らなかった頃のことだ。
それを思い浮かべてのことか、関子は微妙な表情をしている。目にはうっすら涙を浮かべ、口元には白い歯をのぞかせて笑っている。忘れたい、忘れたくない、楽しい、悲しい、嫌だ、死にたい。いろいろな感情が混ざっている。
手をさまよわせ、筆箱を取った。中には、使い込まれたカッターナイフが入っている。
そのカッターナイフで、腕に線を描く。染みでた血液を無表情で眺めた。痛覚はあるが、心の痛みに比べれば何ともない。
こんなことをしているのは、甘えなのかもしれない。
関子が今、必要としているのは勇気だ。カッターをどれだけ深く入れられるかではない。自分を傷つけられるその勇気があれば、自分も何か変われるのかもしれないと思っているのだ。
「ちっ……」
動脈を切れば、死ぬ確率が上がる。それを知っているから、少しだけ外して切るのだ。あくまでも、家族に迷惑をかけないように。
――死なれるよりは、私が面倒見た方がいいでしょ。
いつか、母親に言われた言葉だ。
今ではもう、迷惑しかかけていない。
ピリリリリリリリ……。
突然、電話が鳴った。普段使っていない携帯電話がいきなり鳴ると、心臓が飛び出そうになる。カッターを投げ捨て手で心臓を押さえながら携帯を探す。今時珍しく、関子は折りたたみ式の携帯電話を所持しているので、丈夫だと気を抜いてところかまわず置き忘れるのだ。すぐなくす、とも言う。
着信音を頼りに、携帯電話を見つけた。着信の相手は、中学時代に仲のよかった友人だった。無意識に過去形になってしまった。
「……なんか用」
『なんだそれ。久しぶりなんだからさ、どっか行こうと誘ってあげようと思ったんだけど』
「なぜ」
『高校では今夏休みだからね』
電話の向こうで友人が気まずそうにいった。同情は優しさではありません。
「……あー」
関子は高校に通っていない。中卒の若きニートだ。ニートの新星なのだ。
「どこ」
『ショッピングでもしよう』
場所を聞いて目的を答えてくれるところから、関子の友人も人とは違う何かをもっているのだろう。変人かバカの称号を。
「……あー」
この「あー」は関子にとっての「いいよ」である。イケメンが友達の言葉に「ああ!」と返すのと同じ原理。
『じゃあいつがいい?暇な日は?』
「毎日」
『……。じゃ今日』
ずいぶん急だとは思うがニートにとっては都合のいい時間つぶしだ。
「……おー」
これも「いいよ」である。
『準備できたら東公園かうち来て』
待ち合わせ場所を複数指定してしまうのもこの友人の特長だ。インドアの関子は間違いなく友人の家のほうを選ぶだろう。
「……んー」
これは「了解」だ。そこで会話は終了され、友人は電話を切った。関子は電話から流れるつーつーという音を終わるまで聞くと、立ち上がった。
時刻は午前二時半。
ベッドに倒れ込み、明日(日付的には今日)に備えて眠ることにした。
星野詩帆。それが関子の友人の名だ。なぜ、こんな関子と友人になったのかは、後でわかることだろう。
この日、関子は夢を見た。詩帆が、高校の人々にいじめられ、苦しんでいたという夢。しかし、関子がいればそれは避けられたものだ。あのときのように。……あのときのようにはまずいが。
夢の中で、関子はそっと詩帆に手をさしのべた。
*
朝、決まった時間に起きるのは関子にとっては重労働だ。
関子の頭はズンズン痛み、よろめきながら階段を下りた。
「可愛い服で行こう」
久しぶりに友達と遊びに行くのだから、少しくらいはおしゃれしたいと思うのだ。ニートとは言っても、年齢的には女子高校生である。一応。
「……可愛い服、持ってなかった」
仕方なくいつもの、薄手の長袖を羽織って行くことにした。腕の傷跡をさらすわけにはいかないのだ。
「あっ、関子!生きてたの!」
カウンターキッチンから顔を出した関子の母親は、両手を広げ欧米風に「わお」とやって見せた。しかし関子に毎日欠かさず三食作って部屋の前に置いていたのは母である。つまりこの「生きてたのか」は、挨拶の一種だ。愛情なのだ。
「今日、遊びに行くから」
「えっ!?」
今度は素で驚いた様子だった。
「いつの間に男なんてつかまえたのよ」
驚いたのはそういう理由だったのか。友達もろくにいないのに男にモテるわけありますか。ニートがアタックできるわけありますか。
関子は小さくため息をついた。
「詩帆だよ」
「あ~、下からよんでも…の子ね」
母は人の名前を覚えるのが苦手らしく、いちいち覚えやすく工夫していたのだ。星野詩帆は、確かに下からよんでも「ほしのしほ」だ。
「んじゃ」
「いってらっしゃーい」
似たような性格の親子である。母は働いていないが、「主婦」という職業なのだ。決してニートではない、と本人は主張している。
詩帆の家までは、近くも遠くもない。高校の友達となると、電車を使って会いに行かなくてはならないこともあるが、中学では学区で区切られているので、一応近所なのだ。手軽なはずなのに滅多に遊びに行かない。友達が一人しかいないから。
高校生になった詩帆は、一体どうなっているだろうか。高校生と言えば、化粧が濃く、スカートが短い……。実際はそういう人はごく一部なのだが、世間知らずのニートにはそういう偏ったイメージしかないのだ。
バスで駅まで行き、階段を下りる。詩帆の家は駅の近くにある、結構な豪邸だ。運動不足の関子には階段は命取りだ。足がふるえてしまっている。何人かの通行人に追い越されながら、慎重に階段を下りていった。