ある1日
新章、スタートです。
五月はある病が蔓延する恐ろしい月といわれている。
刑法の講義中に先生がそういって、僕は漫然と三分の一ほど埋まった講義室を見渡した。教科書とポケット六法を開いているのは半分ぐらい。目を開けているのは、そこから更に半分ほどだ。昼前の二限はどこかゆったりとした、いってしまえば気だるい雰囲気に包まれている。若い(比較的という枕詞がつくけど)女の先生はそれを正そうともせず板書の手を止めてマイクの音量を若干下げた。講義室はこれ以上ないほど静かになる。
「これは刑法とまったく関係ないんだけど、この有り様を見ると毎年思うのよね」
先生はそういい、こきりと首を鳴らした。水性マーカーを教卓に置き時計を確認して、ふうと息を吐く。講義はあと三分の一時間ほど残っていて、内容も丁度一区切りついてしまった所だ。出席カードを数え始めたのでもう終わるらしい。何人かが隣で寝てる人を起こしだして、慌てて板書をノートに写し始める。先生はそれを見てふと手を止め、ぐるりと講義室を見渡して右斜め前に一人で座る生徒――つまり僕の所で視線を止めた。目が合い、固まる。
「それじゃあ君、七緒くんだっけ。この時期に発症する病気の名前をいってみて」
なんで僕? と頭の片隅で訪ねながら口を開く。声量は先生に聞こえる程度に抑えつつ。
「適応障害。もしくはリアリティーショック。俗称でいえば――」
先生は深く頷き、出席カードで拍手した。ぺちぺちとかなりマヌケな音がマイク越しに聞こえてきて、褒美だといいながらその出席カードを僕に差し出した。なぜか周りに座ってる比較的真面目な生徒達も拍手しだして、僕は立ち上がって何度もお辞儀しながら受け取った。猫の判子が押された出席カードは少し曲がっていた。一枚取って後ろに回すと、眼鏡を掛けた女の子はちょっと迷って普通に受け取った。くそう、ちょっと恥ずかしい。
弛緩した空気の中筆記用具を片付けるガチャガチャとした音が鳴り出して、僕は習慣になった講義の撮影を止めるためスティーの画面を点けた。カメラの映像からすぐにスティーのホーム画面に切り替わり、欠伸をするネコのアニメーションと目が合った。結構シュールな絵面だ。
カメラとマイクを外してカバンに丁寧にしまい、別の所にルーズリーフとペンケースを放り込む。と、つられたのか欠伸が出てきて、左手で隠しながら外を見た。窓の向こうにきれいな五月晴れが広がっていた。雀が二羽うろうろとさ迷いながら広葉樹に留まり、ボーッと見ながら考える。大学に生えている木は最中区市役所の広場に生えていた(過去形だ)木と同じもので、琴吹さんなら名前も分かるのだろうけど僕は詳しくないから分からないのだが、まず元通りにはならないだろうという事だけは分かる有り様を思い出す。
まあ、あそこの市役所は改修の話が出てたので予算が付けばすぐに新しくなるだろう。優秀な英華市の建築会社がゴールデンウィーク前には仮舗装を終えたので、今頃は傷痕一つ残ってない。そうやって作戦の記憶は消えていくのだ。また新しい作戦が実行されればそちらに関心が向き、古い出来事は過去のものとなっていく。人々は偉大で、愚かで、強かだ。そうでなければ生きていられない。
「休み明けなのによく集まったから、今日はここまでにしよう」
先生は外したピンマイク越しにそういうと、もう一度首を傾けて骨を鳴らした。ぞろぞろと生徒が立ち上がり出席カードを提出する。
月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり。そんな言葉を思いだし、僕は指を折って数えてみた。そして、また欠伸をする。
剣姫の告白から、一月も経とうとしていた。
―――――――
「アスキサン友達いないんですかー?」
「スティー、もう少しオブラートに包んだいいかた覚えようか」
スティーは短い腕を組んで唸り始めると、ぼっち? と呟いた。逆さに持って上下に振ると悲鳴を上げて画面から消えたので、少し胸がスカッとしたから止めてあげた。
「人権侵害ですよアスキサン!」
「AIに人権ってあるんだっけ」
脳裏に法廷台に立つスティーの姿が浮かぶ。なんというカオス。煙草の灰を落とし最後の一口を吸うと、ギリギリまで吸いすぎて唇が熱くなり眉間にシワが寄る。煙を吐き出し、水気のない据え置きの灰皿に吸殻を落とす。日陰の灰皿は殆ど空っぽで、使用者が滅多にいないのが分かる。
十何年か前から成人式をやる年齢が十八歳になり、一時的に喫煙者が増えた年があったらしい。そこで国が煙草税をガンガン上げた結果、この国の喫煙率は一桁と二桁を行ったり来たりすることになった。つまり喫煙者が極端に減ってしまったのだ。非喫煙者からすれば喜ばしいことなのだろうけど、我々からすれば酷い迫害だ。町中からは喫煙所がドンドン消えていき、飲食店は全面喫煙禁止、コンビニなどでは店の陰に放置された灰皿を使わされる。
が、よくよく考えて欲しい。喫煙所をなくしたからといって、喫煙者はいなくならないのである。例えば、コンビニの陰で一人煙草を吸う、僕のように。
「友達になってあげましょうかアスキサン?」
「せめて生身がいいです」
煙草をもう一本抜き取りライターを鳴らす。が、安物のライターはガスが切れてしまったのか石ばかり減らして火が点かない。かわりに吐くのはため息ばかり。はぁー。淋しい。
「あっれ? 先客かと思ったら明日輝じゃん」
明るい日向から声がして、顔を上げるとセブンスターをくわえた片桐さんが建物の角から顔を覗かせていた。鎖骨までざっくりと見える群青と灰色が混ざった迷彩柄のノースリーブを羽織り、黒のカーゴパンツに銀のチェーンを着けた片桐さんは今日も変わらず不良チックだ。
「こんにちは、今日も一人なの?」
その背後でヒョコッと飛び出したのは絶賛毒舌中の人見さんだ。淡いブルーのふんわりとしたシャツにやや丈の長いキュロットスカート姿で、ミニチュアダックスフンドのような栗色の犬耳カチューシャがなんとも似合って……。
「犬耳?」
ラッキーストライクをくわえたまま呟くと、人見さんは少しだけ恥ずかしそうに首を傾げた。犬耳が横に垂れる。
「うん。今ケモ耳が流行ってるんだよ?」
「知らなかった……そんな流行があるなんて」
「意味わかんねえよな」
わざとらしい深いため息を吐いて片桐さんは煙草に火を点ける。薄い煙を吹き出し、細いガスライターを腿のポケットにしまってから、僕が物欲しそうに見ているのに気がついた。無言で頭を下げる。仕方ねえなとでもいわんがばかりに目を細めて、くわえたままの煙草を突き出した。ありがたく火を分けてもらうことにする。
「わあ……二人ともせんじょうてき」
それを見ていた人見さんはなぜか頬を赤らめた。
「??」
僕と片桐さんはきょとんとする。
「……まあ、いいか。秋良はどうしたんだ?」
「秋良はサボり。出席はギリギリが信条なんだって」
灰を落としながら答える。片桐さんは眉をひそめ首を傾げるがそれも当然だ。頭は良いのに学校嫌いなんてのはアイツだけだろうから。
「じゃあ、七緒くんお昼も一人なの?」
「小鳥、さらっと毒を吐くな。明日輝が死ぬ」
項垂れる僕を見て片桐さんが呆れたように間に入って助けを差し出す。人見さんは少ない言葉でピンポイントにダメージを与える天才なのかもしれない。しかも明らかに狙ってやってないから、怒るに怒れずただただ凹んでしまう。
本気でスティーを友達にしようか悩んでいると人見さんは少し離れた所から慌てて声を上げた。
「ち、違うの! そういうことじゃなくて、もし良かったら一緒にご飯食べないかなってお誘いしようかと思っただけで、七緒くんがいつも一人ぼっちとか孤独感がするとかそういうことをいうつもりはなかったの!」
「人見さん……」
あなたは優しい人のか辛辣な人なのかいまいち掴めないです。かっこなき。
「いいじゃん。とりあえず一緒に飯食おうぜ」
片桐さんに軽く流され、僕はこくりと首を倒した。
―――――――
ENS、英華大学ネットワークサービスは、なにも大学内の情報ばかり載る訳ではない。英華市の最大の議論の種、英雄と亜悪についても幅広く載せられる。一覧表なるものも作られていて、一度見たことがあるけど民間としてはそこそこの精度だった。学生というのは暇を持て余したらどこまでも堕落出来るが、一度指向性を持てばどこまでも突き進むことが出来る最強の集団なのだ。それは営利非営利関係ないのかもしれない。そんじょそこらのNPOよりも、強力で質の悪い組織である。
昔、ネットで作戦日時の予想大会というものが流行った事があった。掲示板での与太話みたいなものだ。暇を持て余した学生たちの雑談程度のものだったのだが、それが予想外に白熱した。参加した様々な系列の学生達がそれぞれの専門知識を持ちより、あれよあれよと膨れ上がって、ついにぴったりいい当ててしまったのだ。
当然、大問題である。なにが問題って、それを英雄も悪役も見ていたことだ。もちろん悪役の上の人達は作戦時期を急変更し現場はバタバタ。英雄側も警戒しまくるし急拵えの作戦は大失敗の連続。そのうち、参加していた一人が「場所と人数も当てられんじゃね?」などどほざいた事から、問題は社会現象にまで発展した。
そこまでいって、やっと悪役の介入が始まり(具体的にはデマ情報や作為的な操作など。主に諜報部の人達の活躍)事態は鎮静化したのだが、それからというもの色んなコミュニティで話の種になってしまった。英華市でも例に漏れず、その度に僕は居心地か悪くなる。特にこの時期は。
なにがいいたいかというと、とても肩身の狭い昼食会ということで。
「だから、バド・ディプレッションが参戦するには広いスペースが必要なんだから今度の祭りには絶対出ねえって。ここはダーク・アブソリュートとバーブレス・ロアーがメインで攻めるしかないだろ」
「そんなことないよ。バド・ディプレッションは自分で植物を持ち込めるし乱戦にも強いから、絶対出てくるよ。むしろバーブレス・ロアーは一対一が専門でしょ? だから今度のお祭りには出てこないと思うけどな」
「いやいや、それこそ甘いな。相手は小隊長なんだから個人戦に強い方が――」
コンビニ内にあるイートインの一角で、片桐さんと人見さんは食事の手を止めて話し込んでいる。議論の的となっているのは『祭り』だ。下手に口を出せないので、僕は殆どオブジェ扱いです。
五月祭典――通常、単に祭りと呼ばれるこれは、普段会うことの出来ない英雄達と触れ合い溝を埋めるためのもので、小隊長以下多くの英雄が参加する。場所は毎年違うものの結構な規模になるので、英華市民は心待ちにしている――のだが。
「ねえ、七緒くんは今度のお祭り、誰が来ると思う?」
「え? あー、うん。どうだろうねえ」
話が飛んできて、曖昧に言葉を濁した。僕がいう訳にはいかないので、二人には悪いけどこれが精一杯の答えだ。人見さんは少し物足りない顔になりやっと食事に戻る。
五月祭典の目玉は英雄と会える事、だけではない。目玉といってしまうと少し不謹慎だけど、もはやそれを楽しみにしているのだからしょうがないだろう。そのために五月祭典は場所をコロコロと変えて準備するのだし、僕らも連日訓練をするのだから。
そう。五月祭典には僕らも参加するのだ。
僕ら、というのはもちろん悪役の事であり、正式な招待状を持っていく訳でもない。つまり乱入するのである。祭典に。
野菜ジュースをすすって、気が重くなるのを誤魔化した。この作戦は毎年ながらやる気が起きない。罠と分かりきった戦場に赴く事ほど無意味なものはないと思うのだが、悪役の乱入を目的に五月祭典を開催し続けているようなものなので、出ない訳にはいかない。それでも気が進まないのはかわりない。なぜなら、今年は少し事情が違うからだ。
また議論を始めた二人から視線を外し、今年の作戦名を思い出した。奇しくも刑事法の講義で上げた名前と一緒で、秋良が現在進行形で必死に練り上げているものである。
作戦名、五月病。
小隊長四人対幹部四人の、総力戦である。