悪役ノスタルジー
空調とは違う冷房の肌を突くような音を聞きながら、細いコンクリート剥き出しの廊下を腕を擦りながら小走りで進む。シャワーを浴びたあと、着てきたパーカーを僕の秘密の部屋に置きっぱなしで来てしまったので、この空冷はかなりキツイ。第一セクションへ向かう通路はどこも冷房がガンガン入っているので、呼び出しを受ける度に風邪を引きそうになるのだ。
廊下を何度か曲がり、一番奥のメインサーバー室のドアの前に立った。インターフォンを押し、ドアの上につけられた監視カメラを見上げる。ここまで来るのに最低二回は監視カメラの中に映るので、ドアは待つまでもなくすぐに開いた。冷たい塊が全身を包み込み震え上がる。
中は物が雑多に置かれた僅かに暗いサーバールームである。向かって奥の壁は会議室と同じように一面スクリーンに覆われていて、しかしこちらは百近くに分割されたあまりに無秩序な映像が流れている。長く見ていると目がチカチカしそうだ。スクリーンの手前に置いてある木製のだだっ広い厳格な机にはデスクトップ型のパソコンが二台とその間にノートパソコンが並んでおり、その画面は全て机の前に座る一人の女性に向いている。その女性はとにかく大きく細かな装飾のなされた椅子に座っていて見えないが、その脇に立っていたもう一人の女性が、僕に向かって小さく手を振った。少し驚きながらも手を振り返す。
「芽生さん。どうしてやよの所に?」
前髪を鼻の頭ぐらいまで垂らし瓶底眼鏡をかけているので目元はまったく見えないが、口元は柔らかな笑みが浮かんでいる。耳の下で切り揃えられた髪は艶々として真っ黒であり、細くしなやかな首筋に薄い群青色のチョーカーを巻いている。僅かに震える唇が開き、ゆったりとした若葉色のニットセーターの胸が大きく膨らんで息を深く吸い込んだ。
「いっ、いっ、いつものコーヒーが、き、き、切れたって、でん、でん、電話が、あああって」
「使いっパシりにされちゃったんですか。御愁傷様です」
一息で言い切った芽生さんは、ふう、と小さく息を吐いて、椅子に座ったまま僕を一向に見ようとしないこの部屋の主を覗き込んだ。キーボードを叩く音が途切れることなく続いているので、寝ている訳ではないらしい。呼び出しておいて無視とはいい度胸だ。芽生さんとは反対側に周り込んで、肌を擦りながら彼女の顔を覗き込んだ。
「……いつの間に来たんだい。闇の真理」
「今だよ今。にしても……まだ風邪治ってなかったのか、やよ」
真っ白な髪を無造作に括り、気だるそうな表情で僕を見上げた幼い少女のような彼女を見て、呆れ混じりのため息を吐いた。やよは強烈な舌打ちをして、手を止めて僕を叩こうとしたが、ふらふらと身体が揺れてしまい、撫でるような弱さで僕の頭を触った。ペチンと音がする。
産まれてから一度しか切った事がないらしいホワイトシルバーの髪はひどく無造作に括られていて、出来の悪いちょんまげみたいになっている。肌はミルクにイチゴのジャムを混ぜたようなぼんやりと紅い乳白色で、芽生さんが買ってきたフルーツ柄のパジャマの袖から見える作り物のような細い腕はいつも以上に力がない。苛立たしげに寄せられた顔も透き通るような薄い乳白色で、子どもとしか言い様がない幼さだ。ぶどう色の瞳が、憎らしげに僕を睨む。
「これでもね、小うるさい咳はなくなったのだよ」
「その代わり熱が出た、と」
「そ、そ、そっ、その通り」
「うるさいよ君たちは! 両側からごちゃごちゃ騒がないでくれたまえ!」
顔を赤くして手をバタつかせ僕と芽生さんを追い払ったやよは、怒りに震える足で机を弱く蹴り上げた。
椎名やよは齢二十二にして日本中で使われている警備システム「Sleeep」を開発し(この街で使われているカメレオンの原型でもある)英華市を裏から牛耳る名の知れた凄腕のプログラマでありながら、堕名を持たないにも関わらず作戦の度に電子の世界で英雄達のバックアップを担当する眠れる踊り子と情報戦を繰り広げている隠れた歴戦の悪役でもあり、悪役たちのカウンセリングを一手に引き受ける心理分析のプロ(専攻は犯罪心理学だか集団心理学だったはず?)でもある。顔も名前も一切非公開で、英雄達からは電子の女王などと呼ばれているが、実際は一人でコンビニにもいけないただの引き篭もりの病弱女だったりする。
また、取るに足らないことで特に覚えておく必要もない情報ではあるが、椎名やよは色素欠乏症という極端にメラニン色素が薄い(正しい知識は覚えていないので割愛)先天的の病気であるらしい。らしいというのは、やよが自称しているだけで詳しく聞いたことがないからで、調べようとも思ったことがない。僕に関係ないことなのだから必要がないのだ。こういうことは英雄庁のニューセンス研究をしている頭でっかちのお役人が勝手に調べて自己完結すれば良いだけのことだ。僕はノータッチ。
くすくすと笑っていたのでへそを曲げてしまったやよは、苛立たしげに足を踏み鳴らし、芽生さんに向かって歯をむき出し睨みあげた。
「なにをグズグズしてるんだい、憂鬱の蕾! さっさとコーヒーを淹れてきてくれたまえ!」
「分か、分か、分かった。あ、あ、あ、明日輝くっ、君は?」
「お願いします。いつも通り濃い目で」
「こんな恩知らずの木偶の坊に私のコーヒーを飲む資格はないよ! 二つだけでいい!」
ころころと笑い深く頷いた芽生さんは、前が見えるのか不安になるほど分厚い前髪を揺らしてサーバールームの入り口近くにある給湯室に入っていった。ここにあるのも松永先生の研究室のと同じ高級品のコーヒーメーカーなので味は格別だ。もはやこれが楽しみでやよに会いに来ていると言っても過言ではないぐらいである。それほどここのコーヒーは美味しい。嬉しくなりつい鼻歌を歌いながらやよに向き合う形で机に座りラッキーストライクを取り出すと、やよが深いため息をついた。
「君がいつもそこに座って煙草を吸うものだから、憂鬱の蕾がそこに物を置かないよう勝手にかたづけるようになってしまったよ。まったく、迷惑な話だ」
「なにいってんだよ。僕が来ないと煙草吸わせてもらえないくせに」
一本抜き取りやよに差し出すと、鼻を鳴らし奪い取り、銜えて先を親指と人差し指で触れるかどうかすんでの力加減で弱々しく挟んだ。ふっ、とやよの銀糸のような髪が浮き上がり、指の間を一筋の青い閃光が走る。同時に耳の奥を引っかくようなバチッという音が鳴り、煙草に焦げ跡とともに小さな火が点っていた。松永先生といい、やよといい、便利なニューセンスだ。普通にライターで火を点けた僕を見下す目付きで細く見上げたやよは、煙を上手そうに吐いて呟いた。
「笑う天災と一悶着起こした大卒の小娘には、どこまで話したんだい?」
「んー…………とりあえず一通り、かな」
あえて誤魔化した言い方をすると、はっきりと馬鹿にした声音が飛び出した。
「もしかしてセンス保持者は二種類しかいないなどと戯けたことを言ったんじゃないだろうね? 英雄を神格化するために悪役がいるだの英雄法は先天的センス保持者を保護するために作られただの御伽噺みたいな甘ったるい議論をしたんじゃないだろうね? 図星だったら君を磔にしてやりたくなるのだが反論はあるかい。闇の真理。君のお人よしさには呆れて怒る気にもなれないよ、まったく。と言うことはヒューマンマイノリティのこともまっっったく話してないんだろうけどね。君は愚か過ぎて馬鹿にするのもおこがましいぞ」
「酷いな。そこまで言わなくても良いじゃないか。知らなくても良いことは世の中にいっぱいあるんだしさ」
「嘘つきの偽善者め。物的証拠が何を戯けた妄言を言ってるんだい」
「それは職業病だから仕方ないんだよ」
「ふん、そんな使い古された干物みたいな言い訳は聞きたくないね。君が愚かで人間不信のファミコンなのは生まれつきだろう、それを職業のせいにするなんてそんな愚昧な責任転嫁は――……」
ため息をつき、やよの出した地球儀を半分に割った灰皿に灰を落とす。やよは年の割に姑みたいな小言をいうのだ。耳年増というのだろうか。捻くれたことしか話せない奴なのだ。紫煙混じりのため息を吐いて、ふと視線を感じ給湯室の入口を振り向くと、腰に手を当てた芽生さんがじっと僕らを睨んでいた(と思う。なにしろ目線が読めないから)。気づかずまだぐちぐちと罵詈雑言を喚いていたやよの肩を叩き芽生さんを指差すと、やよは喫煙が母親に見つかった高校生のような慌てようでまだ半分も残る吸い殻を灰皿に捩じ込んだ。もったいなくて声が漏れる。
靴音を踏み鳴らし近づいて来た芽生さんにあたふたするやよを横目に、僕は悠々と煙草をギリギリまで吸って灰皿に押し消した。首を軽く傾げてスマイルで対応してみるが深いため息に吹き飛ばされた。芽生さんの胸が大きく膨らみ、やよが更にわたわたする。
「びょ、びょ、病人がっ! た、た、た、た、煙草はっ! だっ! …………駄目!!」
「つ、つぼみー、あうー」
……さっきまでの威勢は露と消え、やよは真っ白な手で頭を隠し、芽生さんから逃げるように縮こまった。これでも三十歳と二十歳の会話なのか、といらぬ事を思い出してしまい顔を隠さなくてはいけなくなった。笑ったりなんかしたら芽生さんに何を言われるか分かったものじゃない。
琴吹芽生さんの仕事はここに住み込んでいつもこんな風にやよのお節介を焼くことではない。普段は英華市プラントセンターという自然博物館と研究所の中間みたいな所で働く、立派な社会人である。どんな波長が合ったのは知らないが芽生さんとやよは非常に仲良しで、傍から見たら姉妹に見えるだろう。僕もやよとの付き合いは長い方だと思うがこんなに気を許した関係にはなれていない。まあそれも仕方がないけど。男女間の壁って案外大きいしさ。
ところで、やよの呼び方は堕名を勝手に和訳したものである。それだけ分かれば、なんとなく僕の言いたいことが伝わると思う。
芽生さんはやよに憂鬱の蕾と呼ばれている。今日の作戦の指揮官、バド・ディプレッションの和訳だ。普段の姿からは想像も出来ないと思うが、キャリアは僕の倍近い十年ちょっとの先輩である。当たり前だがちゃんとした正職員。給料も待遇も正職員。悪役幹部としての姿は、彼女が三年かけて作り出したバド・ディプレッションというもう一人の人格だ。ぶつ切りの言葉でやよを叱る姿はまるでお姉さんぶる子どもで、芽生さんに叱られて萎縮し意味不明な弁解をする姿は無邪気な妹そのものだ。芽生さんが琴吹芽生の時にこれほど饒舌になれるのは、やよか僕ぐらいである。素の姿というよりは、手からこぼれ落ちた過去を得ようと奮闘している不器用な大人の人格なのかもしれない。
「あ、あ、明日輝君もやよを、を、を、ああ甘やかさな、い、いで!」
「はい!」
……だけど、とばっちりは勘弁してほしい。
―――――――
十一時も殆ど終わり頃になって、やっと家に帰ってきた。ヘルメットを玄関入り口につけたフックに吊るし鍵類をその下の籠に放り込み靴を脱ぎ捨てて、電気もつけずにベッドに倒れ込む。疲れた。何が疲れたって、デブリーフィング後の報告書作成だ。大学でレポートを書き、基地で報告書を書き、パソコンに向かう時間がなによりも疲労を感じる生活になってしまった。いっそのこと秘密の部屋にパソコン持ち込んでしまおうか。あそこならタバコ吸いながらでも出来るし。なにより電気代タダだし。職権乱用万歳。
カバンをベッド下に落とし、携帯を充電器に差し込んで、パーカーを床に投げ捨てた。十畳一間の部屋はどこに何があるか真っ暗でも簡単に思い描ける。一人暮らしの必須スキルである。と、もうひとつの必須スキルである調理スキルを活用しなければならない晩ご飯という大切な存在を思い出し、即座に諦めた。一人暮らしにおいて夕食と朝食は時と場合により兼用しなくてはならない状況がある。睡眠を減らし食事を取るなど事故の元だ。火事を起こすぐらいなら朝まで我慢。代々伝わる大学生の教訓である。
まぶたを閉じて更に真っ暗な世界に逃げ込もうとしたら、携帯が赤く点滅して、毒々しく突き刺さった。なんだよ、こんな時間にメールか?
だるい手を伸ばして携帯をもぎ取り画面を開くと、会ったばかりのやよからメールが来ていた。なんの用だとメールを開くと題名に「今日言うはずだった用件について」と、やたらと長い文が書いてある。そういえばやよに呼ばれたのに結局意味もなく帰ってしまった。芽生さんがあんまりにも怒るから逃げたのである。つーかこんな時間にメールすんなよ引きこもり。うつらうつらと本文を開くと、たった一行、こう書いてあった。
>見せたいものがあるから三日後の十八時にまた来るように
「三日……?」
画面を戻し、カレンダーを表示する。すると、いつの間に過ぎたのか、日付が変わっていた。
四月七日。金曜日。三日後は十日月曜日。何がしたいんだあの真っ白ニートは。
金曜の一限が始まる八時五十分に間に合うよう家を出るには、七時には起きなくてはならない。睡眠時間残り約七時間。僕はそれだけ確認して、やっとまぶたを瞑った。眠りに落ちるのに、羊を数える暇もなかった。
第一章、終了です。