少し困った日
朝のコンビニで、
彼女はまた順番を譲っていた。
「すみません、急いでて」
スーツ姿の男が言うと、彼女は笑って一歩下がる。
「どうぞ」
男は礼もそこそこに去っていった。
レジ横のガラスに映る自分の顔を見て、
彼女――真琴は少しだけ口角を下げた。
別に、譲りたかったわけじゃない。
ただ、「嫌な顔をされるのが嫌」 だった。
それだけだ。
「真琴さんって、本当に優しいですよねぇ」
昼休み。
後輩が嬉しそうに言う。
「そう?」
「だって、絶対怒らないじゃないですか」
真琴は曖昧に笑った。
怒らないんじゃない。
怒れないだけだ。
空気が悪くなるのが苦手だった。
誰かに嫌われるのが怖かった。
だから頼まれると断れない。
仕事も引き受ける。
シフトも代わる。
残業もする。
その結果、
「いい人」 になった。
真琴自身ですら、 それが長所なのか弱さなのか、 もうわからなかった。
仕事帰り。
更衣室でスマホを見ると、母から着信が三件入っていた。
折り返さないまま通知を消す。
代わりにメッセージアプリが震えた。
『今日少し話せる?』
同僚の由梨だった。
駅前の居酒屋。
由梨は化粧が少し崩れていた。
「ごめんね、急に」
「ううん」
真琴は笑う。
由梨はビールを一気に飲んで、 それから小さく息を吐いた。
「彼氏がさ……事故ったの」
「え?」
「バイク」
由梨は目を伏せた。
「入院になっちゃって……」
真琴は反射的に、
「大丈夫?」 と言っていた。
由梨は少し黙ったあと、
困ったように笑った。
「ねぇ真琴」
その笑顔に、
嫌な予感が混じる。
「三万だけ貸してくれない?」
真琴の指先が止まる。
「すぐ返すから」
店内の笑い声が遠かった。
断ればいい。
普通なら。
でも真琴の頭には、
別の考えが浮かぶ。
断ったら冷たいかな。
嫌われるかな。
困ってるのに。
たった三万だし。
由梨は悪い子じゃないし。
沈黙に耐えきれず、
真琴は笑った。
「……いいよ」
由梨の顔がぱっと明るくなる。
「本当に!? 助かる!」
その瞬間、 真琴は少しだけ安心した。
ああ、 嫌われなかった。
それが一番だった。
帰宅後。
六畳の部屋は静かだった。
真琴はバッグから財布を出し、
空いた一万円札の場所を見る。
たった三万。
なのに妙に胸がざわつく。
冷蔵庫を開ける。
何もない。
給料日前だった。
スマホが震える。
由梨からだった。
『ほんとありがとう!』
『今度彼氏も紹介するね!』
『真琴なら絶対気が合うと思う笑』
真琴は少し迷ってから、
『気にしないで』
と返した。
その画面の奥で、
小さく自分が削れたことには、
まだ気づいていなかった。




