第三週ダイジェスト「いっちゃん、上山バスケットへ手伝いに行く」
昭和二十九年夏。
一年三ヶ月ぶりに伯母さんに家に戻ったいっちゃんの心は、ぽっかり穴が空いたようになっていました。
療養中のいっちゃんに届いた知らせはーー。
昭和二十九年夏。
一年少し働いた私は、弱った心臓のせいで、伯母さんのうちで療養していた。
伯母さんは、
「女の子にそんな教養なんかいるもんか、仕事をせんでもここで家事をやりながら体を治しゃあええんじゃ。全部やめてしまえ」
と強い口調で言い出した。こうなると、伯母はもう止まらない。自分の思い通りになるまで、言い続ける。
私は必死で伯母を説得しようとしたが、
「もう決まりじゃ。わしが会社に言うちゃる」
「伯母さん、やめて。わかった。私が会社に連絡する」
「ほうか。わかってくれたんか。じゃあ、ここでゆっくり休んどき」
「……わかった」
私は病気のこともあって、それ以上、強く言うことができなかった。
こうして私は、会社と高校を辞めることになり、しばらく、ぼーっと伯母さんの家で暮らした。
そして一年近く経った昭和三十年六月の雨の日、成羽の俊雄伯父さんから、私宛に手紙がきた。
読んでみると、上山バスケットという会社を作ったが、人手が足りんから手伝いに来いということだった。
「行かんでええ。苦労するだけじゃ、ここにおれ」
と伯母さんは言ったが、私は伯母さんには悪いけど、ここにいたら何もできないと思っていたので、一人、岡山行きの汽車に乗った。
そして、倉敷で伯備線に乗り換える。成羽町には最寄の駅がなく隣の備中高梁の駅が一番近い駅だった。
高梁の駅に着くと伝姉が迎えにきてくれていた。
「いっちゃん、久しぶりじゃが」
「伝姉ちゃん!」
私は嬉しくなって伝姉に飛びついた。
「よう来たなぁ」
「うん」
私と伝姉は俊雄伯父さんのうちまで歩いて行った。
歩きながら、
「仕事はどうなん?」
と聞くと、
「忙しいでぇ。次から次にやることがあるんじゃもの。でも、いっちゃんが来てくれてよかった。計算はいっちゃんの方ができるから、任せるけぇよお」
「ええよ。ところでお給料とかはもらいよるん?」
「そんなものはなぁよ。ご飯はしっかり食べさせてもらえるけど」
「そうなんかぁ」
私はこれまで働いてお金をもらっていたので、少しがっかりしたが、
姉一人で働かせておくわけにはいかないと思い、
「ご飯、食べさせてくれるんならいいね」
伝姉は少し苦笑いのような笑みを浮かべたが、それでも
「いっちゃんがおってくれりゃあ、うれしい」
と言ってくれた。
家に着くと、伯父さんの奥さんであるセツ子伯母さんが迎えてくれた。
セツ子伯母さんは私と伝姉の顔をじっと見て、
「やっぱり、二人とも上山の顔じゃないね。アヤ子さんそっくり」
と言った。
私は、(また顔のこと、言われるんか)と思ったが、
「こんな顔で、生きております」
と精一杯、笑って、その場をやり過ごした。
その日から私は伝姉と同じ部屋に住み込むことになった。
仕事はバスケットの折り目をつけたり、取っ手や本体の加工、組み立てといった内容で、その日の生産状況や休みの人の具合によっていろんなところをやった。
日曜日は休日だが、生産が追いつかないため、日曜日でも晩まで働いた。
伝姉がこれを一人でやっていたかと思うと涙が出た。
たまの休みに二人で部屋にいると、セツ子伯母さんがやってきて、
「いっちゃんは、あんなに綺麗な字を書くのに、どうしてアヤ子さんに似たんかねぇ。上山家の顔なら、いいとこへお嫁に行けるのに」
と、愚痴とも嫌味ともとれる言葉を投げてきた。
そんな時は、伝姉が、
「しょうがねぇが。母親に似たんじゃけ。変えられんがなぁ。まぁ、でも、それがいっちゃんじゃが」
と笑いながら言ってくれた。
伯母さんは、伝姉にかかると、調子が狂うのか、苦笑いしながら、部屋を出ていった。
そのうち、伯母さんは病気で寝込むようになった。
そして、医者から処方してもらった薬を飲むようになったが、その薬が切れそうになるたびに、私と伝姉が交代で、その薬を医院の薬局まで取りに行くようになった。
私は、心臓が少し弱いこともあって、夏の暑い日に薬を取りに行くのが苦手だった。
伯母さんに、
「私は暑いのは苦手じゃから、夏に薬を取りに行くのは勘弁して。その代わり、木枯らしが吹く寒い日でも、雪の降る晩でも、冬ならいつでも取りに行ってあげるけぇ」
と言った。
こうして、夏の暑い間は、いつも伝姉が、そして寒い冬の間は、私が伯母さんの薬を取りに行くという生活を送ることになった。
上山バスケットで手伝いを始めて一年過ぎた昭和三十一年の夏。
私と伝姉は相変わらず、朝から晩まで働いていた。
成羽の町は川沿いにあり、八月には愛宕大花火という花火大会があった。
ある日、工場の予定表の横に『愛宕大花火』と書かれたポスターが貼り出された。町の実行委員会から会社に届けられたポスターの一枚だ。
そして、花火大会の日も私と伝姉は普通に仕事していた。
夕方になると、工場のみんなは仕事を早めに取りやめて、そそくさと花火大会へ向かった。
私と伝姉は、みんなが残した仕事を少しずつ手分けしてやっていた。
と、そこへ、社長である俊雄伯父さんがやってきた。
「なんじゃ? 伝も衣津子も、まだ仕事しょうるんか?」
「うん、みんなの仕事、少しやっとこうと思うて」
と私が言うと、
「そりゃあ、明日でええ。今夜は大花火じゃから、二人で見に行って来い」
と言ってくれた。
私と伝姉は、顔を見合わせて
「ありがとう、伯父さん。行ってきま〜す」
一目散に外へ駆け出した。
「おいおい、少し片付けて……。まぁ、ええか。たまにゃあ、息抜きも必要じゃろうて」
二人で川沿いまで来ると、あちこちに屋台が出て、人通りも多く、賑やかな雰囲気になった。
屋台からは焼き鳥やら、綿菓子やら、いろんなものが売り出されており、食べ物のいろんなにおいがして、お腹が空いて仕方なくなった。
でも、何か買って食べるにもお金を持っていない。
私は伝姉と川辺に腰をかけた。
すると伝姉が、
「ここに座っとき。ちょっと行ってくるから」
と言って、立ち上がった。
「え、どこへ?」
「へへへっ」
(な〜んだ、トイレか)
私は伝姉を見送って、座ったまま待っていた。
周りには、わたあめを舐める子どもやお面を買ってもらった子どもが見えた。少し羨ましい気持ちで見ていると、目の前に突然、焼き鳥が一本差し出された。
びっくりして、焼き鳥を差し出した相手を見上げると伝姉がニコッと笑って
「いっちゃん、これ、いっちゃんの分。私のもあるけぇ、一緒に食べよ」
と言った。
「これ、どしたん?お金なんかないじゃろ?盗んだん?」
「へへ、お使いで預かったお金のお釣りをすこ〜しちょうげ(ごまかし)たんじゃ」
伝姉はしてやったりといった顔で笑った。
私は呆気に取られたが、食べられないと思った屋台のものが急に食べられることになってすごく嬉しくなった。
焼き鳥の串を伝姉から受け取ると、思い切りそれにかぶりついた。
その時、ちょうど大きな花火が上がった。
伝姉と一緒に見た花火は、焼き鳥の味とともに私の記憶の中に永遠に刻まれることとなった。
昭和三十五年。
上山バスケットで働き出して五年が経った。
セツ子伯母さんは、ここ一年くらいは調子を取り戻して、薬も飲まなくなっていた。
薬を取りに行かなくていいのは助かるが、
「あ〜あ、最近、お使いがねえ(ない)けぇ、お釣りをちょうげ(ごまかし)できんがなぁ」
と伝姉が嘆くように、お小遣いがないことは辛かった。
そんなある日、セツ子伯母さんに呼び出された。
「いっちゃん、バスケット工場に来るトラックの運転手さん、知っとる?」
「え?……ああ、あの背の高い運転手さんのこと?」
「そうそう、その運転手さんに、みんなには内緒で、これ渡して。お小遣いあげるから」
と言って、小さく折りたたんだ紙切れを私に渡した。
「はぁ、いいけど、これ……」
伯母さんは少し目を逸らして、
「中身は気にしない、気にしない」
と言った。
「……でも……」
と食い下がる私を、伯母さんはキッと見つめて、
「気にしない! お小遣いいらないの?」
「わ、わかった。じゃあ、渡しとくね」
私は伯母さんの気迫に押され、そう答えた。
いくら鈍感な私でも、この紙切れが何を意味しているのかはわかっている。
が、伯母さんに逆らうことはできない。
私は、その紙切れを運転手のおじさんに渡した。
それから、春から夏が傾くまでの間、私はセツ子伯母さんの伝言係をやった。
ある日の夕暮れ、伯母さんは泣きながら、
「いっちゃん!」
と声をかけてきた。
「伯母さん、どうしたん? なんでないとるん?」
「いっちゃん、あのね……、あの人がおらんようになった」
(つづく)
成羽での生活にも慣れたいっちゃんでしたが、ひょんなことから、伯母さんの「恋」の共犯者になってしまいました。
泣き崩れる伯母さんを前に、いっちゃんは一体、どうするのでしょうか?
来週もお楽しみに。




