80 試験間近
だいじな試験の話は書いておきたくて、更新です。
またしばらくは不定期になります。五月末にはなんとか定期更新にしたいと思っています。ぺこり。
四月も半ばになると、動物たちは出産と子育てに追われるようになる。
ハリネズミは大きなおなかで庭の土を掘り返しては虫を食べている。子連れで訪問するようになるのも、もうすぐだろう。
「オリビア、おはよう」
「おはよう、アーサー」
庭を眺めながら立っていたオリビアを、起き抜けのアーサーがそっと肩を抱いて、一緒に庭を眺める。
「もうすぐ乳しぼりをしなくては」
「俺がやろう」
「じゃあ、お願いね。私は朝ごはんを用意するわ」
「もう少しこのままで」
大柄なアーサーに肩を抱かれたまま庭を眺めていると、森の木立の中を白い大きな鳥がサーッと飛んでいくのが見えた。
「見た?」
「見た。シロフクロウだな。ずいぶん遅くまで餌を探していたようだ」
「そろそろ卵を産む時期だから、たくさん栄養が必要なのかも。アーサー? リリはもうお乳を飲み終わっている時間だわ」
「仕方ない。君ともう少しこうしていたかったが、ペペのお乳を搾ってくるよ」
そう言ってアーサーはオリビアの頬にキスをしてヤギ小屋へと向かった。
オリビアは店の中に入り、かまどに火を入れてから店の床にモップをかけた。昼の営業に向けて野菜を刻み、大鍋に放り込むと、煮立つまでの時間を使ってテーブルと椅子を拭く。
几帳面な祖父が「ほこりがあるような店は客に嫌われる」と拭き掃除をしながら毎回言っていたのを思い出す。その都度祖母は「うちはあなたのおかげで清潔だわ。わずかなホコリを気にするような客は、うちには来ないわよ」と言っていた。
「何気ない会話って、案外忘れないものね。私たちはああいう夫婦になれるかしら」
拭き掃除をしながらつぶやいた。裏口が開いて、ララが入ってきた。
「オリビアさん、おはようございます!」
「おはよう、ララ。今日のうちに出発するんでしょう?」
「はい。もうここまで来たらなるようになれです。やるだけはやりました。余裕を見て今日の午前中には王都に向かいます」
「きっと大丈夫。体調にだけは気をつけて。アーサーが送って行くから、心配はいらないわ」
「いいんですか? お仕事を休んでもらって」
「いいのよ。フレディさんにはちゃんと許可は貰ってあるんですもの」
一週間後の薬師試験に向けて、国中から薬師試験、医師試験を受ける若者が王都を目指す時期だ。
『スープの森』にも、試験を受けると思われる若者が立ち寄るようになった。
毎年のことだが、緊張感漂う若者が食事をしに立ち寄ると、オリビアは(頑張ってね。全力を尽くせますように)と祈るような気持ちになる。
アーサーがミルクを持って戻ってきた。
「ララ、おはよう。準備が終わったら早めに出発しよう」
「はい。アーサーさん、お世話になります」
「当然のことだよ。遠慮は無用だ」
こうしてアーサーとララは昼の営業が終わる前に出発して行った。アーサーは「夜の戸締りをしっかりするように」と二回も念を押して出発した。
二人を見送った猫たちとロブはいつものように朝ごはんのあとは寝ているが、暖かくなった今はもう、三匹で固まって眠ることはなくなった。それぞれが居心地の良い場所を見つけて寝ている。
やがてカランとドアベルの音がして、レジーが入ってきた。
「いらっしゃい、レジー。久しぶりね」
「ああ、絵の仕事が立て込んでいるんだ。ありがたいことさ。全てはオリビアたちのおかげだよ。日替わりのスープとパンを二枚、おかずも頼むよ」
「はい、ちょっと待っていてね」
今日のスープは赤エンドウ豆と豚肉のスープ。とろけそうになるまで煮込んだニンジンと玉ねぎも入っている。おかずは春キャベツとハムのマリネ。こってりしたスープを食べた口の中を、さっぱりさせてくれる副菜だ。
レジーはパクパクと食べながら、別荘街の情報を教えてくれた。
「オリビア、そういや別荘街で大規模な工事が始まっているんだよ」
「あら、そうなの?」
「王家の指導で別荘街を広げて、土地の賃料を稼ぐ方針らしい。商売で成功している平民が増えそうだ」
「そう……」
「気がすすまないのか?」
「知らない人が少し苦手なの」
「そうか。それでも君はずいぶん変わったよ」
「変わったとしたら、アーサーやお客さんたちのおかげよ」
レジーが眩しそうな顔をした。
以前のオリビアなら「そうかしら」で会話を終わらせていたところだ。
レジーがせっせと豆と豚肉のスープを食べていると、続々と常連が入ってくる。にぎやかになった店内で、オリビアは一人で忙しそうに店と台所を往復している。レジーが見かねて手伝いを買って出て、二人で働いていると、一人の若者が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
声をかけたオリビアの身体がピクッと動いた。細い身体つきの若者は十六、七さいぐらいか。暗い顔をしているだけでなく、心の中から強い困惑、焦り、不安が流れ出していた。
「どうぞこちらへ」
オリビアはとっさの判断で若者を台所に一番近い席に案内した。他の客から離したのは、この若者になにか困ったことがあるのなら人に聞かれないような場所に座らせたほうがいい、と判断したからだ。
若者は言われるままに一番奥の台所に近い席に座ると、落ち着かない様子で店内を見回し、両手を膝の上で握ったり開いたりしている。
若者の心の声が聞こえてきた。
『どうしよう。どうしたらあの女の人に信じてもらえるだろうか』『警備隊に突き出されでもしたら、試験に間に合わない』
(この若者もお城の試験を受けに行くのね)
オリビアは若者に注文を聞きに行くと、若者は「パンだけでもいいですか」と言う。オリビアは声を小さくして尋ねた。
「もしかして、お財布を失くしましたか?」
「えっ、あっ、はい。ですが、家が遠いのですぐにお金を取ってくるわけにいかないので、これで食べられる分だけ出してもらえますか?」
若者がテーブルに並べたのは小さいほうの銅貨二枚。パン二枚にも足りないが、オリビアはそれをそっと押し戻した。
「試験を受けに行くのではありませんか?」
「あっ、ええ、はい、そうです。ですが、夜眠らないで歩いてももう間に合わないかもしれません」
王都のお城まで、馬車を使ってのんびり進んで三日。徒歩で行くとなれば、多分もう間に合わない。
「まずはおなかいっぱい食べてくださいな。お金のことは心配いりませんから」
「でも」
「いいの。試験会場までも、なんとかしてあげる」
そう言ってオリビアは若者にスープ、パン二枚、おかずを並べ、お茶も出した。
「召し上がれ」
「ありがとうございます。僕はメイソン。南部の街から乗合馬車で移動している途中で、お金を盗まれてしまって」
そう言うと涙ぐんだ。
「わかったわ。とにかく食べて。試験に間に合うようになんとかしてあげる」
「あり……ありがとうございます」
若者は泣くのを必死に我慢しているようだ。
(今までさぞかし心細い思いをしてきたのね)とオリビアがポケットからハンカチを差し出すと、「大丈夫です」と言って袖口で涙を拭いた。
レジーが目で『どうした?』と聞いてきたので、台所に引っ張り込んで事情を説明した。
「レジー、アーサーの馬車を追いかけてあの子を馬で送ってくれないかしら。仕事が忙しい?」
「忙しいが、融通がきく仕事だ、送って行くよ。もしかして、あの子は試験を受けに行くのかい?」
「そうらしいわ。お財布を盗まれたみたいなの」
「ああ、そりゃ心細い思いをしたな。可哀そうに。よし、俺に任せてくれ。アーサーの馬車に追いつくまではあの子を送って行くよ」
「助かるわ。ありがとう」
「なんの」
食べ終わったばかりのメイソンに、オリビアはレジーが送っていくこと、馬車に追いついたら同乗させてもらうこと、ここに戻ってくるまでのお金を持たせてあげることなどを一気に説明した。
「ありがたいですけど、どうしてですか?」
「どうしてって、困っている人を助けるのは当たり前のことよ」
オリビアはそういうとハンカチに包んだパンとソーセージ、水筒、何枚かの銀貨を渡した。
「さあ、レジーと一緒に馬に乗って。試験、頑張って。行ってらっしゃい!」
「ありがとうございます! 必ず恩返しをします!」
若者は馬に乗って去って行った。
「さて、と」
「オリビア、レジーの奥さんに連絡が必要なんじゃないのかい?」
「あっ、そうなんですけど」
「いいよ、話は聞かせてもらった。俺がレジーの奥さんに事情を話してきてやるよ。馬も馬車もなしでマーローまで往復するのは骨だ。住所はわかるのかい?」
「ええ、さっきレジーが書いてくれたの」
こうして次々と親切の輪が広がって、レジーの妻リアナには連絡が届いた。
その報告も受けて、オリビアは久しぶりに一人の夜を迎えた。
誰もいなくなった店に立ち、壁に貼ってある四人の絵を眺めながら、祖父母に話しかけた。
「おじいさん、おばあさん、私ね、あの若者が試験に合格できるといいなって、本気で思うの。私、少しは変わったわね?」
「なあん」『どうしたの?』
「あら、スノー、どう? 今夜は私と一緒に眠らない?」
「ナン」『いい』
「あらそうなのね」
「ニャッ」『ボク、一緒に眠る』
「よし、じゃあ、今夜はダルと一緒に眠ろうかな」
穏やかな夜。腕の中のダルの匂いを嗅ぎながら、オリビアはぐっすりと眠った。庭のイチイの樹の枝にシロフクロウが止まって、また獲物を探して夜の空へと飛び立った。