79 レジーの妻リアナ
『スープの森』に飾られた四人の絵は、多くの人を呼び寄せていた。
普段は来ない常連さんの奥さんたちまで「その絵を見てみたい」と言って夫と一緒に来る。
「ああ、たしかにマーガレットとジェンキンズだわ。私、この店ができたころ、よく通ってたの。そして夫と知り合ったのよ」
「そうだったんですか」
「いいわねえ、この絵。私も娘が家にいる間に描いてもらいたいわ。うちの娘は、結婚したら王都で暮らすらしいのよ」
「これを描いてくれた人が今どこにいるのかわからなくて。そのうちここに来るとは思うんですけどね」
しかし、レジーはなかなか『スープの森』に来ない。アーサーに聞いても「マーローの街の入り口で降ろしてくれと言われて別れたから、どこにいるのかわからない。すまない」と言われた。
「そのうち来るわよね」と思いつつ待った。
レジーが店に来たのは三月も終わるという日。昼のお客が帰った午後の三時ごろのことだ。
「レジーさん! 待ってましたよ」
「あれ? なにか俺に用事があったのかい?」
「あったの。みんなが……」
言葉を途中でのみ込んだのは、レジーの大きな身体の後ろに可憐な女性が立っていたからだ。
「レジー、こちらの方は?」
「俺の奥さんのリアナだ。マーローに着いた日の夜に結婚を申し込んで、翌日に結婚したんだ。リアナ、この人がオリビアだよ」
「結婚? 奥さん?」
「うん。まあ、そういうことだ」
レジーがきまり悪そうな顔だ。するとその女性が一歩前に出て笑顔で挨拶をしてくれた。
「初めまして、オリビアさん。リアナです」
「はじめましてリアナさん。さあ、立ち話はここまでにして、どうぞ中へ」
二人を席に案内しながら「スープを食べていってくださいな。春キャベツのスープにソーセージが入っているの」と話しかけると、二人は嬉しそうに互いの顔を見ている。その様子が混じりけなしに幸せそうで、(十年ぶりに戻って来たばかりで結婚て、どういうこと?)と驚いたオリビアだが、(心配はいらなさそう)と安心した。
台所に一番近い席に二人を案内し、台所に立った。スープ、バターで焼いたパン。付け合わせはマスのマリネ。お茶は、最近葉を出したばかりのミントを加えたミントティーだ。
レジーとリアナは嬉しそうに食べ、笑顔で「旨いな」「美味しいわね」と言い合っている。
リアナに「ご迷惑でなければ同席してください」と言われて、テーブルに着いた。
オリビアはさっきララと食べたばかりだったので、お茶だけだ。
「オリビア、俺がマーローに腰を落ち着けようと思ったのは、リアナがいたからなんだ。きっとだめだろうと思っていたが、リアナはずっと俺を待っていてくれた。俺にはもったいないほどの人だよ。だから、その場で結婚を申し込んだ」
「そうだったの。ずっと待ってたって、お二人が最後に会ったのはいつなんですか?」
オリビアがそう尋ねると、リアナは恥ずかしそうに笑ってから「十年前なの。私がレジーに『待ってる』と言ったら、『待たれても困る。やめてくれ』って言われましたけどね」
「レジーったら、そんなことを言ったの?」
思わず責めるような目でレジーを見てしまう。
「俺は画家として売れる見込みがなかったのに、諦めがつかない時期だった。あの頃にリアナと結婚していたら、間違いなく苦労させたよ。なのに」
途中で言葉を止めたレジーの目が潤んでいた。
「なのに、リアナはいくらだっていい男と結婚できただろうに。こんな……俺みたいな男を十年も待っていてくれたんだ」
「そうだったの。十年も……。ありがとう、リアナさん。レジーは私の兄みたいな人なの。本当にありがとう」
するとリアナは穏やかに笑って、「だって」と言う。
「だって、マーガレットさんとジェンキンズさんは二十年以上離れていたのに、あんなに幸せそうに暮らしていましたわ。それを思ったら十年はたいしたことじゃありません」
「たいしたことですよ。リアナさんは、うちのおじいさんたちを知っているんですね?」
「ええ。レジーがいなくなってから、一度だけこの店に食べに来たことがあるんです」
「まあ。十年前なら私も働いていたはずなのに、気がつかなくて失礼しました」
「いいえ。十年前に一度だけ来た客を覚えていないのは当たり前です」
そこからリアナは落ち着いた笑顔で話し始めた。
「当時、どんなにレジーを引き留めても他の街に行くと言うし、待つのもだめだと言われて、私はしばらくは泣いていたの。でもある日、レジーがお世話になっていたお店はどんなところなのかしらって、食べに来てみたんです。元気なく食べている私を心配したのでしょうね。ジェンキンズさんが話しかけてくれたわ。料理は気に入ったかとか、どこから来たのか、とか」
そこまで笑顔で話をしてリアナが目を潤ませ、スン、と鼻を鳴らした。
「あの壁の絵を見て、はっきり思い出しました。あの笑顔でした。私、お金を置いて店を出て、マーガレットさんとジェンキンズさんが羨ましくて、街道の向こう側で木の陰に隠れて泣いたの。それが窓から見えたんでしょうね。ジェンキンズさんが出てきて『どうしました? 靴ずれでもできましたか』って。そこから長いこと話をして、お二人の昔の話もしてくれて、私を励ましてくれました」
「まあ」
「別れ際に、『後悔しない道をちゃんと見つけられるといいね』と言ってもらったのが忘れられなくて。私はレジーが戻って来てくれるのを待つ道を選んだの」
レジーが眩しいものを見るような顔でリアナを見てからオリビアに顔を向けた。
「自分のことしか考えられなかった俺を、リアナは十年も待っていてくれたんだよ」
「レジー、よかったわね、こんなにすてきな人に待っていてもらえて」
「ああ。俺は一生分の幸運を手に入れた。だから絵を諦めることはもう、なんでもないよ」
オリビアはそれを聞いて絵の依頼の話をしにくくなったが、客たちには頼まれているから知らん顔もできない。
「あのぅ、きっぱり諦める覚悟をしたところで悪いんだけど、お客さんたちに家族の絵を描いてほしいって頼まれているの。今のところ八人。どうする?」
レジーは何度か目をパチパチと瞬いた。
「俺に?」
「そうよ。あの絵を見て、自分の家族も描いてほしいって」
「絵を諦めたとたんに注文が入るのか。皮肉なもんだなあ」
「よかったじゃないの、レジー。うちの仕事は大丈夫だから、引き受けて描いてあげてよ」
「だが……」
「リアナさんのお仕事って? 聞いてもいいいのかしら」
「うちは、私一人で焼き菓子のお店をやっているの。両親が生きていたころは三人でやっていたんだけど、去年の悪い風邪が流行ったときに二人とも旅立ったんです」
「なんてことでしょう。ああ、お気の毒に。あの流行り風邪はたちが悪かったですものね」
「レジーがお店を手伝ってくれることになったのですけど、絵の注文が入ったのなら、まずはそちらを優先してほしいです」
「いや、どっちもやるさ」
オリビアは仲のいい二人を見ながら祖父母に心の中で話しかけた。
(おじいさん、おばあさん、レジーもリアナさんも、二人にとって最善の道を選んだみたいよ。よかったわね)
「じゃあ、引き受けてくれるのね? 料金を決めてくれたらお客さんに伝えるわ。それでいいとなったら、その人の家に行ってくれる?」
「ああ、それでいい。俺に絵の注文をしてくれる人は、俺にとっちゃ天使だ」
「おじさんがほとんどだけれど」
「おじさんの天使だな」
三人で笑い、楽しい時間を過ごした。そろそろ夕食の準備をする時間になり、二人が帰ることになった。それまで台所で本を読んでいたララが、「私がマーローまでお二人を送ります」と言う。
「助かるわ。マーローまで送ったら、のんびりしてきていいから」
「えっ、いいんですか?」
「今日は靴店がお休みの日でしょう? きっとコリンも会いたがっているわよ」
「は、はい」
ララが赤くなった。
レジーとリアナを乗せた馬車が出発した。馬車を見送り、椅子に座ってしみじみした。リアナが良さそうな人で安心した。
オリビアは人の心を知ってしまう能力のおかげで、優しそうな笑顔の陰でどす黒い感情を抱いている人が珍しくないことを知っている。だからこそ、リアナの裏表がなさそうな人柄が嬉しい。漏れてくる感情は優しいものばかりだった。
「なあぁん」『だっこ』
「あら、ダル。どうしたの? 甘えたくなったの?」
「なぁん」『だっこ ミルク のみたい』
ヤギミルクが飲みたいと訴えるダルを抱き上げて、オリビアは流しに向かった。ヤギミルクは瓶に詰められ、桶に汲んだ井戸水で冷やしてある。
「ヤギミルクを飲もうか」
「にゃっ」『うん! 飲む』
「なぁぁん」『私も 飲む』
ダルを床に下ろしてミルクを器に入れている間に、いつのまにかスノーもやってきていた。期待した目でオリビアを見上げながら、ダルと並んで尻尾をピーンと上げている。ロブは口を開け、尻尾を左右に振っていた。
「私も飲もうかな」
『うん! いっしょ 飲む!』
三匹が同時に返事をして、思わず笑ってしまう。
アーサーと結婚して以来、「人間でよかった」と思うことが頻繁にある。
ぺちゃぺちゃと音を立ててヤギミルクを飲む三匹を見おろしながら、「これが幸せってことなのね」と声に出した。
三匹が同時に『なに?』と見上げ、三匹とも口の周りがミルクで白い。可愛くて愛しくて、オリビアは微笑んだ。
次回までしばらく間があきます。
2ヶ月くらいだと思いますが、のんびりお待ちくださいませ。ぺこり。





