51 猫のダル
ララは当分の間、離れで暮らすことが決まった。
「オリビアがそうしたいなら、そうすればいいよ。俺は君が満足してくれればいい」
「ありがとうアーサー。ララは薬草と病気のことだけじゃなくて、料理も覚えたいらしいわ」
「すっかり君に懐いたようだな」
「私もララが妹みたいで可愛くって」
二人は今、庭のベンチに座っている。
目と鼻の先にはハリネズミがいて、鼻や前足で土を掘っては土の中の虫を食べている。このハリネズミは以前に子ハリネズミを連れて来ていた母親だ。
『うまっ うまうまっ』
雪が積もるようになると、この国のハリネズミは冬眠する。いまのうちにたっぷり食べて脂肪をつけるため、ただひたすら食べることに集中しているハリネズミ。それをオリビアがそっと手のひらに載せて眺める。
ハリネズミはキョロキョロしてからオリビアを見上げ、『虫 ない』とつぶやく。ご機嫌だった感情は悲しい気持ちへと急降下だ。
「ごめんごめん。さあ、ゆっくり食べて」
ハリネズミを菜園の土の上に置き、今度はアーサーと二人で餌台の野鳥たちを眺める。
六羽のスズメがせわしなく野菜くずやパンくず、火を通した豚の脂身を食べている。豚の脂身は、野鳥たちに人気が高い。
近くの枝にシジュウカラがとまっていて、スズメたちが食べ終わるのをずっと待っている。
野の鳥たちが餌台で餌を食べる順番には厳密な決まりがある。数や体格で立場の強いものが優先だ。立場の弱い者は順番が回って来るのをひたすら待つ。強い鳥の割り込みは当たり前だ。
(シジュウカラの順番が来るまでに餌がなくなったら、何かを足してやろう)と思いながらオリビアが話を始めた。
「ララがね、ここに来る前の自分は人間じゃなかったのかもって言うのを聞いて、思わず涙が出たわ。私を保護してくれて育ててくれた祖父母の気持ちが少しわかった気がするの。赤の他人の私をあんなに可愛がって愛を注いでくれたのは、今の私みたいな気持ちだったのかもね」
それを聞いたアーサーは、初めてさくらんぼのお茶を飲んだときのことをくっきりと思い出した。
「俺は自分で望んで傭兵になったからララとは事情が違うけど、ララの気持ちがわかる気がするよ。俺はさくらんぼのお茶の作り方を聞いたときに、『この世にはこんな心豊かな暮らし方があるんだ』って、衝撃を受けたな」
「そうなの? 初めて聞いたような」
「落ちてきたさくらんぼを集めて乾かして、茶葉に混ぜてお茶を飲む。俺にとっては夢のように豊かな暮らしだ。オリビアには言ってなかったかも。俺はいつも言葉が足りないな」
「いいのいいの。あなたの全てを知る必要はないもの」
少し驚いた顔をしたアーサーが、餌台からオリビアへと視線を動かした。
「あなたがどんな人でどんな過去があったとしても、私は今のあなたが好きだわ」
「……ううう、俺はお返しにそういう気の利いたことを言えそうにない」
「ふふふ。それもいいの。そういう口下手なあなたが好きよ」
アーサーの灰色の髪は、店に来たときはかなり短かったが、今はずいぶん伸びた。その灰色の髪を両手でガシガシとかき回し、アーサーは困ったような嬉しいような顔をしている。
ぐしゃぐしゃになったその髪を笑いながら整えるオリビアは幸せだ。
『ツガイだ』
「ん? 誰かしら」
「どうした? なにか聞こえたのか?」
「ええ、今、『ツガイだ』って。きっと近くから私たちを見ているはず」
二人で周囲を見回すが、これといった動物が見当たらない。
「どこかしら」
『ここだよ』
「どこにいるの? お顔が見たいわ」
『ここだよ』
「んんんー? どこ?」
「オリビア、こいつかな?」
アーサーが馬小屋の脇にかがみ込んでいる。
『みつかった』
「どれどれ?」
『ツガイ きた なかよし ツガイ』
馬小屋の脇の日当たりがいい石の上。白黒の猫がいた。左目が閉じたままになっている。
「こんにちは。目は怪我したの?」
『ずっと こう』
「そうなの。あなたのおうちはどこ?」
『おうち ない』
この辺に野良猫はいなかったはず。どういうことだろうと猫の記憶を探ると、猫はたまたま食べ物をくれた男性に懐き、馬車に乗って移動していたようだ。だが男性はこの猫にそれほど関心がなかったらしい。
遊びに出かけた猫を探すことも待つこともなく移動してしまったようだ。
猫は何日間も街道を歩き続け、草むらで眠り、ここまで来た。今は酷く腹を空かせている。
「おうちがないなら、うちの子になる? 犬とヤギがいるけど」
『あったかい? ごはん ある?』
「暖かいわよ。ごはんもある。でも、うちの子になるなら一度体を洗わせてね」
『あらう イヤ』
「だってあなた、あちこちにダニがついてる。そのままでは家に入れられないわ。体を洗ったら、鶏肉を食べさせてあげる」
『ニク! ニク!』
白黒の猫は急に大きな声でミャウミャウ鳴きだした。
「よし、じゃあ、ぬるま湯を用意するから。洗わせてね」
『あらう イヤ!』
イヤと言いながらも逃げない猫を抱き上げ、アーサーに
「井戸のところまでかまどのお湯を持ってきて。石鹸も。あと、ダニに塗る薬草液も!」
と頼む。アーサーは「了解」と答えて店に入り、すぐにお湯を運んできた。
外で猫を洗う。あちこちに食いついているダニをさっさと抜き取りたいが、そのまま引っ張るとダニの頭が残ってしまう。虫が嫌がる薬草液をダニに塗り、嫌がったダニが動き始めたらどんどん抜き取る。
それを見たアーサーがかまどから燃えている薪を一本持ってきて、抜き取ったダニを次々焼いて始末する。自作の薬草液は、森のほとりで暮らすオリビアの必需品だ。
石鹸で洗い、ぬるま湯で何度もすすぎ、乾いた布で拭く。汚れていた猫は、いい匂いのふわふわな猫に変身した。
『ニク うまー ニク! うまい ニク!』
猫はムッチャムッチャと音を立てながら、ゆでた鶏肉を食べている。それを見ていたロブが『いいなあ ニク 食べたいなあ ニク』と考えている。笑いながらロブにも少し与える。
猫はロブが近寄ると背中の毛を逆立てていたが、ロブに敵意がないと知ると鶏肉に集中した。
鶏肉を食べ終わり、顔を洗い始めた猫をなでながら、ロブに話しかけるオリビア。
「ロブ、この猫に優しくしてあげてね」
『ネコ 仲間?』
「そうよ。ロブの仲間になったの」
『ネコ 仲間 守る』
「ありがとう。ロブは本当にいい子ね」
ロブは褒められると口を開けて笑った。
今日はララがマーローの街まで出かけている。
アーサーが休みだと知ったとたんに「買いだし係を引き受けます」と言って自分の馬車でマーローに出かけて行った。気を遣っているのか、街を見たかったのか。両方かもしれない。
ふわふわになった猫を抱いてヤギたちにも挨拶に離れに連れて行く。
「この子が今日から家族になったの。よろしくね」
『ネコ キライー』『ネコ キライー』
「ピート、そんなこと言わないでよ。ペペが真似するじゃないの。猫がいるとネズミがここに来なくなるのに」
ネズミが嫌いなピートは『ネコ いい ゆるす』といきなり態度を変えた。ペペはなんでもピートの真似をするから、これで安心だ。猫を抱いて庭のベンチに座る。背中を撫でるとゴロゴロと喉を鳴らした。
「あなたの名前、なにがいいかしらね」
『ブチ コロン チビ ダル ディーテ』
猫の心に、名前とセットで人間の顔が浮かんでくる。あちこちの家でいろいろな人からいろいろな名前で呼ばれて食べ物をもらっていたらしい。
「ダル、はどうかしら」
『ダル おじいさん ダル さかな」
ダルと呼んでいたおじいさんは魚をくれたようだ。それはどこだろうか。湖の近くか、はるか遠くの海辺の町だろうか。猫の中にある記憶ではそこまではわからない。
「ダル、お店と台所に入るのはだめ。わかる?」
『だめ なんで?』
「猫が苦手な人もいるし、料理に毛が入るとお客さんが来なくなっちゃう」
『オキャク こない だめ?』
「お客さんが来なくなったら、あなたにお肉を食べさせられなくなるわ」
『ニク ない イヤ』
「いやよね。だから二階と、階段と、庭で遊んでね」
『ここ 庭 好き』
「いいなあ、便利だなあ。俺も犬や猫としゃべりたいよ」
オリビアの言葉から会話の内容を推測しながら聞いていたアーサーは羨ましがっている。
ダルは二階の窓際に毛布を敷いてもらい、眠り始めた。
庭の餌台では、シジュウカラの順番がやっときた。オリビアはシジュウカラのために刻んだ干しブルーベリーをそっと追加した。