52 アーサーの心の底
ララは買い出しから戻ってダルを見るなり「猫ちゃんっ!」と叫んでダルを抱きしめようとした。
『コワイー コワイー』とダルは素早く逃げる。
「ララ、ダルが怖がってる。静かにそっとね」
「すみません。私、猫と暮らすのが夢だったもので。ダルって名前なんですか? うわぁ嬉しい! 猫だわぁ」
『コワイ ウルサイ ウルサイ コワイ』
ダルはうるさい人間が怖いらしい。
ララが歩いているダルの背中に触ろうとすると、ダルは背中をしならせて逃げる。簡単には触らせるつもりがないようだ。そしてオリビアの脚にスリリィと身体をこすりつける。
「もう、私にだけ冷たいなあ、ダル」
がっかりするララは、オリビアが料理する様子を全部メモに書き取っている。
オリビアは祖母に「天気や季節、食材の状態によって最良の味つけは変わる。メモを取るよりも自分の舌で味を覚えなさい」と言われた。だが、ララにはやりたいようにやらせている。
二人が料理をしてたら、スズメのチュンが窓枠にとまった。
「久しぶりね、チュン。元気でよかったわ」
『雨 いっぱい! いっぱい!』
「あら……あんまり大雨になるようなら、うちにおいで。馬小屋でもヤギ小屋でもいいから。お友達も連れて来ていいわよ」
チュンは返事をせずにそのまま飛び去ってしまった。
「オリビアさん? 大雨って?」
「あの子は私が育てたから、なんとなくあの子の様子で雨が降るかどうかわかるのよ。大雨になるような気がするわ」
空気は重く湿気が立ち込めている。アーサーは雨が降る前に帰って来られるだろうか、と心配だ。昼を食べに来た客たちには「かなり降るみたいですよ」と知らせて回った。客たちは
「助かるよ」
「今日のうちに明日の分まで野菜を収穫しておくか」
「出かけるのは雨が通り過ぎてからにしよう」
などと言って、食べ終わるといつもより早く帰っていった。
夕方になり、雨が降り出した。雨足はまだそこまで強くないが、真っ黒な雨雲の厚さが不気味だ。
秋本番の雨は冷たい。野の獣、野の鳥は濡れずにすごせる場所があるのだろうか、と窓の外を見ながら思う。
そのうち、屋根や庇に当たる雨の音がドドドドと強くなった。アーサーはまだ帰って来ない。窓から外を見ていると、ダルがまたスリリィと顔と身体をオリビアの脚にこすりつけてくる。
『ツガイ こない』
「帰ってこないわね。心配してくれてありがとう、ダル」
『雨 きらい』
「濡れるのは嫌よね。って、あれ? お店に入らないって約束したでしょう?」
『人間 いない』
「うーん、そうだけど。わかった、じゃあ、お客が帰った夜は入ってもいいことにしようか。でも、ここでカッカッカはしないでね」
カッカッカとは足で体をかくこと。オリビアが手でその動作をして見せていると、店の隅で勉強をしていたララが「オリビアさんは猫の真似が上手だわ」と感心している。
雨で外の景色が白く煙って見えるようになった。オリビアが本気で心配し始めた頃、やっとアーサーがアニーに乗って帰ってきた。
「大変、ずぶ濡れね。冷えたでしょう」
「ああ、途中で具合が悪そうな人を拾って家まで送ったんだよ」
「それはお疲れ様。すぐに着替えて。私はアニーを拭いてくる」
「オリビアさん、アニーは私がやります。オリビアさんはアーサーさんを!」
「ありがとう、ララ。じゃあそうさせてもらうわね」
「なんだか寒いな。頭も痛いんだ」
無言でアーサーの話を聞きながら、今朝、アーサーがいつも以上に寡黙だったことを思い出した。あのときにはもう体調が悪かったのかもしれない。アーサーは「食欲がないから夕食はいい」と言って二階へ上がって行く。その背中に普段の元気が全く見られない。
(これは風邪っぽいわね)と思ったオリビアは、店の札を「閉店」に変えた。
「ララ、申し訳ないけど、薬師のお勉強をするならお店でしてくれる? この雨の中、万が一でもお客様がいらっしゃったら、必ず入れてあげてね」
「わかりました。アーサーさんの具合はどうですか」
「風邪だと思う。こじらせないで治るといいんだけど」
ダルは台所の隅のロブのベッドで眠っている。ロブも慣れてきて、ダルを踏まないように気をつけながら自分もベッドに入った。犬と猫が抱き合うように眠っている姿を見て、ララはほっこりした気分で勉強を始めた。
二階の部屋ではアーサーが熱を出し始めている。夜が深くなるにつれて熱が上がっていく。
アーサーは赤い顔で呼吸が荒い。
祖母は『病を追い出すために身体は熱を出すの。だから熱を下げるのも様子を見ながらよ』と言っていた。
オリビアはアーサーの胸に炎症を抑える湿布を貼り、風邪のときに飲むと身体を温めるショウガのスープを作った。温めたスープと薬草茶を持って二階に上がると、アーサーが熱で潤んだ目をしてオリビアに呼びかけた。
「オリビア」
「はい。なにか欲しいものはない? してほしいことは?」
「頭痛を抑える薬をくれるか? 頭が割れそうに痛いんだ」
「わかったわ。つらいわね」
「オリビア」
「はい」
「今しか言う勇気がないから、今、言っておくね」
「なあに?」
「俺になにかあってこの世からいなくなったら」
「アーサー? 何を言ってるの? あなたのはただの風邪よ?」
「それでも聞いてくれ。もし俺が先に旅立つことがあったら、泣き暮らすようなことだけはやめてくれ。いい人を見つけて再婚して、笑って暮らしてくれ」
熱に浮かされていると、人の心は乱れる。普段は理性が幾重にも本音を包み隠しているのに、その理性が緩んで本音が出てしまう。元気なときなら絶対に言わなさそうなアーサーの言葉を聞いて、オリビアは死と隣り合わせで生きてきた彼の傭兵時代を思いやる。
(アーサーはそんなことを心の奥で考えていたのか)
生きるために死と隣り合わせの仕事をしなくてはならなかったアーサー。彼を癒したいと心から願う。
「わかったわ。あなたがそう望むならそうします。でもね、私は灰色の髪で剣の腕が立って、大工仕事が得意で、さくらんぼのお茶と私が作ったベーコンが好きで、ロブやヤギ夫婦やダルやララに愛される人じゃないと、再婚したくないわ」
それを苦し気な息で聞いていたアーサーが「ふっ」と笑う。
「それは、見つけるのに苦労するな」
「ええ。だから勝手に先にいなくならないでね」
「ああ、努力するよ」
「さあ、寝てください。病気は眠っている間に出ていくものなのよ」
雨は明け方になっても降り続いている。
アーサーを起こさないよう静かに階下に向かったオリビアに、先に起きていたララが目を丸くして駆け寄る。
「オリビアさん、オリビアさん!」
「どうしたの? ララ」
「馬たちに餌やりに行ったら、馬小屋が大変なことになってます!」
「ん? 大変て?」
「いろんな種類の野鳥が雨宿りしてます。たっくさん梁に止まっているんですよ!」
「ああ。気にしないで大丈夫。雨が上がればいなくなるでしょう。馬たちは?」
「鳥のことは気にしてません」
「なら、ますます大丈夫。教えてくれてありがとう」
「はぁ。そうですか」
馬小屋を見ることなく、オリビアは朝食を作り始めた。
雨は昼前にやっと上がり、店には客が入り始めた。オリビアはララに頭を下げて頼み事をする。
「申し訳ないけど、マーローの街のフレディ薬草店まで行ってくれないかしら? アーサーは風邪で数日お休みしますと伝えてほしいの」
「もちろんです! 頭を上げてください。ではすぐに行ってきます!」
「本当に助かる」
「これしきのこと!」
ララは笑顔で馬車に乗り、マーローへと向かった。





