229話
――光のせいで目がくらむ。
見上げた空は高くのぼりすぎた太陽のせいで真っ白に見えた。
夏。
立っているだけで汗ばむほどの暑気。空気が重い。全身がぬるま湯につかっているみたいで、ただ歩くだけでクタクタだった。
それなのに坂道をのぼっている。
長い坂だ。いつ登頂できるのかわかりゃしない。
硬いアスファルトの地面を歩く。
どうやら重い荷物を背負っているらしい。
それも、本当に重い。
鉛でも詰め込んだんじゃないかというぐらいの重量で、一歩ごとに全身の力を使い切りながら歩かなくてはいけなかった。
一歩一歩、足を止めながら進む。
なんでこんなにつらい方法を選んだんだろう。もっと楽なやりかたもあったはずなのに、なぜ他の方法を選ばなかったのだろう。
こんな――なにもない坂道で。
電車も、バスも――仲間も、いない。
ただ歩くことだけしかできなくって、その事実に打ちひしがれている。
坂をのぼる。
なんていう炎天下だろう。こんな日は、外に出ること自体正気の沙汰じゃない。
そんなこと、わかりそうなものなのに。
彼は一人で歩いていた。
坂道は続く。
頂は見えない。
まだ、見えない。
○
けっきょく、そのあとどうなったかの記憶はなかった。
理由を忘れた努力。
結果を忘れた過程。
ただ、真夏ののぼり坂が強く心に焼き付いているだけで、あれがなんのための道行きなのかすらわからない。
光景は断片的に流れていく。
どれもこれも、似たようなものばかりだ。
ふらふらになりながら。
クタクタになりながら。
努力ばかりを記憶していて、結果をまったく覚えていない。
たどり着けなかったのか、覚える価値もなかったのか。
その記憶は――その人生は、つらいだけで虚しいものだった。
――価値がなかったんだよ。だって、俺がしたいことじゃなかったから。
誰かの声がする。
目の前には真夏の坂道。
冴えない男が、よくわからない苦労をしている。
――いつもなにかを人に頼まれていた。それをこなしていけばいいだけの人生だった。
もう一歩、もう一歩、気合いを入れながら進んで行く。
でも、終わりは全然見えない。――現実ではなく、心の原風景めいた光景。
――ある日、疑問を覚えたんだ。俺の人生は誰のためにあるのか。
足が、止まる。
息をついて、気合いを入れて、でも、もう一歩も、前へ進めない。
――自分のためにあるんだから、自分がしたいことをするべきだって、思った。
景色がせわしなく変わっていく。
勉強を強要される幼児がいた。
同じデザインの服を着た男女になにかを押しつけられる少年がいた。
忙殺されるような毎日。
わかっている。全部自分がまいた種だ。
人が言うことには従うのが当たり前だと思っていた。
でも、ある日、自分がおかしいのだと気付いた。
自分の時間というものが、あまりにも少ないのだと、気付いた。
もともと破滅が約束されていたんだ。
だって、言われたこと全部を守るだなんて、そんな偉業、普通の人間には無理だ。
彼はようやく自分のおかしさに気付く。
だから――初めて、人からの頼みごとを断った。
誰からのどんな依頼だっただろうか。
クラスメイトから押しつけられた委員会の仕事だったか。
親から強要された習い事だったか。
たしか、なんでもないような、記憶にさえ残らないぐらい、ささいな、なにかだった。
別に断ったからといって、人の態度が変わることはなかった。
むしろハッピーエンドになるはずだったんだ。
みんな、あいつにちょっと色々押しつけすぎたなって言ってくれて、これからはなんでもかんでも頼まないようにしようって話になって、ようやく『自分の時間』を手に入れて――
――なにをしていいのか、わからなかった。
愕然とする。
――特技は?
――趣味は?
――将来なりたいものは?
――好きな食べ物は?
――得意なスポーツは?
――どの科目が一番好き?
――暇な時なにをする?
全部、答えられない。
答えられない以上に、なにを言われているのか、わからない。
だって、当たり前のように聞いてくるんだ。
ということは――普通の人は、特技とか趣味とか将来の夢を、当たり前のように抱いてるということだ。
その『当たり前』がわからなくて――
彼は固まった。
……夏の坂道だ。
重い荷物を背負ってのぼり切れなくって、だから、足を止めた。
ある日、荷物さえなければ体が軽くなって、簡単に前へ進めると気付いた。
そうして荷物を下ろしたら――
前に進む理由を、見失った。
……ようやく気付く。
これは――自分の記憶ではない。
彼の記憶。
前世を持ち、異世界に転生した男の記憶で――
「……これは、アレクさんが主役の物語だったんだな」
理解も共感もできない、意味さえわからない、ある男の原風景。
見るべきではなかった、どうしようもなく虚しいだけの、彼の人生。
○
景色が大きく切り替わって、ようやく待ち望んだ産声を聞く。
生誕と同時に感じたすさまじい怖気を思い出す。
ひどい異物感だった。
それは胸の奥になにかが侵入して、次第にふくらんでいくような感覚。
気持ち悪くて吐きそうになる。
でもまだ吐き方を知らない。
苦しくてむせそうになる。
けれどまだむせ方を知らない。
だから泣くしかなかった。
産まれたての男に、それ以上の抵抗は許されない。
「おお、なんじゃ、なんじゃ、元気じゃのう、貴様」
誰かの声がして、ほんの少し安らぎを覚える。
それはきっと母親の声なのだろう――それにしては幼いというか、甘ったるいというか、とても大人のものには思えないのだけれど。
視界は判然としない。
耳も音を捉えているだけで、その言葉を理解できてはいなかった。
ただ――今なら、わかる。
それはたしかに母の声で、その言葉はたしかに、母の言葉だ。
「その調子で育てよアレクサンダー。そしていつか、英雄を殺せ」
母にかけられた願いを思い出す。
……それは、自分がこなすはずの願いで――
――理解する。
思ったよりも早かったが、ここが、始まりだ。
長く虚しいプロローグの末、彼はようやく己の産まれを知った。




