脱出
マリエッタはひしゃげたソファーを占領。動くたびにスプリングがギシギシと軋む。あっちへ行けと言われるままに、壁を背に床に座った。あちこち壁紙がめくれ上がっているから、盛り上がっていても気づかれなかったみたい。
「お腹空いたわ。何かない? この子のために栄養とらなきゃ」
「ダイエットはどうしたのよ?」
「食べないとイライラする。隠しても無駄よ。この部屋からはいいに匂いがする」
私には埃とカビ臭さしか感じない。どんな鼻してるのかしら。それにどう見ても母体が全ての栄養を蓄えているように見える。お腹周りに負けないくらいに顔も首も腕もパンパン。教会で見た時より急激に太っている。
ないと言っても信じず、立ち上がってうろうろと探し出した。体が重いのか、よたよたして今にも転びそう。探すといってもこの部屋にあるのはマリエッタが座っていたソファーと壊れたテーブルだけなのに。すき間から匂うのかな。落ち着きはないのは昔からだけど、様子がおかしい。
『ノエル様』
壁に張り付くノアの影から、アメリがささやいてきた。
『もし襲ってきたら私のことは置いて逃げてください』
襲う? まさかいくら私が憎くてもそこまではしないだろう。もし襲いかかられても、あれに負けるとも思わない。日頃から家事で鍛えてるから体力には自信がある。
「マリエッタ。少し落ち着いたらどうかしら。とりあえず座りましょう」
「黙れ。おまえがいるだけでも吐き気がする」
ギラついた目で睨まれた。そのまま視線は壁へ。どうしよう、壁に触りでもしたらアメリの存在がばれてしまう。
食事だと扉が開いた。
良かった。これで少しは大人しくなるかしら。
入ってきた男はトレーを持ったまま何も言わず、じっと私の目を見ている。
「なぜ、あなた様がここにいるのかしら?」
答えを聞く前に、マリエッタに突き飛ばされた。
「マークス様! 会いに来てくれたのね。後もう少しなの。大金を手に入れて、あなたを次の団長にしてあげるから」
「マリエッタ、あなたマークス様と知り合いなの? それに何の話をしているの?」
「マークス様に色目使うな。この薄汚いこそ泥め」
「薄汚いのはお前だ」
マークス様がマリエッタの頬を叩いた。勢いで倒れたマリエッタは怒るどころか、足元にすがって謝っている。
「嫌いにならないで。お産がすんだら前のように綺麗になるから」
「まさか。嫌いになどならないよ。その血は貴重だからね」
「嬉しい! お願いなら何でも聞く。またあの赤い布で仲間を増やすわ。そうしたらもっと好きになってくれるわよね」
オベール家の血の事だよね。 仲間? 信者の事かしら。
脚の折れ曲がったテーブルをなんとか起こし、トレーが置かれた。そしてマークス様の後ろからラルゴが袋を引きずってきた。中身は…。なぜここに運ばれたのかしら。
「灯をつけておくように。暗闇にはするな」
部屋を見回したマークス様から蝋燭とマッチを渡された。味方かどうかわからないけど、偽神父よりはまだましみたい。
扉が閉まると待ちきれなかったのか、マリエッタがよだれを垂らして食事にかかる。
目の前の光景に何が起きたか一瞬わからなかった。袋から出てきたきたのは生の肉塊。それを美味しそうに食いちぎって食べていた。止めたら今度は私達が食われると直感した。耳を塞ぎ、目を閉じた。
腹一杯になったマリエッタはいびきをかいて寝ている。巾着の中は静かだった。あんなの見たら今度こそショックだよね。もうお腹の子もどうなっているかわからない。
自分ではまだ人だと思っているようだけど、たぶんマリエッタは赤い布を使った代償に得体の知れないものになってしまった。瘴気も出すのかな。魔獣保護区で引き取ってもらえないだろうか。いっそ命を絶ってあげた方が良いのか。ラウル、あなたはどうしたい?
「ノエル様、蝋燭を」
影から出てきたアメリが耳元でささやく。もう怖くて怖くて、二人で手をつなぎっぱなし。ノアは平気なようで、パンと冷たくなったスープを飲んでいる。大物なのね。
蝋燭に火を灯した。どういう意味かわからないが、暗闇よりは手元だけでも明るいとほっとする。
マリエッタがいい匂いと言っていたのはアメリの血の臭いだったのかも知れない。そう考えると早く逃げ出さなければ。
「脱出しよう」
「それがいいです。でもどうやって?」
「古代文字を唱えると私にも魔術が使えるの。ただ正確に頭で描ける文字が少ないんだよね」
でもやるしかない。二人で逃げ出すための言葉を考えた。
「扉を『壊す』だけじゃ、逃げ出してもすぐに追いつかれるよね」
「私達が『透明』になるとかは?」
「字がわからないよ。それに犬にでも追いかけられたら匂いで捕まる」
転移魔術は相当難しい魔術で、いくつもの文字が必要になる。魔術師ってやっぱりすごい。
ギシッと音がして振り向くと、聖歌隊の白い衣装が闇に浮かんで揺れた。立ち上がったマリエッタが笑っている。図書館で借りた怖い物語なんて童話だわ。本物は夜中にトイレ行けないとかのレベルじゃない。
「やっぱりご馳走を隠していたじゃない。こっちへお寄越し」
目を光らせて歩み寄ってくるが、急に立ち止まった。何におびえているのだろう。
「ノエル様! 見て!」
溶け出した蝋が垂れると足元にいくつかの魔法陣が浮かび上がる。ひとつは転移! アメリの手をギュッと握りしめ、頭に浮かべた文字を唱えた。




