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幕間  龍亢桓氏

 くぴ、と先生ァ盃を傾ける。

「反桓玄(かんげん)軍のおこり、ってわけかい。あいつらにゃさんざ使いっ走らされたが、まぁ、世話にもなった。なかなか複雑なもんだ」

「なに言ってんだよ。先生、寄奴きどが動いたとき、ほとんど手ェ出さなかったじゃねェか」

「当たり前だろ? 水は高いとこから、低きに流れる。どうやりゃそいつを止められようってんだ」

「へいへい」

 顔に穏やかな風が吹き付ける。そんだけで、斬られた跡がしくしくと痛む。痛みとともに、気、みてェな何かが抜け落ちてるような気もする。

「ところでよ。正直(オレ)らァ、なんで桓玄が簒奪なんて真似に出やがったんだか、よくわかんねェんだ」

 あん頃ァ敵だから殺す、そんだけでよかった。っが、寄奴きどが王さまにまでなっちまったや、いやでも桓玄かんげんのことを思い出さずにいられなかった。

 もう、アイツん中ァ覗けねェ。が、たぶんその影ァ、更にデカくなってんだろう――おなじ、しんのくにを脅かせたやつ、ってことで。

「ずいぶん感傷的じゃないか、ただの敵に」

「ただ、ってこたねェだろ。あいつがここまでになれたんなァ、間違いなく桓玄がいたからだ。あいつァどうだか知らねェが、少なくとも、己ァ気になるね」

「そうかい」

 くくっと笑うと、先生ァもう一杯。

「なら、少し話そうか。桓玄どののこと。そうすると、桓温かんおんどの、桓沖かんちゅうどのから話が始まっちまうわけだけどね」


 しょう龍亢(りゅうこう)県。桓氏の故郷だ。もちろん、今となっちゃトゥバ・ギの手に落ちちまってるがね。

 桓温どのは、早くにおやじどのを蘇峻そしゅんの乱で亡くした。おふくろどのやら、まだ幼い弟、桓沖かんちゅうどのを引き連れ、日々を生き抜かれたそうだ。おつむも腕っ節も半端ねえお人だったから、まぁ、きっと手段は選ばなかったんだろうけどね。

 おやじどのもそれなりの高官だったから、食い扶持がない、わけじゃなかった。けど、死に方がいけねえ。部下に裏切られて殺されちまったんだ。

 もちろん、裏切ったほうが悪い。そりゃ間違いのねえことさ。っが、こうも言えた。「裏切られるような扱いしたほうが悪い」ってね。

 だから、桓温どのをあえて助けようってやつなんかもあんまいなかったみたいだ。

 桓温どの、こいつに怒り狂ってたみたいだ。もとから激しい気性の方じゃあったそうだが、やがて、敵討ちを志す。とはいえこの頃、おやじどのを裏切ったやつはとっくに死んでた。だから、狙ったんなぁ、その息子たち。

 敵討ちゃ、壮絶なものだったそうだよ。なにせ、桓温どの一人でそいつら兄弟の家に乗り込み、家人もろとも皆殺しにした、ってんだから。以降桓温どのぁ、ただでさえ近寄りがてえお人だったってえのに、なおのこと人が離れてくようになった。

 が、ここに桓温どのにとっての救い主が現れる。

 庾翼ゆよく様だ。

 一時は王導おうどう様をしのぐほどの権勢を得た、庾亮ゆりょう様の弟ぎみ。このお方の抑えきれねえ北伐の志の前に、桓温どのみてえな、燃え上がる武の塊が現れた。

 中原を奪回してえ。こいつぁ、誰もが思ってたことだ。

 けど、じゃあ実際にどうやるのか?

 いってえ誰が、それほどのどでけえ武勲を立てられるのか?

 そいつが、どうしても宙ぶらりんになっちまってた。

 桓温どのは、間違いなく扱いづらい。けどそのぶん、乗りこなせたら最強だろう。だから庾翼様は桓温どのに近付いて、しかも、ご自身の姪っ子を桓温どのにめあわせまでした。

 ところで、この姪っ子ってのがまたとんでもねえ。

 庾翼様の姉上は、皇帝陛下のもとに嫁がれた。その娘御ってんだから、つまり、公主さまだ。

 この縁談によって桓温どのぁ、庾氏、どころじゃねえ。皇帝陛下の親族にまでなっちまったんだ。

 庾翼様の野望が、桓温どのを一気に中央に近づけた。

 その後の桓温どのの活躍はめざましいもんだった。しょくを滅ぼし、苻堅ふけんの伯父を追い詰め、いちどは古都洛陽(らくよう)の奪回まで果たして。

 一方で、戦いは胡族たち相手だけじゃなかった。宮中には、桓温どのの足を引っ張ろうとする奴らがごまんといた。正確にゃ「戦争がいやな奴ら」、かね。

 そいつぁ、後ろ盾だった庾翼様が亡くなり、一気にひどくなった。

 桓温どのが戦争を仕掛けたいって言ったところで、それで実際に出陣できるわけじゃねえ。宮中の賛成を取り付けて、最終的には陛下より命令が降りて、ようやくだ。

 桓温どのぁ、ここに大いに苦労した。洛陽奪還のための戦争にあたっちゃ、二十回以上も出撃申請したって言うからね。

 きっとね、おえらがたにとっちゃ、もう中原奪回なんてどうでも良くなってたんだろうさ。

 ぽかぽかしたとこで、日々のおまんまは手に入れられてて。そんな奴らが、どうしてわざわざ北伐なんて財布に痛い思いしなきゃなんねえのか、って話だ。

 っが、果たして桓温どのが、そいつをやすやすと受け入れられたかね?

 桓温どのがお求めになったんなぁ、勝てる国だった。そして、勝てる国ぁ、少なくとも、井戸端評定なんざしねえ。そらそうだ、決めるために集まってる奴らがやるべきこともせず、うだうだしてる。一方で中原じゃ冉閔ぜんびんとかいうアホがアホなことやらかして、つい数年前までの胡族の脅威っぷりはどこへやら、くれえのぐだぐだをやらかしてた。

 このぐだぐだ、桓温どのに発言力がありゃ、たぶん付け込めたんだよね。けど、そうはならなかった。桓温どのが何度も北伐したいって申請してるうちに、鮮卑せんぴムロン部の奴らが中原を席巻。桓温どのにしちまや、もたもたしてる間に横取りされた、くれえの気分だったろうね。

 で、ようやっとそれなりの軍権を手に入れた頃にゃ、長安にゃ苻堅がしっかり地盤を作り上げ、ムロンの奴らとにらみ合うようになった。その心中ときたら、いかばかりだったろうね。

 やれた、と思ったはずなんだよ、桓温どのは。然るべき期に、然るべき兵力を、手前で持ててたら。

 だのに、みすみす敵が育ってくのを、じっと待たなきゃいけなかった。そのあげくの、枋頭ほうとう。ムロン・チュイに、思いっきりぶっとばされちまった戦だ。

 われら漢人の悲願を叶えるべく奔走した桓温どのぁ、ほぼ、内輪の邪魔で志を得られなかった。ならせめて、子孫のために司馬しば氏を廃して、胡族と戦えるくにを、って目指された。

 っが、そいつも謝安様に防がれちまった。

 思い描かれた野望を何一つとして叶えることもできず、失意のうちに桓温殿ぁ亡くなった。その時の言葉として残ってんのが、あの有名な「この有様では、司馬師しばし司馬昭しばしょうに笑われような」だ。

 桓玄どのが、親父どのを看取ったのが五つのとき。そん頃にゃあ、もう神童ぶりを発揮なさってたらしい。そんなかれが、無念に沈む親父どのから、あとを託されたんだ。そりゃ思うだろうさ、晋を打ち倒すのが自らの役目だ、って。

 だが、桓温どのが倒れちまや、あとに残されんなぁただの「謀反人の生き残り」になっちまう。ほっときゃ適当な名目つけて、族滅待ったなしだ。だから桓温どのの弟、桓沖どのぁ、晋に忠誠を示した。具体的にゃ、桓温殿の野望をくじいた謝安しゃあん様とよしみを結ばれたんだ。

 折しも、そいつが淝水前夜のこと。

 桓温どのが動けねぇでいたうちに、苻堅は急成長し、ムロンを食った。更にゃ北やら西をぶんどり、あまつさえしょくの地まで押さえ込んじまう。

 こうなってくると、桓温どのが養ってこられた兵力なくして、お国を守りきれるはずもねえ。だから謝安様も、桓沖どのを受け入れるっきゃなかった。だって、ここで桓氏を粗末に扱かや、苻堅に呑み込まれちまっただろうからね。それこそ西府が、まるまると。

 この辺りゃ、謝安様の恐ろしいところだ。苻堅を前に桓沖どのとしっかりと手を結び、けど蓋を開けてみりゃ、淝水ひすいで大功を挙げたんなぁ、謝玄しゃげん将軍。「胡族撃退」のいっちゃん美味しいとこは、見事に謝氏に持ってかれた。

 淝水の顛末を聞き、桓沖どのは叫ばれたそうさ。「おめおめと謝氏の小僧どもに功績を譲り渡したかよ!」ってね。本来なら、そいつぁ桓温どのの悲願だったはずだってのに。

 桓沖どのが亡くなったんなぁ、その翌年。憤死だったんじゃねえか、って思わざるを得ねえ。


 さて。

 桓玄どのぁ、父上の死後、桓沖どのの預かりになってた。なら、目のあたりにした筈さ。叔父上の「憤死」をね。

 中原奪回、中華の復興を目指し、戦い続けてきた、父と叔父。どちらもが謝氏に代表される東晋貴族に妨げられ、死んでいった。それならせめて、桓氏に引導を渡した謝氏が鹿を逐ってくれりゃ、まだ慰みにもなったんだろうさ。

 けど、蓋を開けてみりゃ、どうだ。

 謝安様ぁ窮地に立たされた苻堅を救おうとした途上で亡くなるわ、謝玄将軍だって司馬元顕しばげんけんに絡め取られて、満足に北伐にも動けねぇありさま。

 中原奪回の壮志に、桓玄どのぁながらく親しんでおられた。っが、謝氏に代表される政府ぁ、どう転んでもその壮志に応えられる器じゃねえ。

 そしたら、桓氏の棟梁がどう振る舞うべきか、ってことさ。煮えきらねえ奴らになんざ、いつまでも付き合っちゃられねえだろ?


 ただ、問題は、ある。

 どんな名目にせよ、付き従うやつを、どう納得させられるか、にゃ手腕が求められる。悲しいかな、その手腕を培うだけの暇が、桓氏にゃ無かった。

 そいつぁ幸か、不幸だったのかね。

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