02-03 白籍と黄籍
「それで、驍勇どのは見事に大いなる敗北を味わわれたわけか」
「おいおい無忌、そう褒めんなよ」
「褒めておらん!」
ばん、と机を何無忌が叩く。三つの茶碗が跳ね、わずかに茶をこぼした。
「季子との接見にしてもそうだが、劉裕! 君はもう少し会話の機微を身につけろ! 季子が我々に下さった資金が、まるまる只の謝礼である訳がないだろう! それを、よりにもよって博打で溶かすとは――」
「何参軍。お気持ちは分かりますが、さすがに声が大きすぎです」
う、と何無忌が止まる。
「す、済まん。穆之どの」
いったん何無忌が激し始めると切りがねェわ、声がどんどんでっかくなってくわで、まァとにかく寄奴とは違う意味で手綱が必要だな、ってのが穆之の見立てだ。そのせいもあって、こん時にゃもう何無忌へのぶった切りにも、だいぶ遠慮がなくなってきてた。
王謐のオッサンの招きに応じた、更に翌日。建康に宿を借りてた寄奴と穆之、そして何無忌は、そのままオッサンの屋敷に、客扱いってことで厄介になってた。だから人目を気にする必要はねェ訳だが、とは言えどこに耳があってもおかしかねェ。使用人の数だって少なくねェしな。
あ、季子、は司馬休之どのの事だ。寄奴が司馬休之どのと知り合ったこたァ、耳ざとい奴ならとっくに知ってたろう。とは言えわざわざこっちから堂々と渡りがついてる、なんて喧伝したって、うま味なんざ何一つねェ。だから、ちょっとひねってお呼びすることになった。
あと魏詠之ァ早々に家に帰ってる。
「しかし穆之どの、……苦労するな」
「お察し頂ければ何よりで」
穆之が、これ見よがしにため息をついてみせる。
「で、兄貴。首尾は?」
「よくぞ聞いてくれた! 刁逵の奴、チンピラばっか抱えちゃいたが、さすがに都の顔だな。賭場で己の顔見て寄ってきた奴らは結構なもんだったぜ。だから、お前さんの言うとおり、二、三杯酒を振る舞ってやった」
「つなぎは取れそう?」
「ま、改めてこっちから取るまでもなさそうだな。京口とも繋がってるヤツが多いみてえだし」
「そか、じゃ京口に戻ったら忙しいね」
「だな」
わっとまくし立てた二人に、何無忌は全くついてけねェでいた。かわりつがわりつに顔を見ながら、おず、と切り出す。
「劉裕、なんの話だ?」
「あ? ――穆之、おめぇ、無忌に説明してねぇの?」
「いやそこは兄貴から話があってしかるべきじゃない?」
少しだけにらめっこにゃなったが、先に根負けしたのは、やっぱり穆之だった。もちろん「まぁ、兄貴に話させたって要領得ないだろうしね」ってちくりと刺すのも忘れねェ。
「昨日兄貴が浮かれてたから、二つお願いしたんです。どうせ賭場に行くなら、刁逵って奴が開いてるところあるからそこに行け、と。そして、そこで兄貴にすり寄ってくる奴がいるだろうから、これは、って奴におごってやれ、と。その余った金で賭博やるなら止めない、とも伝えました」
言いながら穆之が、寄奴から割れた茶碗だ、うす汚れた木片だを引き取り、何無忌に示す。そいつらを見て、ようやく何無忌の中で話の中身がつながったみてェだった。
「そうか、どうせなら今のうちに建康の白籍たちとつながっておこう、と言う腹か」
「はい。今の兄貴は、言わば真夜中の焚き火です。その手のを寄せるなら、何参軍や魏主簿よりも、兄貴の方が似合っていると思いませんか?」
「お前、本当にいちいち一言多いな」
さすがに最後の言葉は寄奴にしてもちょっと引っ掛かったみてェだ。そいつを聞いて何無忌がようやく、くくっと笑った。
「本当に、穆之どのは劉裕の扱いにかけては天下一品だな」
「あんまり嬉しくないですね、それ」
穆之が懐から竹簡の板を取り出すと、寄奴から受け取ったそれぞれのがらくたの持ち主を聞き取る。破片どうしがぴったり合わされば、本人、あるいは代理だって証が立つって寸法だ。
「しかし、まさか穆之どのは、ここまで見越して?」
穆之の筆がぴたり、と止まった。何無忌の驚嘆の顔を見て、いっさいの演技っけナシで首を振った。
「まさか。地震だの火事だのの被害を、せめてどう活かすかって考えてるようなものです」
「劉裕は天災か」
「そうになるのは、敵に向けてのみにして欲しいんですが」
全くだ、何無忌が肩をすくめた。
「お前らな……なんならここで天災になってもいいんだぜ?」
「どうぞ。全部母さんに報告するけどね」
「う」
はじめて寄奴の顔が引きつった。
そりゃそうだ、あの寄奴、あの穆之にしてあの母あり。先生はお目に掛かったことねェよな、寄奴のかか様、簫文寿様ってんだが、とにかく寄奴ァ厳しく、っつーかありゃこっぴどく、だな。しつけられてきたもんだ。つるんでた己らも、割と一緒に怒られたっけな。
ただ、おっしゃってた事はまとめちまえば二つ。
「お天道様に顔向け出来ないことはするな」
「いったん手前で決めた事は曲げるな」
だ。だからケンカしてきたときも、怒られたのは負けたことに対してだった。そんかし勝ったらごちそう振る舞ってくれたりな。己自身、あのお方にゃご恩ばっかりだ。全然返せてねぇのが心残りだが、事この期に及んじゃ、出来ることなんざ文寿様のご長久を願うっくれェだな。
――お? 先生、似合わねェぜ、そんなしみったれた面。
ともあれ、驍勇も形無しだな、って何無忌が苦笑した。嘆息を一つ、少しこぼした茶を一気に呷る。
「晋の東遷から、はや五十年。だと言うのに黄籍と白籍の間に横たわる溝はいっこうに埋まる気配がない。むしろ広がった、とすら言っていい。今回、白籍の君たちが挙げ得た大功、湖面の一石にのみ留めるわけには行かんな」
「お汲み頂けたこと、忝い限りです」
改まって、穆之が頭を垂れた。
併せて寄奴も、ちみっとだけだが神妙そうな顔つきになる。
先生の知ってる白籍はほとんどがお貴族さまだったろうから、あんまピンとこねェだろうたァ思うんだ。けどな、白籍、要は江北から逃げてきた己らのご先祖と来たら「平和になったら元の住まいに帰る」てなもんで、こっちでの籍はあくまで仮のものにさせられた。
仮だから、当然マトモな仕事ァ回ってこねェ。抜け目ねェ奴でもなきゃ、ほとんどが街の隅っこで這いつくばってるっかなかった。そんなんが五十年だ。こっちにしちゃ恨みつらみも溜まるし、けど当然黄籍の連中に取って厄介者だって負い目もある。いやでも日陰モン暮らしにゃなる。よしんば兵隊になったところで、ほとんどが使い捨てだ。淝水で孫無終将軍に取り立てて頂けたのだって、ほんに普通じゃあり得ねェことだった。だから寄奴にしてみりゃ、ここでデカく名を上げて、「市井の白籍に人あり」を訴えなきゃいけなかった。
その気張りを何無忌、黄籍を代表する将軍の一族が認めてくれてる、ってんだからな。感謝、ってェのとはちと違うが、心強くはあった。
「それでは、速やかに動かねばな。明日にでも動くか?」
「そうだな、」
そこでふと寄奴が考え込む。
「なぁ、お前ら、先に京口に戻っててくれねえか?」
「構わないけど、――なんで?」
「白籍、で思い出したんだがよ。一回、広陵に行っておきてえんだ」
寄奴のその申し出の意図を、何無忌はうまく汲み取れねェでいるようだった。無理もねェ。こいつばっかりは、似た境遇の人間でねェと、なかなかたどり着けねェ考えだ。だから、穆之が寄奴の言葉を請ける。
「見ておきたいんだね、追われてきた人たちのこと」
「ああ」
淝水の戦いが生んだ、新たな「白籍」の人間たち。実際のとこ戦争はとっくに終わってる。戻ろうと思えば戻れなくもねェ。だが、一回刻み付けられた恐怖ってのは、そう簡単に拭い去れるモンでもねェ。また奴らがやってくるかも、なんて思いながらまともに夜を過ごせる奴なんざ、果たしてどれだけいたもんか。
「だから、」
この上なく真剣な眼差しで、寄奴は何無忌を見た。
「貸してくれ。路銀」




