19.飛ばない鳥
「ありがとうございました、サタンさん」
「いや、気にすることはないよ」
きらきらと星が瞬くような笑顔で応えるサタンさん。
僕は頭を下げて、笑みを返した。……返せてたと、思う。
「じゃあ、僕はこれで失礼しよう。また来るよ、エコデさん」
ばさっと真っ白な翼を広げて、サタンさんは空へ吸い込まれるように消えて行った。
いいなぁ。あの羽根があったら、どこでもすぐに行けるんだろうな。
小さく息を吐いて、玄関のノブを捻る。
「ただいま……」
返事がないって分かってても、癖で出てくる言葉。
がらんとした、玄関。もう、先生は……ここに、いないんだ。
もう先生は、僕の事を忘れてた。
行かなきゃ、良かった。サチコさんの言う通り、じっと待ってた方が、良かったんだ。
あの日、サチコさんが言ってた通りに待ってれば……こんな、苦しまなくて良かったのかもしれない。
◇◇◇
あの日。サチコさんに銃を突きつけられていた先生は、唐突に頽れた。
「先生?!」
咄嗟に呼びかけたけど、体は動かなかった。
近づいちゃいけない人だって、分かってしまったから。
王家の人。国の中でも、一番の権力者。学のない僕だって、それがどんな大事な人かは分かる。
だから、傍に居ちゃいけないって、理解してた。
「なん、で……俺、どうして……」
「能力が落ちてるのよ。メンテの時期なの。大人しく来なさい」
「は……?」
先生もサチコさんの言葉の意味を、理解しきれていないみたい。
サチコさんは先生の頭をぺしっと軽く叩く。
瞬間、先生は糸が切れた人形みたいに倒れてしまった。
「先生っ!」
「来ては駄目よ」
駆け寄ろうとした僕を阻んだのは、サチコさんだった。
先生は意識がないみたいで、ぴくりとも動かない。
鎧を着た人たちがロヴィさんの命令でさっさと先生を運んでいく。
「……少し待っていて。リリバスが本当にここで生きて行こうって思ってるなら、必ず帰ってくるから」
「で、も」
でも、先生は、本当は違うんですよね? ここにいちゃ、いけないレベルの人ですよね?
僕の不安を分かっているかのように、サチコさんは優雅に微笑む。
「それまでここを守るのが、貴方の役目じゃないかしら」
返す言葉が浮かばない僕に、サチコさんはくるっと背中を向けて、ロヴィさんたちと出て行ってしまった。
ぽつん、と一人残された僕は茫然と、いつまでも立ち尽くしていた。
◇◇◇
それなのに、僕は先生が心配で、帰ってくるのか不安で、偶然やってきたサタンさんにお願いをしてしまった。
王都まで連れてってもらって、先生を探して。
やっと見つけたと、思ったけど。先生は僕の事を忘れてた。
冗談なんかじゃなく。先生は、僕を認識してなかった。
瞬間、もう、戻ってこないんだって分かった。もう、先生はこの場所には帰ってこないんだ。
なのに、どうしてだろう。また、二人分作っちゃった。
空っぽの椅子を見つめて、そこでいつも豪快だけど絶対汚さないで食べる先生が脳裏をかすめる。
「やだ……、もう……やだ。……先生がいないのは……やだ……!」
ぼろぼろと涙が零れ落ちて、止まらない。
毎日毎日、一日が長い。ずっと休診のままの診療所に、それでも患者さんたちが遊びに来る。
怪我も風邪も、何でもなくても、僕を心配して。
一生懸命笑えてるかな。心配かけたくないから、頑張ってるけど。
一人になると、突きつけられる。先生がいない現実と、向き合わなきゃいけなくなる。
「エコデ、大丈夫?」
顔を上げると、ポアロさんが見えた。
ポアロさんはまめに様子を見に来てくれる。
僕の様子に、ポアロさんは静かに歩み寄って、ぎゅっと抱きしめてくれた。
優しくて温かい、お母さんみたいな安心感。
「帰ってくる。大丈夫」
「こな、い……もう、先生っ……帰ってこない、です……!」
「大丈夫」
そう、ポアロさんは僕を宥めてくれた。
でも、無理なんです。先生は、全部忘れちゃってるから。
もしかしたら覚えてるのかもしれない。だけど、分からないふりをしたなら……それはもう、帰ってくるつもりがないってこと、でしょう?
しゅるしゅると、ポアロさんの頭の蛇が、僕の頬に寄り添った。
前に怖いって思った感覚が、何だか今は安心を与える。
でも、涙も不安も、止まらない。
――それでも、俺と一緒でいい?
まだこの診療所に住む前。この街に来たばかりのころ。
先生は自信なさそうに、そう尋ねた。
まだお医者さんになったばかりだったから、きっと先生も不安があったんだ。
でも、それでも僕を救い出してくれたのは、先生だった。
ここまで生きてこれたのも、先生のおかげで。
それがいきなりなくなったら、僕はどうやって生きていいか、分からない。
僕はやっぱり、先生と一緒じゃなきゃ、駄目です。




