第六話 A very merry unbirthday.
セディウスが工房の管理を任されて、まだ日が浅い頃のことだった。
地下室に呼び出されたのは深夜だった。理由は聞かされていない。ただ、いつもと違う棺がひとつ、部屋の奥に据えられているとだけ、事前に耳打ちされていた。
棺は他のものよりわずかに小さかった。
縁に、小さく数字が刻まれているのに気づいたのは、セディウスだけだったかもしれない。
二十八。
白いペンキで、まだ乾ききっていないその数字が、濡れた棺の表面に滲んでいた。
装置の脇には、見慣れたクローンたちの他に、白い糸のようなものが幾重にも巻きつけられた繭状の物体が浮かんでいる。魔力伝導線に固定され、ゆっくりと、呼吸のような周期で上下していた。セディウスにはそれが呼吸なのか、あるいは単なる魔力の脈動なのか、判断がつかなかった。
「今回は、少し違う」
アレクトゥスが言った。それだけだった。詳しい説明はなかったし、セディウスも聞かなかった。聞いてはいけない気がした。
注入が始まる。
黒い泥は、これまで見てきたものよりも粘度が高く見えた。管を通る速度が遅い。とぷ、とぷ、と間延びした音を立てながら、繭の中へゆっくりと満ちていく。
一時間が経った。
繭に変化はなかった。
二時間が経った。
わずかに、繭の表面が波打つのが見えた。セディウスは目を凝らしたが、それが内側からの動きなのか、外気の揺らぎによるものなのか、確信は持てなかった。
三時間が経ったところで、アレクトゥスが記録帳に何かを書きつけ、それきり誰も口を利かなくなった。地下室には、魔力灯の低い唸りと、泥が滴る音だけが残った。
繭の表面に、線が入った。
最初は一本。まっすぐな、まるで刃物で引いたような裂け目だった。それが枝分かれし、二本、三本と増えていく。糸の繊維が一本ずつ、内側から押し出されるようにほどけていった。
誰も動かなかった。動けなかった、というほうが正しいかもしれない。
裂け目の奥から覗いたのは、白く濡れた何かだった。それが指なのか、髪なのか、セディウスには判別がつかなかった。ただ、それがゆっくりと、繭の内側を這うように動いているのは見えた。
やがて、裂け目は一気に広がった。
繭が割れた瞬間、セディウスは彼女の顔を正面から見た。いや、見てしまった、というべきかもしれない。
うずくまった身体がこちらを振り仰いだその一瞬、濡れた前髪の隙間から覗いた両の目に、セディウスは総毛立った。それは新生児同然の、生まれたばかりの目のはずだった。しかし、そこに宿っていたのは、そんな生易しいものではなかった。
まるで、この世すべてを呪っているかのような、昏い視線。
セディウスは思わず一歩、後ずさった。心臓が跳ね、喉の奥が乾いていくのを感じた。しかしその視線はほんの一瞬で、次の瞬きの後にはもう、ただ弱々しく震える赤子のような目に戻っていた。
見間違いだったのかもしれない。そう自分に言い聞かせた。だが、しばらくの間、その一瞬の眼差しが脳裏から離れなかった。
音はしなかった。少なくとも、セディウスの記憶ではそうだった。ただ気づけば繭は大きく左右に割れ、その中から、まだ完全に乾いていない身体がずるりと滑り出ていた。
棺の中で、それは丸くうずくまっていた。肩から先が細かく震えている。
「……成功、したのか」
誰かがそう呟いた。誰の声だったか、隣りに居た同期だろうか。結局セディウスは覚えていない。
それに応えるように、うずくまった身体がゆっくりと顔を上げた。
濡れた髪が張りついた顔の下から現れたのは、セディウスが今まで見てきたどのクローンとも違う、丸みを帯びた女性の輪郭だった。
アレクトゥスが一歩、前に出た。
「……ジュリア」
その名を呼ぶ声には、いつもの淡々とした響きとは違う、何か確かめるような硬さがあった。
名を呼ばれた彼女は、しばらくそのまま動かなかった。やがて、濡れた喉から絞り出すように、初めての声が漏れた。
それが何を意味する音だったのか、その場にいた誰も、正確には聞き取れなかった。
診断の結果、身体に問題は見当たらなかった。むしろ経過は良好で、じきに地下から出て、上の工場で暮らせるようになるだろうと誰もが考えていた。
だが、彼女は誰とも口を利こうとしなかった。
差し出される食事にも手をつけず、話しかけられても顔を伏せたまま、ただ膝を抱えて座り込んでいる。そんな日が何日も続いた。
ある日、同期のクローン21号が、痺れを切らして匙を彼女の口元に運んだ。
その瞬間だった。
彼女は金切り声を上げた。
人のものとは思えない、耳をつんざく悲鳴だった。手足を振り回し、匙を弾き飛ばし、その場にいた者たちが呆気にとられるほどの勢いで暴れ始める。21号が突き飛ばされ、装置のひとつが倒れて甲高い音を立てた。
セディウスが駆けつけ、彼女の両腕を後ろから押さえ込んだ。
「落ち着け……! 落ち着きなさい!」
声を張り上げても、彼女の身体からは力が抜けなかった。爪が腕に食い込み、セディウスは顔をしかめたが、その手を離さなかった。
やがて暴れる力は次第に弱まっていったが、代わりに彼女の喉からは、慟哭が漏れ始めた。
子供のような、それでいてもっと年経た者のような、奇妙に歪んだ泣き声だった。ヒステリックなその声は、しばらくの間、地下室に反響し続けた。セディウスはただ黙って、その背を支え続けるしかなかった。
セディウスは、彼女がアレクトゥスと同じ記憶を持つのだということを知っていた。
だから、あえてその話はしなかった。工房のことも、記憶のことも、彼女が何者であるかということも、一切口にしなかった。
代わりに、上の工場の話をした。
織機の調子が悪いこと。新しく入った糸の質が今ひとつであること。窓から見える中庭に、最近野良猫が住み着いていること。他愛もない、それこそ聞かれても困るような話ばかりだった。
彼女は最初、何も答えなかった。
それでも、セディウスは日を置いてまた顔を出しては、同じように話しかけた。
やがてある日、ぽつりと、彼女の口から言葉がこぼれた。
「……猫は、何色ですか」
小さな、掠れた声だった。
セディウスは驚きを顔に出さないよう努めながら、努めて普段通りに答えた。
「灰色の、痩せた奴だよ。片耳が少し欠けとる」
彼女は、それきりまた黙り込んだ。
だが次にセディウスが訪れたとき、彼女はまた、ぽつりと何かを訊ねた。
そうして、少しずつ、二人の間にぽつりぽつりとした会話が生まれるようになっていった。
……。
──そこまで語り終えると、セディウスは長く息を吐いた。
棺の列の前で、老人の背は心なしか小さく見えた。糸くずのついた作業服の肩を、地下室の冷えた空気がそっと撫でていく。
「……というのが、あの子がここに来た日のことじゃ」
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
ラティウスは無言のまま、棺のひとつに視線を落としている。あの日そこにいたのが、今しがた聞いたばかりの光景の中の誰かなのだと、頭では理解していても実感が追いつかないようだった。
ユイは、両手をそっと胸の前で握りしめていた。
「……セディウスさんは、その場に……」
「ああ。あの頃はまだ、この工房に配属されたばかりの若造じゃった。何もわからんまま、ただ突っ立っておるだけの日々でな」
セディウスは苦笑を浮かべ、皺の寄った目元を緩めた。だがその笑みは、長い年月のどこかに置き忘れてきたような、どこか遠い響きを伴っていた。
「なぜ、今その話を……」
ユイが静かに問う。セディウスは彼女の顔をしばらく見つめてから、ゆっくりと視線を棺の列へと戻した。
「君がジュリアのことを聞きたがっておったろう。ならば、順序立てて話すのが筋だと思ってな」
その言葉に、ユイは小さく息を呑んだ。まさかここまで詳しく語られるとは思っていなかったのだろう。
「昏い目、というのは……」
「さあてな。ワシにもわからん。見間違いだったのかもしれんし、そうでないのかもしれん」
セディウスは肩をすくめた。誤魔化しているようにも、本当に答えを持たないようにも聞こえる、曖昧な口調だった。
「ただ、あの時感じたものだけは、今でもはっきり覚えとる。理屈では片付けられんことも、この世にはあるということじゃな」
プラエトルは話の間、棺の一つ一つを周って何やら作業をしていた。彼にとってもこの話は初耳だったのか、あるいは知っていて聞かなかったふりをしていたのか、その表情からは読み取れない。
「……セディウス。昔話はもうよかろう。工房破棄の準備はできた。長居は無用だ」
彼は少し焦っているのか、地下工房から出るように急かした。
ユイはまだ何か言いたげだったが、空気には逆らえず一行は階段を上って工場の外へと向かった。
ラティウスが外の日差しに目を細めていると、プラエトルが懐に忍ばせていた小さな魔導具を取り出し、その表面をひと撫でした。
すると工場の地面あたりからズズンと地響きが轟いた。
「これで工房が発見されることはない。そして──66号。今度は君が話す番だ」
小声のプラエトルの声色は冷め切っていた。
そして彼が指を鳴らし合図すると、待っていたように数十名のノヴァ・ティダス兵士がユイとラティウスの周りを取り囲んだ。
「なんじゃあ貴様ら!?」
セディウスも兵士に取り押さえられていた。
「プラエトル! 何をする気!?」
ユイが叫ぶ。その様子にラティウスは呆れた。
「当然。お前が悪魔の民族と何をしていたか聞くんだろう。仲良しごっこしてんじゃないんだ。……とは言え、俺も巻き添えは御免だぜ」
そう言ってラティウスはユイを抱え寄せると、取り囲む兵士たちに向かってほとんど放り投げるように突き出した。
慌ててユイを兵士がキャッチすると、ラティウスはすでに包囲を抜けて駆け出していた。
「逃げたか、140号は。……相変わらず身の振り方だけは達者よな」
プラエトルはその背を一瞥すると、視線を捕らえられたユイへと戻す。
「──逆にお前は、どこまで甘いのだ」
哀れむような瞳が、ユイを射抜いた。
「悪魔の民族との接触は根絶する。それは知っているだろう?」
彼の目には侮蔑の色が浮かんでいた。




