プロローグ
工房の空気は重かった。窓のない石造りの地下室に、風の流れはなく、静けさは不気味なほどに整えられていた。古びた錬金炉の脇では、濃紫色の触媒が硝子瓶の底で静かに発光し、ぼんやりとした光が天井のアーチを妖しく照らしている。壁一面に並べられた魔導書と記録帳が、時折鳴る金属器具の軋みの音を反響させ、工房全体がかすかな生き物のように脈打っていた。
中央には棺桶を思わせる細長い容器が据えられ、その中に裸の成人男性が横たわっている。青白い肌は生気を感じさせず死体のようだったが、実際、それはホムンクルスと呼ばれる人型の人工物であり、命の神秘を宿してはいなかった──今はまだ。
容器の脇に設置された管から、粘性を帯びた黒い泥がとろりと流れ込んでいく。異臭にも似た魔力の焼ける匂いが立ちのぼり、泥はやがてホムンクルスの身体を半ばまで浸した。蒸留管や転写装置が絡まり合った魔術装置がその周囲を取り囲み、魔力伝導線の一部がかすかに光を帯びて、淡く空気を震わせていた。
その傍らには白衣を着た男が立っている。険しい表情を浮かべるその顔立ちは、多少血色が良いことを除けばホムンクルスと全くの同一に見えた。
男の名前はアレクトゥス・フィデリウス。この工房の主であり、今からこの世界において最も重大な──あるいは狂気の実験を行おうとしている魔術師である。
アレクトゥスは機材に囲まれた書見台の前に立ち、震える指先で記録帳に最後の符号を書き入れた。自ら編み出した記憶転写魔術式の最終行。封印解除の呪文は、彼の喉奥でゆっくりと、だが確かな意思をもって紡がれた。
「坩堝に銅と亜鉛。炉に泥炭と大樹の皮。双頭の蛇は眠り、欠けた月は霧に覆われる。黒炎よ渦巻け、仮面の蜘蛛よ糸を引け」
歯車の音が止まり、炉の光が揺らぐ。
「──渇け、渇け、渇け、渇け。滞留する度に分裂せよ。我は語り得ぬものを騙るもの。我は知り得ぬものを識るもの」
魔力伝導線が鈍く脈打ち、黒い泥がどろりと渦を巻いて棺の中で満ちる。
「汝、偽りの根を辿り、深淵を欲するならば掴め。理の拒絶者よ!」
詠唱の最後の一節が響き終わると同時に、バチリと雷のようなスパークが地下室中を走った。
そして深い息とともに、ホムンクルスのまぶたがゆっくりと開いた。
ぼんやりと天井を見つめるホムンクルスの目を、アレクトゥスは注意深く観察した。
その真っ黒い瞳の奥には、果たして知性が宿るのか。それは自分と同様のモノなのか。不安と期待が、工房の静けさとは裏腹に、嵐のごとく心中を暴れ回る。
やがてホムンクルスの目に光が宿り、周囲を見回したあと、アレクトゥスに焦点を合わせた。その頬が引きつったように歪み、少し開いた口からは、かすれた声にならない音が漏れた。
その視線に得体の知れない恐怖を感じ、この事態を引き起こしたはずの彼は今すぐここから逃げ出したい欲求に駆られた。
しかし、それが一定間隔で痙攣するように発される、つまりは笑おうとしている音だと気づいたので、アレクトゥスは実験台の端に置いておいた吸い飲みを手に取り、彼に水を飲ませた。どうやら口内の水分が足りずに言葉にならなかったようだ。
そうして一息ついたホムンクルス──アレクトゥスの記憶を転写した、いわばクローンが最初に発した言葉は──「やってくれたな」だった。
彼はたどたどしく上体を起こしながら、モゴモゴと唇を震わせる。
「……まさか俺がクローン側とはな。クソッ、なんてことだ!」
吐き捨てるような声。空気を切り裂くように鋭いが、どこか弱々しい。自身の正体を悟った瞬間の絶望が、声音に如実に滲んでいた。
アレクトゥスは、その言葉を黙って受け止めた。自分と同じ顔、同じ記憶、同じ声を持つ存在が、目の前で怒りに打ち震えている。その光景は、どこか夢のように現実味がなく、しかし目を背けることはできなかった。
「記憶の転写は成功したようだな……。すまない、最悪な気分なのは察せられるが、今の状態を記録しなければ……。わかるな?」
声は静かで、慎重だった。どこかで期待していた──うまくいけば理解し合えるのではないかという、甘い幻想。それを押し殺しながら、彼は魔術師としての立場に徹した。
「わかっているさ!」ホムンクルスが叫ぶ。「だがあまりにショックだろう? 想像しなかったわけじゃないのは、俺が一番よくわかってるんだっ。ケホッ、あぁっ、みずをくれ……!」
言葉の途中で咳き込み、肩を震わせる。生まれたばかりの身体は、まだ発声の制御すらおぼつかない。アレクトゥスは慌てて実験台の端に置いていた吸い飲みを取り、彼の唇にそっとあてがった。ごくごくと音を立てて水を飲むその様は、まるで新生児のようだった。
「そうだな。お前は俺を恨む権利がある。それでも聞かなければならない。まずは体調だ。なにか異常はあるか?」
ホムンクルスはゆっくりと呼吸を整え、しばらく沈黙した後に答えた。
「……少し身体がだるいくらいだ。知覚や思考に違和感はない。……今すぐ記憶のすり合わせをするのか?」
努めて冷静を装っているのがわかった。怒りと混乱の渦中にあっても、知識と論理で状況を支配しようとする姿勢。それはまさに、アレクトゥス自身の癖だった。
「体力に問題がなければ、すぐに始めよう」
工房には事前に記憶の内容に齟齬がないか確認するための装置を準備していた。
ふたりは短く言葉を交わすことなく、魔法陣を使った記憶照合を進めていく。互いの記憶を呼び起こし、幼少期から現在に至るまでの細部に至る記憶を突き合わせて確認していく作業は、どこか奇妙に儀式めいていた。
「記憶に破損なし。これで俺とお前は同じ記憶を持つ同一人物ということになった」
アレクトゥスが言ったその言葉に、ホムンクルスは目を細め、鼻で小さく笑った。
「いや、誤魔化すんじゃねぇよ。意識の同調はされていないし、ほとんど能力は同じだとしても、オリジナルはお前だ」
声には皮肉が混じっていたが、それは自己の存在を証明しようとする哀しみの裏返しでもあった。
「そのオリジナルを求めるための実験だろう?」アレクトゥスは視線を外さずに応じる。「記憶の複製は魂の複製足り得るか。今回の結果から言えば、不明だ」
ホムンクルスは黙った。だがその沈黙には、重い思索が潜んでいた。
「だが、こうして二人が存在する以上、やがてオリジナルとはかけ離れた思考に辿り着くかもしれない」
「それは同一の魂と呼べるものなのか。確かめる必要がある」
再び静寂が工房を満たした。硝子瓶の中で触媒がゆらめき、青白い光がふたりの顔をほのかに照らす。アレクトゥスとその『もう一人のアレクトゥス』は、目を合わせ、同時に小さく頷いた。
──これが、自分たちの始まりなのだと。




