第13話 アムブロシアー
第13話 アムブロシアー
神域に、静かな雪が降っていた。
白銀の雪片は巨大樹の枝へ積もり、街の屋根を柔らかく染めていく。吐く息は白く、朝の空気は澄み切っていた。
それでも神域都市は寒くない。
街路には暖かな水路が流れ、家々には果樹の灯りが揺れている。焼きたてのパンの香りが漂い、人々は笑いながら朝市を歩いていた。
リリアは白い外套を羽織り、畑を歩いていた。
翡翠色の長いスカートが雪を掠める。
頬は少し赤く染まり、吐息は白い。
その後ろをノアが歩いていた。
「朝から畑か」
呆れた声。
リリアは笑う。
「今日は大事な日なんです」
神域の最奥。
巨大樹の根元。
そこには、今まで誰も近付けなかった場所がある。
淡い光を放つ白い畑。
雪が積もっているのに、そこだけは春みたいに暖かかった。
花が咲いている。
甘い香りがする。
リリアはゆっくり膝をついた。
土へ触れる。
柔らかい。
生きている土だった。
「……育ってる」
彼女は小さく呟く。
その畑には、不思議な植物が植えられていた。
金色の葉。
虹色の果実。
淡く発光する穂。
どれも、この世の植物ではない。
ノアが静かに言う。
「神代の食物だ」
「神ですら滅多に口にできなかった」
リリアはそっと葉を撫でる。
「この子、ずっと機嫌悪かったんです」
「お前しかそんな感想出てこないぞ」
ノアが呆れる。
だがリリアは真剣だった。
水温。
土壌。
日照。
微生物。
堆肥。
全部を何度も調整した。
雑草堆肥を発酵させ。
腐葉土を混ぜ。
ミミズを増やし。
毎日話しかけ。
歌まで歌った。
ノアは途中で本気で頭を抱えていた。
「神代植物に子守歌を歌う人間なんて初めて見た」
「だって寂しそうだったから」
「意味が分からん」
それでも。
植物たちは応えた。
少しずつ。
少しずつ。
そして今。
ついに最後の実が色付いていた。
リリアは震える指で収穫する。
瞬間。
世界が光った。
白い光。
暖かい。
優しい。
雪が空中で止まり、風が静かに歌う。
巨大樹がざわめいた。
神域全体が祝福しているみたいだった。
ノアが静かに目を細める。
「完成したか」
リリアは息を呑む。
手の中にある果実は、まるで小さな太陽だった。
淡い金色。
透明感。
甘い香り。
見ているだけで涙が出そうになる。
ノアが告げる。
「神々の食物――【アムブロシアー】だ」
その日の夜。
館の食堂には、大きな食卓が用意されていた。
白いテーブルクロス。
銀食器。
花飾り。
焼きたての白パン。
神域野菜のスープ。
香草鶏のロースト。
そして中央に置かれた、小さな黄金の果実。
アムブロシアー。
父は緊張した顔をしている。
「ほんとに食って大丈夫なんだよな……?」
母もおろおろしていた。
「神様の食べ物なんでしょう?」
リリアは苦笑する。
「毒見しました」
「したの!?」
「美味しかったです」
ノアが呆れた顔をする。
「普通、自分で最初に食うか?」
「危なかったら困るじゃないですか」
「お前は本当に……」
リリアは果実を切り分けた。
果汁が零れる。
甘い香りが一気に広がった。
まるで春そのものみたいな匂いだった。
父が恐る恐る口へ運ぶ。
次の瞬間。
目を見開く。
「……っ!?」
母も涙ぐんだ。
「なにこれ……」
身体が温かい。
疲労が消える。
傷んでいた腰も軽い。
視界まで鮮明になる。
それは食事ではなかった。
祝福だった。
命そのものを食べているみたいだった。
ノアが静かに呟く。
「死すら拒絶する食卓」
その言葉通りだった。
やがて噂は世界中へ広がった。
神酒ネクタル。
神食アムブロシアー。
神域都市。
世界中の王族が押し寄せる。
皇帝。
王。
大司教。
皆、頭を下げた。
「どうか我が国へ……!」
「娘を嫁に!」
「土地を差し出します!」
だがリリアは争わなかった。
奪わなかった。
軍を持とうともしない。
ただ、土を耕した。
畑を育てた。
病人へ食事を届け。
孤児へ学校を作り。
誰も飢えない街を広げ続けた。
だから人々は彼女を愛した。
神域は広がり続ける。
森を越え。
丘を越え。
国境を越え。
まるで、優しさそのものが世界を侵食していくみたいに。
ある日の夕暮れ。
リリアは畑へしゃがみ込み、小さな苗へ水を与えていた。
昔と変わらない。
土の匂い。
風。
柔らかな陽光。
ノアが隣へ立つ。
「結局、お前は変わらんな」
リリアは笑った。
「そうですか?」
「世界一の富豪になっても泥だらけだ」
リリアは少し考えてから、小さく笑う。
「でも、泥の中から始まったから」
風が吹く。
黄金の麦が揺れる。
遠くでは子供たちの笑い声が聞こえていた。
リリアは空を見上げる。
青く、どこまでも広い空。
そして柔らかく微笑んだ。
今度こそ。
誰にも踏みにじられない場所で。




