永遠の至福
ようやく、冬が終わろうとしている。
なのに、アルトの身体は泥のように重いままだった。
これから暖かくなっていけば、少しずつ解放されていくのでは……
そう、思っていた。
いつからだろうか。アルトを激しい睡魔が襲うようになったのは……
最初は、仕事の合間に少し眠りさえすれば、体の中の鉛が消えていた。
その仮眠が半日になり、丸一日になり……
気づけば、窓の外の景色が幾度入れ替わったのかさえ分からなくなっていた。
遠くの方でずっと鐘の音が鳴っているような気がする。
その音を聞くことだけが、自分がまだ生きていることを確認する方法だった。
(ああ……、また、眠ってしまった……)
体だけでなく、心の中にも冷たい鉛が溜まっていくようだ。
ほとんど何も返せていない……
恩を返すどころか、ただ教団のベッドを占有しているだけだ。
窓から見える枯れた葉が風に揺れ、いまにも飛び立とうとしていた。
◇◇◇
次にアルトが目を開けた時、そこにあったのは、天から降り注ぐ温かい純白の輝きだった。
その光の中で揺れていた何かが、次第に透き通るような銀髪へとなっていく。
「おはようございます。アルトさん。気分はいかがですか?」
慈愛に満ちた笑顔でアルトの顔を覗き込む聖女クラリア。
クラリアの絹糸のように細い髪が、アルトの頬を優しく撫でる。
その感触が、今のアルトには何よりも心地よかった。
「あ……クラリア、様……。申し訳、ありません。私は……」
声を出すことさえ、今のアルトには必死だった。
視界の端が、かつて大怪我をした時と同じように赤く、けれど今度は不気味に明滅している。
自分がもう、冒険者として、あるいは一人の人間として終わろうとしていることを、本能が悟っていた。
「私は……もう、恩返しができそうにありません。……情けない、ですが……。せめて、この身を……、あなたに捧げたい……」
それが、アルトの絞り出した精一杯の贖罪だった。
その言葉を聞いた瞬間。
クラリアの時間が止まったような気がした。
「気にしなくていいのよ……。本当に」
その言葉と、クラリアの時間が再び動き出したことに安心する。
言葉を囁くクラリアは、依然として聖なる美しさを保っていた。
しかし。
アルトの虚ろな瞳が釘付けになっているのはクラリアの顔だけ。
その下は、もはや人の形を留めていなかった。
聖衣の下からあふれ出したのは、グチャーと濡れた音を立ててうごめく赤黒い肉塊。
その中には無数の人間の顔がうごめき、形を成そうとしていた――
無数に生えた触手が、その先でハーフゥーと小刻みに空気を吸って、大きくなっていく。
その触手の先は不可解な表情をした人間の頭となった。
それは視線を斜め上にしたまま、空間を激しく揺れ動き出す。
どの人間の口も歓喜に震えて開閉を繰り返し、赤黒い粘液をボタボタとまき散らす。
アルトという獲物が自ら食べられることを承諾するのを、待ちわびていた化け物の本性だった。
(ああ、ようやく……お役に立てる……)
アルトが静かに目を閉じた。
そのまぶたの震えが止まった瞬間。
クラリアの触手の動きもすべて止まる。
そして。
一斉に流れ込むようにアルトを飲み込んでいった。
触手が皮膚に触れるたび、アルトの肉体は彼女の異形へと溶け、同化するように消えていく。
そこには、痛みなど微塵もなかった。
右足の古傷も、脇腹の痛みも、負債への罪悪感も、すべてが甘美に噛みちぎられ、もぎ取られていく。
「運がいいわね、アルトさん。私の一部として、永遠に生きるのだから」
クラリアの口が、アルトの耳元で愛おしげに囁く。
アルトの意識が消える直前、その顔には、狂気的なまでの多幸感が浮かんでいた。
光の繭が弾けた時、部屋にはいつもの姿をした聖女が一人、静かに佇んでいるだけだった。
アルトが寝ていたベッドにはまだ血が残っている。
複雑な表情でベッドを眺めていた聖女は何かを思い出したのか、水を打ったように静まり返った部屋を出て行った。
――救済。
◇◇◇
聖女クラリアが部屋を後にすると、廊下の隅、天井のシミに擬態していたソレが、実体を持って降りてきた。
体長は片腕の半分ほどの大きさ。コウモリのような翼と、濃い紫の瞳を持つ赤い小悪魔。
無造作に宙を泳ぐと、聖衣の裾をなびかせて歩くクラリアの肩先へと、音もなくすり寄った。
「全部見てたぞ。相変わらずエグいねぇ~」
耳障りな濁声が鼓膜に響く。実に不快。
小悪魔は、先ほどまでアルトがいた部屋を親指で指し示す。
「なぁ、おまえ。自分でやっていることの自覚はあるのか? やってること、悪魔よりヒドいぜ」
その言葉は挑発ではない。心からの敬意と受け取っておく。
クラリアは一瞬だけ、肩に止まろうとした小悪魔を視界の端に捉えた。
その瞳は、アルトを同化した時のような慈愛に満ちた熱はなく、ただ色がなく虚ろ。
ただ、不浄なものに関わりたくないかのように、わずかに歩を早めた。
「シカトかよ。冷てぇなぁ」
遠ざかっていく声に振り返ると、小悪魔はあてが外れたように翼を羽ばたかせ、その場に留まっていた。
その瞳には、期待が混じっている。
ニタッと口を歪ませると、主を失った部屋へと戻っていった。
廊下に響くクラリアの靴音は、どこまでも規則正しく、清廉だった。
わずかに微笑む。
次の獲物を探すために。




