第十六話:赤と黒
登山である。
かれこれもう五時間は登っている。
シグネたちエルフの森からみて南、俺と綾子の宿、オッカズムの街から見て南西。半島の海岸線に沿って壮大なウォルケノ山脈がそびえ立つ。
それを登ってすでに雲は眼下。目に映るのは青空と、かすかな土煙と、赤茶けた岩石ばかり。登山道も整備されておらず、登山に向く種類の馬に力を借りなければ四時間前に音を上げていただろう。
「あ”ー、馬って乗るだけで疲れるんだなあ……綾子さん、もうそろそろ頂上かな」
「そうだね。あと少しで依頼情報の峰に――見て、行軍の跡だよ」
「おおー……」
大岩を脇に探しながら歩みをすすめると、開けた視界に大量の足跡があった。どれもこれも新しく、その量から明らかに登山者のものではない。
「竜討伐のために動員されたミッドランド軍でしょう」
「行きと帰りの足跡がある。もう討伐終わったんじゃないの」
「どうかな」
綾子が言うには、行きの落ち着きに対して帰りの慌ただしさが甚だしく、また不揃いである、これは討伐成功ではなく潰走だろうとのこと。観察眼は大したものだが、言っていることは不吉だ。
はたして彼女の言う通り、さらに岩を越えた先には負傷者が転がっており、もう一つ岩を越えた先には修羅場があった。
熱波が顔を叩く。
先程から続く山鳴りと揺れ。自然現象だと思っていたそれらが、一個体が引き起こすものだったとようやく俺は気づいた。それは圧倒的なエネルギーの奔流であった。
「こ、こいつが……火葬竜……!」
「チ、思った以上に強そう」
俺たちが噴火であると見間違ったのも無理はないだろう。煌々と熱量を蓄えるそいつは、後ろ足で立ち上がるとまさに噴き出すマグマそのもの。
乾く眼球でかろうじて捉えられたのは、三十メートルはあろうかという爬虫類だった。トカゲの親玉は虫の居所が悪いのか、飛び跳ねて暴れている。怖い。逃げよう。
「デカトカゲ!」
「うーん、三津谷くんの革命スキルを発動させるにも、まずは近づかないとね。あいつの動きを止めましょう」
「まじで言っているのか綾子ちゃん!」
「どうしても必要なんだよ。私達であれを討伐するっていう功績が。大丈夫、革命スキルは絶対勝利できるんでしょう?」
「馬鹿言っちゃいけねえよぉ……超燃えてるよおお……」
「君たち、どこの所属だ?!」
「む?」
下山を提案する俺と、山頂を指差す綾子、そしてついに逃げ出した馬たち。そのいずれとも違う声が岩陰から聞こえてきた。
目を向けるとそこには一人の兵士が居た。
後ろに幾人もの屈強な男たちを引き連れている。登山行軍用の軽装ながらも頑丈そうな鎧。正規兵だ、となんとなく思った。同じように胸元や肩の装飾から、先頭の男が相当に地位の高い人物であることも推察できた。
「私は異世界人の城ヶ辻綾子。こちらは同じく三津谷葉介」
「最近来たという異邦人……。火葬竜の討伐隊か?」
たった二人? と後ろの兵たちがざわめいている。不満の色も濃い。無理もあるまい。俺たちの百倍の人数の彼らが、あのエネルギーの化け物に成すすべなくここで縮こまっているのだから。
「正式な隊ではありません。つい昨日、王国の布告で在野の戦力にも動員がかかりました。報酬は思うがままと」
「むぅ……王都への溶岩が迫る以上、やむを得んか……」
「そちらは?」
「申し遅れた。私はジェイコブ・ストライテン」
「ストライテン? あのストライテン将軍?」
綾子にとっては有名人だったらしい。この世界の生活に馴染みつつある彼女なら、目の前の白髭のおっさんが誰か分かったのだろう。
で、誰だよこいつ。知らない。というかこの世界の有名人とか誰も知らないんだけれど。
オールバックにした頭髪と、鼻下に蓄えた髭はいずれもシルバーグレー。将軍という肩書の割にはそれほど大柄ではないが、落ち着きと気品はストライテンを等身大より大きく見せた。
「ミッドランドの将軍よ」
と、困惑する俺に綾子が耳打ちしてくれた。吐息がいい匂いする。化け物が暴れる修羅場で不謹慎なことを考える俺をよそに、綾子はストライテン将軍と対話を始める。
それは対話というよりも渉外という印象だった。
「閣下、火葬竜との戦況は芳しくないご様子。三津谷と城ヶ辻が助太刀いたします」
「不要だ、と面子は気にしていられない状況でな」
くい、とストライテンが親指で示した方に目を向ける。
山脈の向こう側、つまりミッドランド王国の王都がある南東方向。麓の先、豊かな草原広がる一帯へ、大量の溶岩が流れ込みつつあった。
急く赤と滞る黒。不吉な液体と固体の中間物は、今はまだ人の営みへとは到達していない。だが放っておけばいずれ何万、何十万という人々を飲み込む災厄となるだろう。
「山のこっち側はこんなことに……なっていたのか……」
「火葬竜の活性化の余波か。山頂の形状が悪かったね。このままだと王都を直撃する」
「そうはさせんと意気込んで、この有様だ。兵の大半を損じ、そしてすでに対竜種の備えは尽きた。助力の申し出、ありがたく受け入れよう」
「結構です。報酬は望むがままというお約束、期待しております」
「ミッドランド王国は約束を違えん」
その言葉を引き出した綾子は、意外なことにストライテンからの力を合わせようという提案を丁寧に断った。後日曰く、討伐依頼書の文面よりも格の高い人物の言葉の方が担保になる、とのこと。彼に死んでもらっては困るのだ。
「で」
「ん?」
「どうすんの、お手伝いを断って」
「……三津谷くんが頑張る」
「薄情な。綾子さん見捨てないで」
「うーん、今回だけだよ」
ここまで連れてきたのも、二人対一竜という盤面を作ったのも彼女本人であるのだが、しぶしぶという恩着せがましい様子で綾子は戦闘態勢を取る。
暴れまわる竜へと一歩進み、天に向けて手を掲げて呼んだ。
「来なさい――ガウス!」
何か使い魔を呼んだのだと理解する。
が、あんな化け物相手にするのに、鷲だの狼だのが来ても……。非難と避難のために綾子を引き下がらせようとしたところで、
「きしゅあ」
という何かを引き裂くような不快な鳴き声が聞こえた。きょろきょろとあたりを見回しても何も見つからない。
そいつは空から来た。
巨体で地面を揺らしながら着地、ストライテンの配下がこの世の終わりだという様子でつぶやく。
「竜だ……竜がもう一頭……」
「キシュアアアア――!」
「――――――!」
「抑え込みなさい、ガウス。仕留めるのはこちらで何とかする」
綾子が呼び出したのは黒色の竜だった。火葬竜よりも一回り小さいが、人間にとって見れば手のつけられない化け物であることに変わりない。
青みがかった黒に、土色と白色のミルクを落としたような不穏な色。配色の比率は異なるが、俺は木星の渦を思い出した。不協和音を色にしたようなアレだ。
「綾子、あれどこで拾ってきたの。捨ててきなさい」
「半月くらい前にね、テイムしたの。私の一番強力な駒」
「捨ててきなさい。ウチでは飼えません」
「大丈夫だよ。普段は放し飼いにしているから」
綾子が一体どうやってガウスをテイムしたのか、全く理解できない。テイムするには少なくともその相手を打ち倒さなければならないはず。鷲や狼を打ち倒すのも相当しんどいだろう。が、罠を使ったり不意打ちしたりすれば何とかなる。
だが、これは何とかならんでしょ。恐竜大戦を繰り広げる二頭の間に立ち、少なくない魔力を供給しながらガウスに指示を出している。
「シャアア――――――!」
「ッ――――――!」
「追いかけなさい、ガウス。飛び上がらせてはダメ、山頂から逃してもダメ。ここで決める。押さえつけるのを最優先」
ガウスの前足が火葬竜の角を掴み、地面に叩きつける。
揺れる地面の上で思った。もしかして俺の想い人は、思っていたよりとんでもない人物なのではないかと。