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生意気な教え子が、僕の知らない男に「躾けられる」まで――勘違い家庭教師の終わった春――  作者: 猫野 にくきゅう


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第5話 崩れ去る聖域

 その日は、いつもと様子が違っていた。


 梨花は勉強机に向かってはいたが、テキストは開いたまま一度もページがめくられていない。彼女は何度も手鏡で前髪を直し、ソワソワと時計ばかりを気にしていた。


「……梨花ちゃん、さっきから同じ問題で止まってるよ。ここ、解説しようか?」


「あ、……うん。あ、いい。今、それどころじゃないから」


 彼女の返事は空世辞にも丁寧とは言えず、僕の存在はすでに彼女の視界から消えかけていた。


 その時だった。

 階下でインターホンの音が鳴り響いた。


「――っ、来た!」


 梨花は弾かれたように椅子から立ち上がると、僕に一言の断りもなく部屋を飛び出していった。


 残された僕は、ペンを握ったまま呆然とする。

 一分も経たないうちに、廊下から梨花の弾んだ声と、低く冷ややかな、聞き覚えのない男の声が近づいてきた。


「……本当によかったの? 廉次君、今日忙しいって言ってたのに」


「たまたま近くに用があっただけだ。すぐ帰るぞ」


 ドアが開いた。


 そこに立っていたのは、スマホの画面越しに見ていたあの少年――

 成宮廉次だった。


 実物の彼は、写真以上に圧倒的だった。

 整った顔立ちはどこか人を寄せ付けない冷徹さを放ち、平凡な大学生である僕とは、立っているステージが違うことを一瞬で理解させられる。


「……あ、先生。紹介するね。クラスメイトの成宮君。今日、私の家で一緒に勉強することになったから」


 梨花の声は、僕が一度も聞いたことがないほど、甘く、控えめだった。

 あの生意気で高飛車だった彼女が、まるで主人を待つ子犬のように、成宮の顔色を伺っている。


「……初めまして、板ノ上です。一応、彼女の家庭教師を……」


 僕が椅子から立ち上がり、精一杯の愛想笑いで挨拶をしても、成宮は僕の目すら見なかった。


 ただ、部屋を見渡して鼻で笑っただけだ。


「へぇ、これが梨花の部屋か、やっぱ子供っぽいな――それでこっちが『家庭教師の先生』ね。……お前、最近成績が下がったって言ってたけど……、この人の教え方が悪いんじゃねーの?」


「あはは、ひどーい! でも、そうかもね。……ねえ廉次君、こっち座って? コーヒー淹れてこようか?」


 梨花は、成宮の無礼な言葉を咎めるどころか、楽しそうに笑いながら彼を自分のベッドの端に座らせた。僕が座っているパイプ椅子とは違う、彼女のプライベートな空間に、彼は土足同然の傲慢さで居座った。


「……梨花ちゃん。今は勉強の時間だよ。成宮君も、もし勉強するならそっちの机を……」


「先生、うるさい」


 梨花が僕に向けた視線は、氷のように冷たかった。


「今は廉次君と話してるの。先生は、そこで黙って仕事しててよ。あ、それか、もう帰ってもいいよ? 残りの時間は自習ってことにしとくから」


 僕は、言葉を失った。

 目の前で、成宮は梨花の腰に手を回し、彼女を自分の方へと引き寄せた。梨花は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに頬を赤らめ、幸せそうに彼に身を預けた。


「……おい。先生が困ってるぞ」


 成宮がニヤリと笑い、ようやく僕に視線を向けた。

 その瞳の奥には、弱者を嘲笑う明らかな優越感が宿っていた。


「申し訳ありません、板ノ上先生。こいつ、俺がいないとダメみたいで……。後は俺が面倒を見ておきますから――ほら、梨花。ちゃんと先生に挨拶しろよ。お疲れ様でした、ってさ」


「……っ。……お疲れ様でした、先生」


 梨花は成宮に促されるまま、僕に頭を下げた。

 その表情には、僕への申し訳なさなど微塵もなかった。ただ、成宮に従っている自分に酔いしれているような、恍惚とした表情。


 僕は、逃げるように部屋を出た。


 背後でドアが閉まる音と共に、梨花の「もう、廉次君、強引なんだから……」という甘い声が聞こえた気がした。


 冬の夜気は、肺が痛くなるほど冷たかった。


 彼女の合格を祝って、告白する。

 そんな滑稽な夢を見ていた自分が、どうしようもなく惨めで、キモかった。

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