第七十八話
明くる日、琥珀はまたしても蓮司の前にいた。
蓮司は目の前に立っている琥珀に対し、ずっと額を地面に押し付けたまま、やはり何も言葉を発さない。
琥珀も、ずっと言葉が出てこないまま、ただただ蓮司を見下ろしている。
何もない空白の時間が、悲しくも流れ続けていた。
「あの、琥珀様……今日もお越しになるとはどうされたのですか?」
横から何やら話しかけられているが、もはや琥珀は聞いていない。
夜中に彷徨く蚊のような、うざったい声で、叩いてやりたい気さえ起きていた。
「琥珀様………」
琥珀は敢えて相手に聞こえるぐらい大きな舌打ちをした。
叩くのは問題だとしても、これぐらいなら許されるだろう。
ヒッと肩が上がるのが視界に入る。
「彼を尋問する。前も言ったはずだが二人だけにしてくれないか?」
見張りの者は地の底を這うような琥珀の声に、「……はい」と小さく返事をしたかと思えば、尻尾を丸めて逃げていった。
そして、再び無機質な時間が流れた。
蓮司はまるで土下座の格好をした石像のように、微動だにしないままだ。
その背中からは、もはや精気が感じられなかった。
「………顔を上げてくれないか」
琥珀の声だけが、ポツンと響く。
「聞きたいことがある」
琥珀の言葉に、石像の背中がピクリと動く。
やっと生きていることを確認できて、琥珀の心に無意識に安堵が生まれる。
「………こ、琥珀、様」
その掠れた、錆びた金属のような声は、もはや人間が発しているものとは思えなかった。
「………二人だけしかいないから、話をさせてくれ」
琥珀に念を押され、蓮司はやっと顔を上げた。
ただ、琥珀の顔を見るわけではなく、衣の裾辺りを見つめている。
(………酷い有様だ)
目を合わせなくても、蓮司の風貌が更に変わり果てていることが分かった。
もはや皮だけになった顔は所々窪んでいて、骨の形がはっきり分かるほどになってしまっているし、身体の痣は更に増えて、濃く体に刻まれている。
町で見たことのある物乞いよりも悲惨だった。
けれど、そんな姿を目の当たりにして憐れみを向けられるほど、琥珀の心はまだ決まっていなかった。
それもそうだ。それをはっきりさせるためにこの場にいるのだから。
「あまり時間はかけられないから単刀直入に言う。父上とのことは全て聞いた。アンタは過去の恨みを晴らすために王宮に来たのか?」
「……ちがい、ます」
蓮司は琥珀の言葉にすぐに反応したが、声は弱々しく言葉尻は聞こえないぐらいだ。
もはや蓮司には大声を張り上げられるほどの力は残っていないのだから、即答するのがせめてもの抵抗なのだろう。
「……確かに私と王様には確執があります。王宮に来たのは命令されて、逆らえないからです」
蓮司は掠れた声で続けた。
「けれど、青藍様とお会いして私の心は変わったのです。あのお方は、私が全てを打ち明けても受け入れてくださいました。私なんかに頭を下げて『治してほしい』と……」
蓮司からそう聞くだけで、琥珀はその時の青藍の姿を容易に想像できた。
“兄上ならそうするだろうな”そう思うだけで下瞼が熱くなる。
「本気で治したかった………今まで苦しまれた分、これからは陽の元でずっと健やかに過ごしてほしかったのに」
蓮司の、殆ど骨だけのような細腕がガタガタと震える。
身体に水分など残っていないだろうに、瞳からは涙がとめどなく流れている。
その様子は、嘘偽りを述べているようには見えず、琥珀の心は大きく揺れた。
「では、なぜ兄上は死んだ?」
その一言で、蓮司は再び黙ってしまった。
目線はみるみる下がり、焦点は定まっていない。
「………アンタの薬に毒が含まれていたと聞いたが」
何度もそう言われてきたから、蓮司にはその言葉に反論する力は残っていなかった。
「正直に、本当に正直に話してくれ。今ここで何を話しても口外しない。俺はただ……本当のことを知りたいだけだ」
「アンタは………兄上を殺した犯人なのか?」
蓮司はガタガタと震えながらも顔を上げ、初めて琥珀の目を見た。
その目線は、覇気は残ってないものの、まっすぐと琥珀の目を貫いた。
「私は毒を仕込んでなどいません………本当に、心の底から青藍様を救いたかったのです」
その言葉に琥珀の心は大きく跳ね、頭の中にまで鼓動が響いてくる。
蓮司の言う通りだ。第一、本当に殺したいなら半年も経って、しかも完治寸前まで治療するわけがない。
「じゃあ……なんで何も言わないんだ!?違うなら違うと……なんで言わないんだ!?」
「……それは、」
琥珀はもう自分がどんな気持ちなのか、どんな感情から言葉を発しているのか分からなかった。
蓮司から何を聞きたくて、どうしたいのかもぐちゃぐちゃで、ただ口から勝手に言葉が出てくるような気持ち悪い感覚に襲われる。
「アンタが黙ってちゃ、このまま犯人にされて………怜まで殺されるんだぞ!!?いいのかよそれで!!」
______“怜”
言ってしまってから、この名が頭に響いた。
もちろん琥珀は、この場で怜の名前を出すつもりなど微塵も無かった。それ名は、今ここにいる動機の不純さを自ら明らかにしてしまうから。
けれど、口が勝手に独り歩きしている状態の琥珀に、核心をついた言葉を留めておくことなどできなかった。
今この名を出すのはあまりにも残酷で、あまりにも意地悪すぎる。
間違いなく先の一言は、蓮司の精神を壊しただろう。
琥珀には、蓮司が今どんな表情をしているのか分からないし、分かりたくなかった。
「…………ごめん、今のは、」
こんなにも自らの言葉を取り消したいと思ったことはない。
沈黙が首を絞められるような苦しさだと、こんなにも感じたことはない。
「_____琥珀様ッ!!!!」
荒々しい足音が近づいてきたと思ったら、そこに現れたのは望月だった。
望月には何も伝えず隠れて来たというのに、何故ここに琥珀がいると分かったのだろうか。
望月はいつにもなく慌てていて、醜いぐらいの汗をかいている。
「………なんだ?」
こう不機嫌そうには言っているものの、望月が来てくれたことで、琥珀は幸運にもさっきまでの沈黙から逃れることができた。
望月は蓮司をまるで肉親の仇を見るような目で一瞥した。その顔には珍しく憎しみが露わになっている。
そうしたかと思えば、無礼にも荒々しく琥珀の手を掴み無理矢理蓮司の前から引き離した。
「……ッ!?急に何なんだよ!」
琥珀が問いかけても望月は何も言わず、そのまま琥珀の手を引っ張り監獄から出ようとする。
その力は強く、琥珀はそのまま引っ張られてしまう。
琥珀としても、もう蓮司にかける言葉が見つからないのだから、このまま出ても良いのだけれど、望月の不可解な行動を見過ごすわけにもいかなかった。
「黙ってないで言いたいことがあるなら言えよっ!!」
琥珀は望月の手を振り払った。
無機質な監獄の中には、望月と琥珀の荒々しい息だけが響く。
「早くここから出ないといけないんですよ!!」
望月はそう声を張り上げたかと思えば、またしても琥珀の手を取ろうとする。
「はあっ!?何でだよ!」
琥珀は伸びてくるその手を避けた。
望月は早くしないと…と小さく呟いた後、頭を掻いた後、目線を蓮司に移した。
つられて琥珀も振り返り蓮司を見る。
「…………見つかったのです」
(______まさか。)
“何が”見つかったかなんて、今更聞かなくても分かる。
身体中の毛穴という毛穴から、冷や汗がじわじわと湧き出てくるのを感じる。
(_____嘘だ、だって彼はやっていないと、)
「………な、何が見つかったって言うんだよ?」
唇が震えて、思わず声が裏返る。
頭では分かっているのに、なぜ聞いてしまったのだろう。
聞いてしまったら、もう自分の心に逃げ場はない。
望月は大きな溜息をついた。
それは蓮司に向けられたものなのか、はたまた、ここまできてまだ優柔不断な態度を取り続ける琥珀に対してなのかは分からない。
望月はまるで剣を突き刺すかのような勢いで蓮司を指差した。
「あの者の医院から!青藍様を殺めた毒が見つかったのです!!」




