5-2
「あなた、今日はじめて会った女のことを名前で呼んでいるの?」
「ああ、そう呼んで欲しいって言われたからな」
「騙されているわよ、あなた」
いや、なんでだよ。
「あなたのような見るからに童貞臭くて女性経験に乏しい……失礼、皆無な男に名前で呼ばせることで一気に距離感を縮んだと錯覚させ、自分に有利に事が運ぶよう計算している行動よ。騙されている自覚がないようじゃその女の傀儡になるのも時間の問題ね」
「……女性経験の『乏しい』と『皆無』を間違えたことに失礼だと思う思考があるのならば、その発言そのものが俺や久遠に対して失礼なのだと気づいてもいいんじゃないか?」
有栖川が「なんですって?」と睨んで追撃しようとするのを手で制止させる。
「ひとまずは落ち着け。そして、冷静になって考えてみろ。大前提として、おまえは情報がなにもない状態で翔琉くんと一緒に歩いている久遠を見たんだ。弟を溺愛していることも遠因しているだろうが、そのせいで偏った見方しかできていないんだ」
翔琉くんを救ったという背景を知っていれば、騙す女なんて発想には至らないはずなのだ。
「もう何度も何度も言っているが、久遠が嘘をつく理由がどこにあるんだ? 実は翔琉くんに絡んできた不良とも手を組んでいて、自分に惚れさせるための作戦だったとでも?」
「まさにその、自分に翔琉を惚れさせるのが目的なのかもしれないでしょう?」
「いや、でも久遠は自分よりも弱い男には興味がないってきっぱり言い切ったらしいぞ?」
「どうして翔琉に惹かれないのよ!?」
「……めんどくせーな、おまえ」
盲目的な有栖川に辟易を覚えながら、俺は妥協案のようなものを告げる。
「俺の久遠に対する見解が信用できないと言うのなら、茉城にでも訊いてみたらいい」
「茉城……? どうしてここでしーちゃんが出てくるのよ?」
しーちゃん。茉城志麻の志麻からしーちゃん。茉城は有栖川をアリスと呼ぶし、お互いに愛称で呼び合っているらしい。俺が思っていた以上にふたりは仲が良いのかもしれない。
「久遠と茉城は同じクラスなんだよ。ふつうに会話もしていたから、俺よりも詳しいだろうよ」
「そう、そうなのね。あとでメッセージを送ってみるわ」
試しに言ってみただけだったんだが、俺の見解の信用の無さったら悲しくなるな。
「それはそれとして、あなたとしーちゃんの関係は?」
「関係……って言うほどのものじゃないと思うんだが、同じ中学校出身らしいぞ」
有栖川が「らしいってなによ」とツッコミを入れてくる。
「茉城は俺を知っていたみたいんだんけど、俺は茉城を知らないんだよな」
「……あなた、顔だけじゃなくて頭までもがおかしいんじゃないのかしら?」
「それはいったいどういう意味だ!?」
「そのままの意味よ。……それに、いまはあなたの頭の悪さなんてどうでもいいわ」
茉城のことを訊いてきたのはおまえだろうに。
「約束の時間に遅れてしまうようだったり都合が悪くなってしまうのであれば、それがわかった時点でなにか連絡のひとつでもするのが社会の常識じゃないかしら?」
「いや、だって俺、おまえの連絡先知らねえし」
それに、おまえが社会の常識を語るんじゃねえと思う。
「そ、そうだったかしら?」
途端に罰の悪そうな表情を浮かべる有栖川。こいつ自身も失念していたらしい。今朝の俺に脅迫状を寄こしてきたところから察せてもいいはずだけどな。
「たとえそうだったとしても、私の机に書き置きを残すとか、琴吹さんに伝言をお願いするとか、いくらでも伝える方法はあるはずでしょう?」
「書き置きを残すにしてもクラスの連中の目があるし、琴吹に頼むとしてもどう説明するんだ。有栖川に脅迫されてるんだけど、都合が悪くなったって伝えてくれって言えばいいのか?」
「……脅迫ですって? 人聞きの悪いことを言わないでくれないかしら?」
俺は捨てずに取っておいた有栖川の脅迫状を取り出して、紙面を見せながら読み上げる。
今日のお昼休み。
だれかに見られることなく、ひとりで校舎裏に来なさい。
そこで名探偵としての調査の結果を報告するように。
なにも情報が得られていなかった場合、どうなるのかは、わかるわよね?
逃げた場合にも、いったいどうなってしまうのか、わかるわよね?
追伸 あなた、ほんとうに同じクラスだったのね。
「どう見ても脅迫状じゃね?」
「……そんなことないわよ」
「ひとりで来ること。来ないとどうなるかわからない。このふたつの文面だけでも十分に脅迫に値すると思うんだが?」
「…………そんなことないわよ」
否定するなり有栖川は脅迫状を手に取って、証拠隠滅するかの如くくしゃくしゃに丸めてしまった。そして「脅迫状なんてどこにあるの?」と言ってくる始末である。……ひでぇ女だ。
「……脅迫かどうかはいいや。とにかく、俺はこれでお役御免ということで構わないよな?」
「どういうことかしら?」
「依頼した内容は翔琉くんと一緒に歩いていた女子がだれなのかを突き止めることと、ゴールデンウィークになにがあったのかを調べることだっただろ? もう終わってないか?」
「まだあなたの見解に過ぎないのだから、終わっていないわ。それにえ、えっちな本の隠し場所についての回答ももらっていないわよ」
「……それは知らねーよ」
そこまでして読みたいのかよ。そう思いながらも、俺は自分なりの見解を言ってやった。
自分を見直すために廃棄したか、もしくは、性的嗜好そのものが変わった可能性――。
「その、男子の感覚がわからないのだけれど、そんな簡単に変わってしまうものなのかしら?」
「……それこそ知らねーよ。人それぞれなんじゃないかと思うけど」
「使い物にならないわね」
「悪かったな」
こちとら本気でだれかを好きになった経験がないからわからないんだ。だからといって本気で心配している様子の有栖川にいい加減なことは言いたくなかった。
「ああ、そういえば」
俺はすっかり失念していた重要な情報を思い出した。
「久遠が言ってたんだが、今度の土曜日、翔琉くんと出かけるらしいぞ」
「なんですって?」
何度耳にしたかわからない有栖川の『なんですって?』が、今日一番の迫力を放っていた。おまけにテーブルの上に軽く身を乗り出して、俺のネクタイを掴んできた。いや、なんでだよ。
「翔琉とふたりきりで出かけて、いったいなにをするつもりよ?」
俺が言いたい台詞だった。俺のネクタイを掴んでどうするつもりだよ。
「そんなの俺が知るわけないだろ。なんでも翔琉くんが誘ってきて、何度か断ったけど折れないから仕方なく行くって言ってたけど」
「翔琉からの誘いを、仕方なく……?」
有栖川の目が不穏な色に変わる。
「言葉尻を捉えていちいち敵意をむき出しにするな。それこそ仕方ないだろうが。久遠ははっきり好意を断ってるんだ。その上で付き合うんだから、むしろ優しいやつだと俺は思うけどな」
「でも、ムリだと断っておきながら、結局はデートをするのでしょう?」
俺は「デートっておまえ」と、有栖川の飛躍した発想に苦笑した。
「具体的な内容までは聞いてないし久遠もわからないだろうが、きっと助けてもらったお礼としてなにかをプレゼントするだとか、せいぜい食事をごちそうするとか、そんなんだろ」
「だからデートじゃない!」
「……恋愛感情がなくても、デートになるものなのか?」
「あなたは女性に無縁だから知らないのでしょうけど、よく聞きなさい。年頃の男女が一緒に出かけるだなんて、それは問答無用でデートなのよ。男女の友情なんてものは幻想なのよ」
何度も何度も俺の女性経験について言及しなくてもよくね?
「じゃあ、俺らもいまデートしてんのか?」
俺はテーブルを指で差して言った。依然としてネクタイを掴む有栖川の顔が赤らんでいく。
「じ、じ、じ、冗談じゃないわよ! どうして私があなたなんかと!?」
ネクタイから手を放して、慌てて居住まいを正す有栖川。
「あなたと私はあくまでも一時的な契約関係でしかないのよ」
「……それはそれでなんかエロいけどな」
「なにか言ったかしら?」
俺は「いえ、なにも」と言って、飲み物を口に含ませる。
「でも、そうなのね、土曜日に……」
自問するように思案している有栖川。やがて、決然とした表情で言った。
「土曜日も調査が必要みたいね」
「いや、それはやめておいたほうがいいんじゃないか」
直感的に、嫌な予感がした。刺激しないように、努めて優しく諭すことを心掛ける。
「昨日とは違っていろいろと判明しているんだし、久遠だって翔琉くんを騙すような女子じゃないんだ。いくら弟が心配だとはいえ、またしてもストーカーするのは賛成できないぞ……」
「だ、だからストーカーじゃないって言ってるでしょ!?」
そうだったな。あくまでも調査だったな。日本語って難しいぜ。
「ま、土曜日ともなると昨日と違って休日で人の往来も多いだろうし、場所だってきっと、ショッピングモールとかだろ? せいぜい通報されないように気をつけるんだな」
「なにを言っているのよ? 当然あなたも同行するに決まっているじゃない」
「……拒否する」
俺の嫌な予感が的中した瞬間である。さり気なくひとりで行けと言っていたのに。
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