1.強迫性障害 自覚
1.強迫性障害 自覚
「自分が強迫性障害である」と認識したのは高校生の頃だった。
私は幼い頃から読書が好きだった。
そのため、本屋に足を運ぶ機会も多かった。
ある時、何時もの様にフラフラと物色していると「これは読まなくてはいけない」と、思わず手に取った本がある。
それが「人格障害かも知れない どうして普通にできないんだろう」だった。
私は自分を周りの大多数の学生と比べた時、随分と変わっている自覚があったし、自分でも抑えがたい可笑しな衝動があることを自覚していたのだ。
その本には様々な心理的病気について記されていて、その中にあった強迫性障害が自分自身の状態にぴったりと当てはまる事に気が付いた。
当てはまったところで、その症状が何か改善されるわけでもないが、原因がわかっているだけで幾らか楽になったと思う。
なぜ、たったそれだけで多少救われるのかというと、強迫性障害には理解者がいないからだ。
自分が強迫性障害であると認識していない状況では、自分自身ですら自分の行動が理解できないのだ。
もし、周囲に強迫性障害について理解がある人がいるのなら、それだけでも随分珍しいことで恵まれているのではないかと思う。
理解することはできていないが、その努力はしているというのでもいい。
大抵は、わかろうとさえもされないものだから。
「いい加減にしろ」
「私がそんなに汚いというのか」
「そんな事は無駄だ」
私も言われたことがあるし、だいたいこんな感じだと思う。
そんな事は自分でも重々わかっているのだ。
そんな事を言われたって、自分でも無駄な事とわかっているのに、どうしようもできない。
好きで強迫行為をしているわけではない。
やめたくて、やめたくて仕方がないけど、それでも脳が言うことを聞いてくれない。
意思に反して勝手に思考する。
だから、強迫性障害に苦しむ人は、自分一人で抱え込まざるをえないって状況が大多数じゃないだろうか。
365日、強迫観念にとらわれて気の休まることがなく、強迫行為を繰り返しながら日常生活をおくる。
この終わりのみえない、延々と続く脅迫行為(儀式)をこなしていると、誰も助けてはくれないと思えてくる。
実際、自己責任でその通りなのだろう。
治る気がしない。
この、終わりのみえない苦しみを抱えて、生きていかなければならないのだろう。
私は、もういい加減疲れてしまった。
もう楽になりたい。




