12.大変な挑戦
12.大変な挑戦
強迫性障害の不潔恐怖では新しいことへの挑戦がなかなかできない。
そこには、消極的にならざるを得ない理由があるのだ。
興味をもって「やってみたい」と思ったら、それをすぐに実行できるのかというとそうではないのだ。
例えば、もしあなたが新たに英会話を始めようと思ったとき。
まず、何を考えるだろうか。
よくある駅前留学とかいう教室に通ってみるのか、それとも本屋で参考書を購入し、独学で学ぶのか、きっとそんな感じではないだろうか。
不潔恐怖の場合は違う。
まず取っ掛かりに問題があり、どこに置き場を、作業場を確保するかだ。
ただでさえ狭い聖域に新しいものを持ち込むことは、そもそも無理があるのだ。
そして、その無理を何とかして解決しなければ、何かに挑戦してみることさえ始められない。
不潔恐怖にとって、テキストを買うとか、教室に通うとか、それ以前の問題なのだ。
そして、新しく何かを始めるために、聖域を片付けるには大変な苦労が伴う。
汚い場所を掃除するとか、汚染されてしまったものを綺麗にする儀式だとかとは、また違った壁がある。
聖域を汚染してしまわないように、大切なものが汚れてしまわないように細心の注意を払って片付けるのだから、非常に神経を使い疲れ果てる。
なにしろ、聖域を汚してしまったら、活動範囲が狭まってしまうのだから。
作業手順を難解なパズルを解くかのように複雑に組み立てなくてはならないのだ。
英会話じゃなくたっていい、他に例を上げるなら、例えばスポーツだったらどうかといえば、もっと困難だ。
不潔恐怖にサッカーやバスケットボールができるわけがない。
足でけったボールが服に当たったら発狂ものだし、床と掌をボールが行ったり来たりするなんて考えられない。
水泳だってそうだ。
多くの人の肛門に、自分の肛門に触れる水に浸かるなんて許されない。
何がダメなのか説明する必要もないだろうが、腕立てや腹筋もそうだ。
不潔恐怖であってもできるスポーツは歩く事くらいだろう。
新しい場所に行く、新しい何かを始める、そうした場合、それらすべてに一々綺麗汚いの評価を下して、強迫観念にもとづいた行動を、手順を、自動で脳が思考する。
それから、それが可能かどうか結論が下される。
駄目だと言われても、それでも、どうしても、やりたい事があった時は、泣きそうになりながら何とか自分の脳が許してくれる手順を考え出さなくてはならないのだ。
そのため強迫性障害の不潔恐怖は、新しいことにたいして消極的にならざるを得ないのが現状である。




