濁った金貨と、琥珀色のスープ
大釜から立ち上る、甘酸っぱくて少しスパイシーな湯気が、私の顔を包み込む。
クローブとシナモン、それから我が家の畑で採れた、少し不揃いだけど味の濃い林檎を煮詰めた香り。これにほんの少しの調合水を加えて、じっくりと煮込んでいく。
「うん、いい色。これなら今年の冬を越すための、最高の『お助けペースト』になるわ」
私は木ベラを置き、額の汗を拭った。
ここは王都の端にある小さな農園の台所。
2年前に流行り病で亡くなった祖父母が残してくれた、ささやかな農園と古い家が、今の私の城だ。
両親が亡くなった当初、この農家は借金まみれで潰れかけていた。ただ普通に野菜を作って市場に出すだけでは、大農園や貴族お抱えの商人たちに買い叩かれてしまう。
そこで私が始めたのが、この「保存食」ビジネスだった。
普通、冬場の庶民の保存食といえば、塩辛くて固い肉や、カビ臭い干し野菜が定番だ。でも、私は畑の隅の小屋に眠っていた錬金台を使い、独自の保存薬を編み出した。これを使うと、野菜や果物の旨味を閉じ込めたまま、お湯を注ぐだけで「作りたてのスープ」や「果実のコンフィチュール」に戻る。
しかも、特別な薬草使うわけじゃないから、コストは格安。しかし微量単位での繊細な調合が必要で、レシピ生み出した自分ですら、レシピ通りに作っても当初は失敗続きという、繊細な調合法だった。
市場の片隅で、銅貨数枚で売り出すと、またたく間に近所の洗濯婦や、炭鉱で働く男たち、小さな子供を抱えるお母さんたちの間で評判になった。
「エルサさんの秘薬があれば、冬の凍える朝でも、子供たちに美味しいスープを飲ませてあげられるよ」
そう言って笑ってくれる庶民のみんなの笑顔が、私の何よりのやりがいだった。儲けは少なくて、毎月の暮らしはカツカツだけど、私はこの仕事に誇りを持っていた。
……あいつが、あんな風に変わってしまうまでは。
────
「おい、エルサ。またそんなゴミみたいな色したスープを作ってるのか」
背後から、低く、どこか棘のある声が響いた。
振り返ると、乱れた金髪をかき上げながら、あくび混じりに台所へ入ってくる男がいた。
私の夫、ルカスだ。
ルカスは、私と同じ孤児院の出身だった。子供の頃の彼は、優しくて、いつも私の作ったおにぎりやスープを「美味しい、美味しい」と、泥だらけの顔で笑って食べてくれる少年だった。両親が亡くなり、私が遠方の祖父母に引き取られるまでの間、途方に暮れていた私を、「俺がエルサを支えるから」と手を握ってくれて、いつも励ましてくれていた。
だから1年前に彼を喜んで招き、そして結婚した。幸せになれると信じていたからだ。
けれど、王都の荷受組合で働き始めてからの彼は、まるで別人のようになってしまったのだ。
「ゴミだなんて失礼ね。これは近所の仕立て屋のハンスさんが、冬用にって10瓶も予約してくれたのよ」
私は彼を怒らせないよう、努めて冷静に返した。
ルカスはフンと鼻で笑うと、テーブルの上に飾ってあった売り上げの入った小さな革袋を、品定めするように持ち上げた。チャリン、と軽い音がする。
「ハンス? あの貧乏仕立て屋か。おいおい、たったの銅貨15枚かよ。これっぽっちの金で、毎日毎日、材料を無駄遣いして、大釜をひっくり返してるのか? お前、本当に馬鹿だな」
「無駄じゃないわ。みんなが喜んで……」
「喜ぶ? そんなもので腹が膨れるか!」
ルカスはバン、と激しくテーブルを叩いた。その目は、かつての優しい面影を消し去り、ギラギラとした、酷く濁った色を宿している。
「いいか、エルサ。世の中、金だ。金を持っていなきゃ、人間扱いされないんだ。お前のその『斬新なアイデア』だっけか? んなもん、庶民相手に安売りするからいけないんだ。適当に『宮廷御用達の秘薬入り』とでも嘘をついて、貴族のバカどもに銀貨5枚で売りつければいいんだよ。ふんだくれる奴からは、徹底的にふんだくる。それが商売ってもんだろ!」
「そんな詐欺みたいなこと、できるわけないでしょう! 絶対に続かないわ。それに私は、私と同じように、明日の食事にも困るような人たちの力になりたくて……」
「チッ、これだからおめでたい綺麗事は困る。お前がそんなだから、俺たちはいつまで経っても、こんな泥臭い家で、薄汚いスープをすすらなきゃいけないんだ!」
ルカスは吐き捨てるように言うと、私の制止も聞かず、テーブルの上の革袋から、明日の仕入れ代にするはずだった銀貨を2枚、乱暴に抜き取った。
「あ、待って! それは明日のハーブの仕入れ代よ!」
「うるせえな、俺が働いた金で補填してやりゃいいだろ。ちょっと付き合いがあるんだよ」
そう言って、彼はまだ昼過ぎだというのに、足早に家を出て行ってしまった。
残された私は、がっくりと膝をついた。
ルカスがここまでお金に固執するようになったのは、荷受組合で金持ちの商人たちの贅沢を間近で見ているからだろう。私より遥かに長い間孤児だった彼は、誰よりも「貧しさ」を恐れていた。その恐怖が、いつしか彼を歪ませてしまったのだ。
「昔は……あんなに優しかったのに」
ぽつりと溢れた涙は、大釜の熱気であっという間に乾いて消えた。
それからルカスは、いつものように夜になっても帰ってこなかった。
最近の彼はいつもそうだ。荷受組合での仕事が終わると、一目散に裏通りの酒場へ向かう。そこで安い酒を浴びるように飲み、葉巻の煙が充満した地下室で、ダイスを使った賭博に興じる。
最初は仕事の「付き合いだ」と言っていた。
でも、次第に朝帰りが増え、ルカス自身の稼ぎだけでは足りず、私の保存食の売り上げにまで手を付けるようになった。
時計の針が深夜の2時を回った頃。
私はリビングの硬い椅子に座り、冷え切ったハーブティーを前に、ぼんやりと外を眺めていた。
また、どこかで借金でも作っていなければいいけれど。そんな不安が胸をよぎった、その時だった。
ドンドンドン!! ドンドンドン!!
静まり返った夜の帳を切り裂くように、粗暴な足音が近づき、我が家の古びた木の扉が激しく叩かれた。
「おい! ここはルカス・モルツの家か! 今すぐ開けろ!」
心臓が跳ね上がった。この声は、近所の住人のものではない。金属が擦れ合う、冷たい音が聞こえる。
私は震える手で閂を外し、恐る恐る扉を開けた。
そこに立っていたのは、松明を掲げた2人の衛兵だった。厳しい表情が、夜の闇に浮かび上がっている。
「……は、はい、ルカスの妻の、エルサですが……な、何か夫が?」
衛兵の一人が、深い溜息をつきながら手帳を開いた。
「奥さん、気の毒だが、旦那さんがまた(二度目)やらかしたよ。裏通りの酒場『黒猫の尾亭』で、盗品を用いてダイス賭博に手を出した挙句、負けが込んで胴元の男と殴り合いの喧嘩だ。酒場のテーブルや椅子、ジョッキや照明、酒など破損させた挙句、相手の鼻の骨をへし折った」
「そ、そんな……!」
「現在、ルカスは詰所の地下牢に拘留されている。店側は被害届を取り下げる条件として、修繕費の弁償、売上の損失分、金貨4枚、双方折半で【金貨2枚】を要求している。日の出までに保釈金と弁償金が支払われなければ、彼は鉱山送りか、奴隷落ちだ」
き、金貨……2枚――。
普通の庶民が半年、下手をすれば1年近く汗水垂らして働いて、ようやく手に入るかどうかの金貨が、2枚も。
頭の中が真っ白になった。
私の手元にあるのは、次の仕入れと、冬を越すための薪代、そして本当に動かせない税金用のプール金だけ。それをすべて、文字通り「すべて」集めれば、なんとか届くかもしれない、という絶望的な金額だった。
「それで……奥さん。どうする? 払うかい? それとも見捨てるかい?」
衛兵の言葉に、私は唇を噛み締めた。
見捨ててしまえば、楽になれるかもしれない。そんな冷酷な思考が一瞬、頭をよぎる。
けれど、幼い頃に一緒に笑い合った彼の笑顔が、どうしても脳裏から離れなかった。
「……は、払います。今、お金を用意しますから、連れて行ってください」
私は血を吐くような思いで、ベッドの底に隠していた貯金箱を引っ張り出した。
────
詰所の冷たい石畳を踏み、保釈の手続きを終えたのは、東の空が白み始めた頃だった。
私の手の中から、両親の代からコツコツと貯めていた、そして私が爪に火をともすようにして稼いだ硬貨が、すべて衛兵のデスクへと吸い込まれていった。
「ちっ、ったく、大げさに騒ぎやがって」
「お前は運が良かったな。向こうは鉱山送りだ。二度と騒ぎを起こすなよ」
「はん」
奥の牢屋から出てきたルカスは、衣服こそ泥と酒で汚れていたものの、怪我ひとつしていなかった。
彼は腫れぼったい目で私を見ると、感謝するどころか、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ったく、遅いんだよ、エルサ。もっと早く金を持って来いってんだ。あの薄汚い牢屋、ネズミが出るんだぞ?
信じられるか?」
詰所の外へ出た瞬間、私は足を止め、ルカスの背中に向かって声を絞り出した。
「ルカス。あなた、自分が何をした分かっているの?」
「あぁ? 何って、ちょっと運が悪かっただけだろ。いや、今は運がいいか。ハハハ、ああ、あの胴元の野郎、絶対にイカサマやってたんだ。まあ鉱山送りなら、少しは反省できるだろうよ。安心しろエルサ。イカサマやろうが消えれば、次は絶対に勝てる。あ、そうだ。保釈金払うのに、まだ金残ってるか? 迎え酒でもしないとやってられねからな」
彼は、振り返りざまに平然とそう言った。
その顔には、罪悪感も、私への申し訳なさも、これっぽっちも存在していなかった。
私の心が、パキンと、微かな音を立てて割れた。
それは、私の中で最後まで燻っていた、彼への「情」という名の最後の未練が消え去った音だった。
私の大切な農園。
私が命を削るようにして開発した保存食。
それをすべて踏みにじり、ギャンブルと酒につぎ込み、挙げ句の果てに反省すらしない。
(ああ、もう限界だ)
この人は、私がどれだけ尽くしても、どれだけ泣いても、二度と昔のルカスには戻らない。
私を愛しているのではなく、私の「お金」と「都合のいい居場所」に依存しているだけだ。
「ルカス」
私は、今までにないほど冷たい声で、彼の名前を呼んだ。朝焼けの光が、私たちの間に長い影を落とす。
「なんだよ、怖い顔しやがって。金がないなら、またあの怪しいスープ売って稼げばいいだろ?」
「いいえ。お金はもう、1枚もないわ。あなたを助けるために、本当に、すべて使い果たしたから」
私は、しっかりとルカスの目をまっすぐに見つめた。
「だから、もうあなたに貢ぐお金はない。――私たち、終わりにしましょう」
「は!? おいおい、待てって、一体何言って……」
呆然とするルカスを置き去りにして、私は一歩、前へと踏み出した。朝の空気は冷たかったけれど、私の胸の奥には、不思議なほど静かで燃えるような決意が宿っていた。
(私の人生を、これ以上あなたに搾取させない)
これが、泥沼の生活から抜け出し、私が私としての輝きを取り戻すための、本当の始まりだった。




