16話 ~ありがとう~
リビングに降りると、そこにはコーヒーを片手に新聞を広げている流星がいた。
「こんな時間に降りてくるなんて珍しいな、計太。いつもは昼過ぎまで寝ているだろう」
「なんとなく目が醒めちゃって……。それより、流星の方こそどうしたの? そんなジャージ、持ってたっけ?」
計太が指摘すると、流星は少し言葉を濁しながら答えた。
「ああ、これか……。実は、今日からジムに通うことにしたんだ」
「ダイエット?」
「システマだ。ロシアの軍事格闘術を教えてくれるところだよ」
「どうして急に?」と首をかしげる計太に対し、流星の眉間に深い皺が寄った。それは、過去の苦い記憶を反芻している時の顔だった。
「あの事件の時だ……。根元がナイフを持って私に突進してきた瞬間、私の体は硬直していた。あの男が暴挙に出る可能性は、論理的には予測できていたはずなのに、とっさに対処できなかったんだ。正直に言えば、私はあの時、怯えていた。だから、自分を鍛え直すことにした。システマは実戦的な軍事格闘だから、ナイフなどの武器術も学べる。今の私には最適だと思ったんだ」
「へぇ、なるほどね……。それで、一人で行くの?」
「いや、それは……」
流星はますます口ごもり、視線を新聞に落とした。
「
上原さんと、一緒だ」
「やっぱり!」
計太の弾んだ声に、流星は驚いたように顔を上げた。
「……どうして分かった?」
「だって、髪にワックスを付けてるじゃない。休みの日の流星はそんなことしないって知ってるよ。軍事格闘を習いに行くなら、なおさら必要ないでしょ? ってことは、お目当ては女の子。分かりやすいなあ」
「勘違いするな。別にそういうのではない。上原さんも私と同じで、あの時動けなかったことを悔やんでいる。お互いに研鑽を積もうというだけだ」
「へー、そうなんだぁ」
「……何を言っても無駄なようだな」
「警察は人の嘘を見抜く専門家だけど、嘘をつく専門家じゃないからね」
からかう計太に、流星は拗ねたような顔でコーヒーを啜った。
その時、玄関のチャイムが鳴り響いた。
「おっ、来たみたいだ!」
「なんだ、何か頼んでたのか?」
「流星からもらったグランドセイコーだよ。事件が解決した後、すぐにオーバーホールに出してたのが帰ってきたんだと思う」
計太は満面の笑みを浮かべ、玄関へと小走りで向かっていった。その現金な後ろ姿を見送りながら、流星は苦笑を漏らす。
「どうりで上機嫌なわけだ……。それにしても、あの後ろ姿だけ見れば、とても凄腕の呪術師には見えないな」
玄関から戻ってきた計太の手首には、オーバーホールを終えて磨き上げられたグランドセイコーが輝いていた。
「見てよ流星、この輝き。やっぱり日本の職人技は最高だね。時計が喜んでるのが分かるよ」
計太は何度も手首を傾け、光の反射を楽しんでいる。その様子を眺めていた流星が、ふと新聞を置いて呟いた。
「……なるほど。そうやって愛着を持って身につけているのを見ると、私まで何か一つ、確かな時計が欲しくなってきたな。資産価値も考えて、ロレックスでも買おうか」
その言葉を聞いた瞬間、計太が「あちゃー」という顔で肩をすくめた。
「流星、悪いことは言わないから、今はロレックスはやめておきなよ」
「なぜだ? 世界的なブランドだし、品質も申し分ないだろう」
「いや、今のロレックスは『欲しい』と思って店に行けば買えるような代物じゃないんだよ。今は空前のロレックスバブルでね。まず、正規店に行っても棚はガラガラ。新品を手に入れるには、毎日店に通い詰めて店員さんと顔なじみになる『ロレックス・マラソン』をしなきゃいけないんだ。それでも買える保証はないよ」
流星は信じられないといった風に眉を寄せた。
「……客が店を走るのか?」
「もちろんあるけど、今は円安の影響で定価自体が何度も値上がりしてるし、二次流通市場ではプレミア価格がついて、定価の二倍、三倍なんてモデルもザラだよ。流星みたいな合理主義者が、わざわざそんな割高な時期に、汗をかいてまで買うもんじゃないって」
「……時計一つ買うのに、そこまでの労力とコストが必要なのか」
「そう。それに比べて、そのグランドセイコーを見てよ」
計太は自慢げに自分の手首を突き出した。
「適正な価格で、最高の精度。変に目立ちすぎないし、嫌味もない。警察官っていう流星の仕事柄にも合ってると思うけどね?」
「……なるほど、たしかに検討が必要なようだな」
「グランドセイコーだったら、新品ももちろんいいけど、僕みたいに昔のモデルをメーカーで完璧に『磨き直し』をしてもらうのもオツなもんだよ。見てよこの輝き。十数年前の時計だなんて思えないだろ? 中身も外装も新品同様に蘇らせてくれる。……こういう『物を大事に使い続ける』良さが分かるのが、本当の大人ってやつじゃない?」
流星は腕を組み、真剣な面持ちで考え込んだ。その生真面目な様子に、計太は苦笑しながら肩を叩く。
「仕方ないな。流星がそこまで本気なら、今度暇な時に一緒に店を見に行ってあげるよ。時計のスペックだけじゃ分からない、『通』なアドバイスができるかもしれないしさ」
「……ああ、ぜひ頼む」
「任せといて! ……っていうか、時間は大丈夫? デートに遅れたら大問題だよ?」
計太が悪戯っぽく笑いながら、手首のグランドセイコーをこれ見よがしに指差す。流星は反射的に壁の時計に目をやり、わずかに表情を硬くした。
「確かにそろそろだな……。というか、重ねて言うが別にこれはデートというわけではなく……」
「はいはい、もういいよ。そういうお決まりの言い訳はさ」
計太は鼻で笑い、満足げに愛機の輝きを眺めながら、自分の部屋へと戻っていった。
「全く……」
一人残されたリビングで、流星は小さくため息をついた。
「ありがとうな、計太」
伝えようと思っていながら今日も言い出すことが出来なかった言葉をこっそりと吐いた。
玄関のドアを開けると、少し湿っている夏の空気が肺を満たした。
誰かが「人生の経験は絶対に無ではない」と言っているのを聞いた事がある。それに対して、今の流星は自身を持って頷くことができる。酷い事件ではあったが、無駄では無かった。
義理の兄弟でも、強い絆と信頼を育むことはできる。その確信はとても暖かくて、とても心強かった。
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