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1974年  作者: yoten
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(初稿版)第六章・第一節:命を買わず、国家は宇宙を買った

夜の匂いを、覚えている。

静電気を含んだ毛布、湿った壁紙、遠くを走る貨物列車の低い振動。

記憶の底で、a.n.hはもう一度、その夜に戻っていた。

まるで夢のような感触で始まり、終わることのなかったあの夜に。


外は吹雪だった。窓の隙間から、風が「ヒュー」と音を立て、部屋の片隅に積まれた古新聞を時おり震わせた。

壊れたヒーター。赤くならないコイル。ラジオのボリュームはゼロに絞られ、代わりに母の咳だけが部屋を支配していた。


まだ彼が「少年」でさえなかった頃の話だ。

体温のように低い暮らしの中で、母の目だけが燃えていた。


> 「人を月に…? 信じられる? アポロがどうしたって? それで何人助けられたっていうの…」

母は天井を見つめたまま、誰にも届かない声で言った。




a.n.hは、アポロ計画の意味など知らなかった。

ただ「月」という言葉の響きが、夜の底に冷たく落ちていくのを感じただけだった。

それよりも彼にとって問題だったのは、母の痩せた手が震えていたことだ。

そして、母が何かを待っていたこと。


郵便受け。

毎朝、まだ陽が昇る前から、母はコートも羽織らず外に立ち尽くしていた。

あの鉄製の箱に、何かが届くことを信じていた。

あるいは、自分の存在が国家に届いていると、信じていたかったのかもしれない。


a.n.hがそれを見つけたのは、それから数年後だった。

母が死に、モーテルが取り壊され、彼が預けられた施設から一時的に戻ってきたときだった。

ベッドの下、埃をかぶった缶の中に、小さな封筒があった。


封は切られていなかった。

それを開けたのは、もうすっかり青年になった彼だった。


> 「医療扶助に関する申請は却下されました」

「本年度の予算は国家戦略上、宇宙開発計画(APOLLO)に優先的に配分されています」

「異議申し立ては受け付けておりません」




彼は、何も感じなかった。

心が凍るというのは、ああいうことなのだろう。


でも、その手紙の裏に――

母がボールペンで震える手で何かを書き殴っていた。


> 「命を買わず、国家は宇宙を買った」




それが、彼の“始まり”だった。

名前を持たないa.n.hという存在の、最初の輪郭だった。



---


> あれから、10年と少しが経った。

モーテルは跡形もなくなり、郵便受けも、雪でうっすら傾いていたあの地面も、記憶の中にしか残っていない。


そして今――

1974年、NSA地下区画D3群。

ファイリングミスか、意図的かはわからない。だが、廃棄予定資料の束の中に、あの手紙のコピーが紛れていた。


コピー用紙の黄ばみは、時の経過ではなく、国家の関心の薄さによるものだった。


> 「命を買わず、国家は宇宙を買った」




その言葉を、a.n.hは初めて“記録として”読み返した。

自分が何を追いかけているのか、少しだけ理解できた気がした。

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