(初稿版)第六章・第一節:命を買わず、国家は宇宙を買った
夜の匂いを、覚えている。
静電気を含んだ毛布、湿った壁紙、遠くを走る貨物列車の低い振動。
記憶の底で、a.n.hはもう一度、その夜に戻っていた。
まるで夢のような感触で始まり、終わることのなかったあの夜に。
外は吹雪だった。窓の隙間から、風が「ヒュー」と音を立て、部屋の片隅に積まれた古新聞を時おり震わせた。
壊れたヒーター。赤くならないコイル。ラジオのボリュームはゼロに絞られ、代わりに母の咳だけが部屋を支配していた。
まだ彼が「少年」でさえなかった頃の話だ。
体温のように低い暮らしの中で、母の目だけが燃えていた。
> 「人を月に…? 信じられる? アポロがどうしたって? それで何人助けられたっていうの…」
母は天井を見つめたまま、誰にも届かない声で言った。
a.n.hは、アポロ計画の意味など知らなかった。
ただ「月」という言葉の響きが、夜の底に冷たく落ちていくのを感じただけだった。
それよりも彼にとって問題だったのは、母の痩せた手が震えていたことだ。
そして、母が何かを待っていたこと。
郵便受け。
毎朝、まだ陽が昇る前から、母はコートも羽織らず外に立ち尽くしていた。
あの鉄製の箱に、何かが届くことを信じていた。
あるいは、自分の存在が国家に届いていると、信じていたかったのかもしれない。
a.n.hがそれを見つけたのは、それから数年後だった。
母が死に、モーテルが取り壊され、彼が預けられた施設から一時的に戻ってきたときだった。
ベッドの下、埃をかぶった缶の中に、小さな封筒があった。
封は切られていなかった。
それを開けたのは、もうすっかり青年になった彼だった。
> 「医療扶助に関する申請は却下されました」
「本年度の予算は国家戦略上、宇宙開発計画(APOLLO)に優先的に配分されています」
「異議申し立ては受け付けておりません」
彼は、何も感じなかった。
心が凍るというのは、ああいうことなのだろう。
でも、その手紙の裏に――
母がボールペンで震える手で何かを書き殴っていた。
> 「命を買わず、国家は宇宙を買った」
それが、彼の“始まり”だった。
名前を持たないa.n.hという存在の、最初の輪郭だった。
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> あれから、10年と少しが経った。
モーテルは跡形もなくなり、郵便受けも、雪でうっすら傾いていたあの地面も、記憶の中にしか残っていない。
そして今――
1974年、NSA地下区画D3群。
ファイリングミスか、意図的かはわからない。だが、廃棄予定資料の束の中に、あの手紙のコピーが紛れていた。
コピー用紙の黄ばみは、時の経過ではなく、国家の関心の薄さによるものだった。
> 「命を買わず、国家は宇宙を買った」
その言葉を、a.n.hは初めて“記録として”読み返した。
自分が何を追いかけているのか、少しだけ理解できた気がした。




