小さな花
共有スペースの窓辺に誰が置いたのか、一つの小さな鉢植えが置いてあった。そこに咲いている名も知らない白い小さな花を見ていたら、なんだか無性に泣けてきた。
花はこんなにちっちゃいのに、生きていた。当たり前に生きていた。美しく健気に、瑞々しく。それは生きていた。それに比べて、今の自分が、堪らなく惨めで情けなくて情けなくて――、どうしようもなく情けなくて――、仕方なかった。
「もっとお母さまを大切にしてあげないと」
昨日、若い看護婦さんに言われた言葉が脳裏に蘇る。
「あなたを産んでここまで育ててくれたのよ」
あの若い看護婦さんは、私に諭すように言った。
多分、あの看護婦さんは、生きていて幸せなのだろう。この世に生まれてきてよかったと思っているのだろう。
私には、苦しみしかなかった。これまで生まれて来てよかったなんて一度も思ったことなんかなかった。生まれてこなければよかった。何で私なんか産んだんだ。そんな思いしかなかった。それなのに両親に感謝なんて出来るわけがない。恨みしかなかった。何でこんな私を産んだんだ。何で私なんか産んだんだ。
でも、こんな思いも普通に幸せに生きることのできている人たちには絶対に分からないだろう。
だから、私はただの親不孝者でしかない。
いつからだろう。死にゆく人たちを羨ましいと思うようになったのは――。
街で見かける幸福そうなあの人たちのようになりたかった。
「どんな人生なんだろう・・」
生まれた時から孤児だった子が、楽しそうに歩く親子を見ながら思うように、絶対にああはなれないあんな人たちの人生を夢想して、私は、いつも今の自分の人生に惨めに絶望する。
せめて、絶望が一色だったらいいのに――。でも、絶望は色んな色をしている。それが万華鏡のように複雑に様々色を変えながら私を襲う。
「もう疲れたよ・・」
すべてに、何もかもすべてに疲れてしまって、もう何もかもがどうでもよくて・・、もういい。もういい。何もかもがもうどうでもいい。
私は疲れ切りたい。疲れ切った頭で私は私を失いたい。もうこの私という私が消えて欲しかった――。
今日もなんの意味も価値もない無駄な一日が終わる。私はベッドに横たわり、暗い部屋に目を閉じる――。
眠る度に私は思う。
「このままもう目が覚めないで」
眠っている間にすべてが終わって欲しい。私のすべてが――、このまま静かに終わって欲しい――。
「やあ」
直志さんは、今日もいつものあの独特のやさしい感じで話しかけてくれる。
「直志さん・・」
私が自殺未遂をしたことも知っているだろう。でも、そんなことはまったくおくびにも出さずに私に接してくれる。
でも、私はそれが怖かった。
――私は愛し方ではなく、愛され方が分からなかった。今まで誰にも愛されたことがなかったから――
「うちの近くに激安スーパーができてさ」
直志さんはいつも他愛のない話をする。これも、多分、私に気を使ってだと思う。
人から愛されたいと切に心の底から思っているのに、怖かった。愛されることが――、怖かった――。
「この物価高だろ、すごく助かっちゃってさ、でも、その激安スーパーも値上がりし始めちゃってるんだ。困ったよ。本当に生活できないよ。貧乏学生は辛いな。あははは」
直志さんにずっと、ずっと傍にいて欲しかった。ずっとずっと――。私も傍にいたかった。直志さんの傍にずっといたいと思っていた。
でも、その想いをうまく言葉に、そして、それを素直に伝える勇気がなかった。
「どうして、どうして私は・・」
そんなダメな自分が、情けなかった。何で私は私なんだろう。私を呪う私。いつも私はこんなだった。
私はふいに泣き出してしまった。直志さんは、そんな私に困惑する。
「あ、あの、僕何か・・変なこと言っちゃった・・?」
直志さんが慌てる。誤解を解かなきゃ、直志さんが悪いわけじゃない。そう思ったけど、言葉が出て来なかった。頭が混乱して色んな感情が溢れて、その時に適切な言葉が出て来なかった。
「ごめん・・、なんか・・」
そうじゃなかった。直志さんは悪くなかった。ただ、私が・・、でも、それを言葉にできなかった。直志さんに傍にいて欲しかった。でも、それをどう言っていいのか分からなかった。
「ごめん・・、そんなつもりじゃ・・」
直志さんは困惑する。でも、私は泣くばかりだった。
「・・・」
泣くばかりで何の反応もない私に、直志さんは、どうする術もなく、悲しそうな顔をしてその場からうなだれるように去って行った。
直志さんを傷つけてしまった。傍にいて欲しかったのに、ずっと傍にいて欲しいと思っていたのに・・。
「・・・」
私はまた嫌われてしまったと思った。直志さんにも嫌われてしまった。
どうして私はこんななんだろう。
「どうして私は・・」
死んでしまいたかった。堪らなく死んでしまいたかった。
――なんだか、あの閉鎖病棟の日々が懐かしかった――
もしかしたら、あの時間が私の人生の中で一番心の安らかな時間だったのかもしれない。
海に行った思い出でもなく、山にキャンプに行った思い出でもなく、あの閉鎖された部屋の無機質な壁を、無気力な頭で見つめ続けたあの時間が、私のこれまでの人生の中で一番安らかな思い出。それが私の青春。
「・・・」
部屋の窓から鉄格子の向こうに見える夜空の星を見つめる。鉄格子越しにしか外の世界を見ることのできない今の自分が堪らなく惨めで悲しかった。
「私の人生は終わったんだな・・」
私はそう思った。




