新聞記事の文章はどこか他人事
新幹線のホームは帰省客で賑わっていた。六年ぶりの帰省は晴れ。周りの乗客もどことなく気分が高揚している様子だった。久しぶりの私服で乗る新幹線は、実に気分がいい。自由席、少し倒したシートの上でうつらうつらとする中、高校生の僕が受けた古典の補講を思い出す。有名な短歌だった。
『思いつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを』
僕は、どちらの現実を欲しているのだろうか。
新幹線を降り、JRに乗り換えること三十分。西浦駅の看板は六年前と変わらず静かに町の様子を見守っていた。少し田舎くさい地元の匂いは今も昔も変わらない。
僕は最低限の着替えを入れたバックを肩にかけ、駅舎を出る。スマホにメッセージが入った。母さんからだ。
『買い物行ってるから』
簡潔な文章だった。裏口の鍵は小さい頃から物置にある。今でも変わっていないのだろう。「分かった」とだけ返信する。好都合だ。少し寄り道しても怒られることはない。夏空のような日差しの中、僕は少し遠回りして帰ることにした。
西浦町はベットタウンの更にそのベッドタウンの位置ある、閑静な住宅街が占める町だ。二つ前の駅はショッピングモールが直接つながり、みんなこぞって行くために、町の財源の半分は賄われていると言われていたりもする。住宅街は昼間になると休みの日だとしても人の影は少ない。
僕が家の前に着いた時も、周りには誰もいなかった。
――変わってないな。
外壁を塗り直すこともなく、灰色にくすんだ一軒家は、六年前の記憶と間違え探しのような違いしかない。ただ一点、『中里』と書かれていた表札は、取り外されて『宮下』という名前に変わっていた。
数秒だろうか、数分だろうか。頬をつたう汗の感覚に僕は我に帰る。
――とりあえず、図書館。そして、高校だ。
僕は肩で汗を拭い、六年ぶりの実家へと向かった。
「珍しいじゃない? どうして今年は帰ってくる気になったのよ」
帰宅した母さんは買い物袋をダイニングテーブルに置く。僕は冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出して勝手に飲んでいた。
「久しぶりに帰ってきたくなったんだ」
「食費がかかるから帰ってこなくても良かったのに」
「ただ一人の息子に、そんなこと言うのか」
僕は母さんが買ってきたものを物色しながら答えた。おや。僕の好きなチョコパイがある。うん、実に母さんらしい。僕はふっと笑って、片付けを手伝うことにした。
「……お金が欲しいならだめよ」
母さんは僕の行動の意味を取り違えたようだ。
「そんなつもりはないよ」
「なんで帰ってきたの?」
「久しぶりに帰ってきたくなったって」
「うそね」
「なんでさ」
「顔にそう書いてある」
「顔洗ってこようかな」
「ほんと分かりやすい。誰に似たのかしら」
「母さんに似たんだろ」
「本当は?」
僕はため息をついた。これ以上言い合っても仕方がない。どのみち、母さんには聞く予定だった。僕はチョコパイのアルミ袋を破り、手が汚れないよう一口食べた。コーヒーによく合う味だった。
「六年前のことを調べてるんだ。それで、帰ってきた」
母さんの動きが止まる。次に声を出したとき、少し震えていた。無理もない、六年前の出来事は母さんにとってもいい思い出ではない。
「どうしてまた、そんな昔のことを?」
僕の動機。説明したとしても笑われるだけだ。高木ですら最初はまともに取り合ってくれなかった。どうするか。
「夢で見たんだ。彼女に会った。だから、気になり出した」
「そんな、一度のことで……」
「違うんだ、毎日見るんだよ」
「毎日」という言葉で、母さんの表情が変わる。見たことがある。六年前に見た不安げな表情だ。唯一の目撃者となった事件の後、一ヶ月ぐらい、僕は高校に行けなくなったことがある。正門近くまでは行けた。だけど、校舎を見ると震えて動けなくなった。フラッシュバルブ記憶という言葉はそこで知った。しばらくして、心療内科の先生のもと、エクスポージャー法という療法によって、初めは裏口からだったが、僕は高校に通えるようになった。その時の、顔だった。
「そう、毎日ね。それは、辛そうね。もう一度病院で診てもらった方がいいんじゃない?」
僕はあわてて首を振る。
「いや、そこまでじゃないんだ。別にうなされてるわけじゃない」
「でもね」
「ほんとに大丈夫だから」
母さんはしばらく心配そうな顔をしていたが、ため息をついて言った。
「そう? なら、いいんだけど。少し思い詰めているような顔をしているように見えるから」
母さんはリビングのソファに腰を下ろし、テレビを付けた。静かなリビングに笑い声が響く。今人気のタレントの旅番組だった。そういえば、最近バラエティを見てない。僕は少し溶けたチョコパイの残りを口に入れた。
「それで、何か知りたいことでもあるの?」と、テレビの方を向いたまま、母さんが言った。
「母さんはどこまで知ってるの?」
「どこまでって、詳しいこと何も。孝一が知っていること以上はないと思うけど」
「原因とか聞いてないの?」
「わからないわ。本当にどうしてあんな事になったかしらね」
一番知りたいところは分からないようだ。日差しが雲に遮られたのか、リビングは少し暗くなった。
「その後とかは?」
「中里さんのところ、離婚したって話は知ってるわ。さすがにね。奥さんの方は実家に戻ったと聞いているけど。 聞く限りは九州の方では大きな地主だったらしいのよ。旦那さんは、お母さんもよく覚えてないのよね。孝一が小さい頃に一度会ったぐらいかしら?」
九州か。東海ならまだ探せたかも知れないが、九州となるとさすがに遠い。
「当時ニュースにはなってなかったよね?」
「そうね。警察の方は調べたと思うけど、遺書もいじめとかの問題もなかった。ニュースにならないのは、ご家族の意向もあったと思うけど」
「新聞にはなかったっけ?」
「地方欄には載ってたような気もするけど。ちょっと、覚えてないわね」
「分かった。ありがとう、母さん」
僕は立ち上がり、飲み終えたコップを流しに持って行く。
「孝一」
後ろから呼ぶ声が聞こえた。
「なに?」
「あんた、就活はどうなの?」
うっ、と胸が痛くなった。僕は頭をフル回転させ適切な言葉を探す。
「ちゃんとやってるさ」
上手くいってるかどうかは別として。
「こっちに帰ってくる気はないの?」
「こっちの企業もいくつか受けてるけどね。選り好みはしてないさ」
「大変なのね」
「受かったら連絡するから」
「でも、孝一、博士課程はいいの?」
「それは、もういいんだ」
僕は唇を噛む。
「お父さんはああ言ってたけど、お金のことなら心配しなくてもいいのよ」
僕に顔を向けて言った。母さんも分かりやすい。母さん、それは心配してる時の表情だ。
僕は無理矢理、元気な声を出した。
「大丈夫だよ。企業でも研究職があるから」
「そうなの? なら、いいけど」
僕は逃げるように、階段を登ろうとする。
「そうだ、孝一」
「なにさ」
「図書館に行くなら早く行ったほうがいいわよ。明日から休館日だから」
そうか、忘れていた。
「そっか、すぐ行ってみるよ」
リビングに戻り、キーケースから自転車の鍵を取り出す。
「今だったら、車使えるけどいいの?」
「いい。久しぶりにこの辺りを見て見たくなったんだ」
「そう、夕方までには帰ってくるのよ」
思わず僕は吹き出した。まるで、小学生に言うような台詞だった。
「母さん。僕は今年で二十四だよ」
「そう? 私との年齢差が埋まらない限り、いつまでも子供よ」
それは無理な話だった。僕は肩をすくめて玄関を出た。
高校時代の自転車は少しブレーキの音がうるさくなっていた。
町立図書館は通っていた中学校と川で挟んだ向こう岸にあった。駐輪場に自転車を停めると突然、声をかけられた。
「あれ? 丹野くんじゃない?」
外の返却口に立っていたのは小柄な少女……いや、女性だった。単行本をいくつか持っている。紺色エプロン姿。どうやら司書さんのようだ。よく見ると、見覚えがあった。僕は咄嗟に天を仰いだ。
「丹野くんだよね?」
バツの悪そうな顔で覗き込まれる。その人懐っこい行動で僕は奇跡的に思い出した。
「もしかして、外山さん?」
笑顔になった外山さんを見て、記憶がはっきりする。中学以来のはずだった。
「やっぱり! 大きくなったね」
飛び上がりながら、おばあちゃんみたいなことを言った。僕の目の前でエプロンがパタパタと揺れている。
「中学以来だったっけ?」
「そう。丹野くん、成人式に来なかったもん」
そういえば、彼女は成人式の実行委員だった。案内が来たと母さんに言われた気がする。
「大学で色々あってさ」
「ふーん、今年は帰ってきたんだ」
「ゴールデンウィークだからね」
「丹野くんは、静岡だっけ?」
「驚いた、よく知ってるね」
「お母さんからね、聞いたんだ。母親同士の情報網を舐めちゃだめだよ」
公園の時計が鳴った。十二時ちょうどだった。
「ねぇ、ここでちょっと待ってて」
「えっ?」
外山さんは片目を閉じて言うと、僕の返事を待たず、図書館の中に入っていった。待っている間、特にすることもなく、僕は体を前後に揺らしながら、入り口の自動ドアから時折、中を覗いていた。手を繋いだ親子と目が合う。僕はため息をついて、壁にもたれ、スマホをいじっていた。
「お待たせ」
エプロンを外した外山さんがひょいと現れた。手には缶コーヒーを二本持っている。
「ごめんね、ちょうど休憩だったものだから、つい呼び止めちゃった」
缶コーヒーを手渡しながら、外山さんは言った。僕らは公園のベンチに腰をかけた。パチンと小気味良い音が公園内に響く。
「本当に久しぶりだね」
「外山さんはずっとここに?」
「うん。短大も名古屋だったし」
「短大だったんだ」
「丹野くんは今は大学院?」
「そう、絶賛就活中」
「うわっ、思い出したくもないなー。私は運が良かったよ」
「最初から司書を目指してたの?」
「そう、狭き門だよ。みんな辞めようとしないから」外山さんは悪戯っぽく笑って言った。
「世代交代の渋滞なの」
「なら、すごいじゃないか。割って入ったんだから」
「やっぱり、運が良かったのね」
「それでもな」
就活をして思う。社会から要らないと言われる恐怖は経験しないと分からない。外山さんから貰ったのはブラックコーヒーだった。
「丹野くん」
名前を呼ばれた。すごく真面目な声だった。
「なんで、成人式来なかったの?」
さっきと同じ質問。でもその響きは嘘を許容してくれるものではなかった。僕は無言を貫いた。
「あのことが有ったから?」
「あのことって?」
「言ってもいいの?」
やっぱり外山さんは知っているのだ。
「なぜ、知っているんだ? ニュースにもなっていなかったはずだよね?」
「成人式の実行委員だったから、ね」
彼女はまっすぐ前を向いたまま言った。
「ああ、なるほど」
これも、母さん経由なのだろう。連絡がつかない中里美希をどうにか探そうとした結果、高校の同級生だった僕に辿り着き、母さんに連絡をしたのだ。
「聞いた時ね、びっくりしちゃった。だって、同級生が一人亡くなってるんだよ。それを全く知らずに生きていたの。二年間も。私、連絡が取れなくてもどこかで元気なんだろうなって勝手に思ってたの。こんなに近くにいたのにね」
外山さんの震える声に僕は慎重に言葉を選びながら答える。彼女は優しい。思わず、空を見上げる。青い空に飛行機雲が二本、平行に交わることなく並んでいた。片方は消えかかっている。
「僕らは自分の人生に精一杯なんだと思う。走って、走って、走り続けて、ふと立ち止まった時に気づくんだ。置いてきたものにね。でも、それは、必死に走ってきた証拠だから。自分自信を許すしかないよ」
僕は誰に向かって言っているのだろう。
「……丹野くんは、自分を許せた?」
「全然。今でも後悔してる」
「じゃあ、だめじゃない。カッコいいこと言ってたのに」
くすっと笑う。それでいい。彼女には笑顔が似合う。僕は空を見上げたまま言った。
「理論と実践は違うのさ」
「難しいね、人生って」
外山さんも僕と同じ体勢をとる。彼女が見ている空の青色は僕が見ている青色とはおそらく違う。それもまた人生なのだ。
「あっ、飛行機雲」
「さっきまで二本あったんだ」と、僕は答えた。
コーヒーを飲み終えると、外山さんはその場で「んっー」と伸びをして、弾みをつけ、ぴょんとベンチから離れた。そのまま彼女は言った。
「丹野くんも詳しいことは分かんないんだよね」
「ああ、でも、僕はそのためにここに来たんだ」
「えっ? どういうこと?」
彼女は振り向いて、首を傾げる。
「中里さんのことを調べるために、戻ってきた」
「それは、遊びとかじゃなくて?」
「人の死をそんな風に扱う気はないよ」
僕の動機はもっと切実で、もっと単純だ。
「なんで今なの?」
「今年で大学生活も終わりだからね。僕も前に進まないと」
それはあまり理由になっていなかった。それでも、彼女は一応納得してくれたようだった。
「ねぇ、何を調べるの?」
「まずは、事件の日時かな。六年も前のことだから、何日のことだったかも覚えていないんだ」
「そのために図書館に来たのね」
「そう。当時の新聞を探しに来たんだ」
外山さんは目の前で何度も頷いたかと思うと、「よしっ」と呟いて、一歩前に踏み出した。
「それじゃあ、早速行きましょ」
言い終わらないうちに、彼女は図書館に向かって歩き出す。僕はすぐ立ち上がって、あとについていく。彼女を掻き立てたものが何なのか、僕には分からない。
「ちょっと待って。理由を聞かせてくれないか?」
自動ドアが開き、図書館の冷気が外に漏れる。彼女は前を向いたまま、言った。
「あのね、私だって気になるの。だって、お墓参りにも行けてないんだから」
検索コーナーは子供の頃と同じく、二階のカウンターにあった。外山さんは「すぐ戻るから」と言って、奥に消えていく。僕がタブレット式に変わった検索パソコンを適当にいじっていると、彼女が戻ってきた。
「お待たせー」
エプロンを身につけ、髪を綺麗な一つ結びにして現れた外山さんは、僕の目の前に座るとタブレットに顔を近づける。彼女からはちょっとだけ柑橘系の香りがした。
「それで、六年前の夏だよね?」
呆けていた僕は、すぐには答えられなかった。
「えっ? うん、そう。六年前の八月末だったと思う」
外山さんは器用に検索をかけていく。タブレットの画面には当時の新聞が映った。
「これが、二十七日。一面には無いね」
「おそらく地方欄だと思うけど」
指をスライドさせると、ページが切り替わった。
「うーん、特になさそうね」
外山さんは次の日に移る。すぐに地方欄のページを開いた。
「これもなし、か」僕は呟く。
日付を遡り、八月いっぱいの新聞を確認したが、それらしい記事は見つけられなかった。
「やっぱり、記事になってなかったのかな」
彼女はため息をつきながら言った。
「高校の名前はなくても、あったら分かりそうなのにね」
「見れば分かると思うよ。高校の名前がなくても。あっ、そうか」
「えっ? なに?」
「見てる版が違うんだ。僕の高校は美河にあるから」
「なるほど。智多版には無いわけか」
外山さんは直ぐに美河版に切り替える。僕らは急いでページを捲る。八月末から遡る。無言の中、僕の心臓はうるさいぐらい鳴っていた。
三十日『水害事故、壁南市で三件目』
違う。
二十九日『花火大会中、女性が川に流される』
これも、違う。
二十八日『高校の屋上から女子学生転落』
「これだ」
『二十七日午前 苅屋市の高校で女子学生が屋上から転落したと高校の教員から警察に届け出があった。
愛知県警・苅屋署によると警察が事件を認知したのは二十ハ日の午前九時ごろ。当該高校の教員から「女子学生が屋上から転落した」と通報が寄せられた。警察の調べによると屋上付近に遺書等は見つかっておらず、苅屋市の警察は事故と自殺の両面から調査をしている』
「……大丈夫?」
僕が凄い顔をしていたのだろう、目を通し終わった外山さんは顔を上げて言った。
「少し思い出しただけだから」
「でも、八月二七日か」
外山さんは手を合わせ、目を閉じた。
「丹野くん、この記事印刷する?」
「できれば」
「分かった。ちょっと、待ってて」
横に置かれたプリンターから当時の記事が印刷される。プリントアウトされた記事を僕に渡して、彼女は言った。
「はい。それで、これからどうするの?」
「ありがとう。今から高校かな。たぶん、補講期間のはずだから」
六年前と変わらなければだが。不意に彼女の声が小さくなった。
「明日じゃ、だめなの?」
僕は最初、言っている意味が分からなかった。
「だめって訳じゃないけど」
「明日、もう帰るの?」
「三日まで居るつもりかな」
「じゃあ、明日にしてよ」
「もしかして着いてくるつもりか?」
「だめ?」
「だめ」
反射的にそう答えたが、なぜなのかは自分でも分からなかった。
「なんでだめなの?」
「うちの高校、部外者は入れないんだ」
「丹野くんも部外者でしょ?」
「卒業生は別さ」
「六年も前なのに?」
「今でも高校から広報が届くよ」
外山さんは、ふーっと深いため息を吐き、断固とした口調で言った。
「正門までならいいでしょ? 丹野くんの聴き取りが終わるまで待ってるから」
そこまで言われたら、僕も頷くしかなかった。
「じゃあさ」
外山さんはスマホを取り出す。桜色のシンプルなケースだった。
「連絡先教えて?」
僕は自分のスマホを取り出したが、久しぶりの交換はやけに手間取った。
「これで、いいんだっけ?」
「うん! 後から連絡するね」そう言い残し、彼女は仕事に戻っていった。
すぐにスマホが鳴る。外山さんからだ。「よろしくね!」と書かれた可愛らしいスタンプが送られてきた。
女の子のメッセージが一番上に来るのはこのスマホにして以来、初めてのことで、僕はしばらくそれを見つめていた。