ゴールデンウィークの課題は誰かとやるのが一番いい
八月二十七日。
ベッドの上で運命の日を噛み締める。高木の言う通り、この世界ではずれる可能性はあるが、少なくとも越えるべき日付には代わりはないのだ。
部屋のドアを開けると、いつの間にかドアの前に掃除機が置かれていた。「自分でかけろ」ということか。仕方なく、掃除機をかけ。再び部屋の外に押し出すと、再びベッドに寝転ぶ。開けた窓から入る風が心地よく、うとうとと微睡んでいく。
エンジン音。家から離れていく。母さんが買い物に行ったのだろう。
どれくらい時間が経ったか、自転車のブレーキが聞こえたかと思うと、ふいに玄関のチャイムが鳴った。心当たりのない人だったら居留守。部屋の窓から相手を確認する。
うちの制服を着た女子学生。心当たりしかない。立っていたのは中里さんだった。
僕はあわてた。考えている暇はない。階段を駆け降り、玄関のドアを開けた。彼女は驚いた表情のまま固まっていたが、何が面白いのかちょっと微笑んで言った。
「おはよう。ごめんね、起きたばっかりだった?」
彼女の目線で僕はまだ着替えすらしていないことに気づいた。
「半分正解。どうしたの?」
「朝連絡したんだけど、既読にならなかったから。来てみた方が早いかなって」
咄嗟にポケットをまさぐるが、すぐに気づく。スマホは二階に置いてきた。
「ごめん、気が付かなかった。それで、今日はどんな用だった?」
「今日補講は無いんだけど、学校で勉強しようと思ったから、一応丹野くんも呼んでみようかと」
「すぐ行く」
彼女が言い終わらないうちに、僕はドアを勢いよく締めた。一足飛びに階段を登り、制服に着替える。カバンを引っ掴み、ボタンを閉めながら階段を降りる。スニーカーを引っ掛けて外に出ると、口を開けた彼女と目が合った。カルチャーショックを受けたようだ。
「早いね。タイムアタックみたい」
「何度も練習したんだ。起きてから高校までの最高記録は二十三分二十秒だった」
「なんで、そんなことするの?」
「遅刻対策さ」
「最近は早く来てるじゃん」
「心を入れ替えたんだ」
彼女はうーんと唸ったが、理解するのを諦めたようだった。
「ま、いっか。それじゃ、行きましょ」
「学校、だよね?」
「そうだけど、勉強出来る場所だったらどこでもいいかな」
「それじゃあ」と、僕は言った。
「図書館に行かない?」
「懐かしい。久しぶりに来た」
町立図書館の駐輪場に並んで自転車を停めた僕らは、並んで入り口に向かう。中里さんの声は心なしかはしゃいでいるように聞こえた。
「中学以来じゃない? 丹野くんもそうでしょ?」
「ある一視点から見ればそうだね」
「何言ってるの?」
「なんでもないさ」
「全然変わってないね」
「まぁ、三年しか経ってないからね」
円柱状の町立図書館は、中央のカウンターから放射状に本棚が配置されている。僕らは円周の内側に取り付けられた階段で二階に上がり、自習エリアに向かう。途中、検索コーナーの脇を通った。まだ、タブレットは導入されていなかった。
「でも、六年の時間は大きいな」
「えっ? 何か言った?」
「いや、なんでもない」
六年と言えば、干支が半回転するのだ。変わるものは変わる。月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり、だ。僕は前を歩く中里さんを見る。黒い長髪が左右に揺れる。彼女は旅人に連れ去られるのだ。ならば、旅人の正体は盗賊に違いない。
自習エリアには長期休暇らしく、多くの学生がいた。大半が中学生だと思うが、ちらほら制服を着た他校の高校生も見える。僕は何気なく、中里さんに尋ねた。
「中里さんは外山さんって覚えてる?」
先程までの陽気さは消え、信じられないと言う顔を僕に向けた。明らかに失言だった。
「丹野くん。図書館では静かにしないと」
彼女は苛立ちが含んだ声で言い、カバンからノートと教科書を取り出すと無言で課題をやり始めた。僕も仕方なく彼女の隣に座り、彼女の真似をする。しかし、この雰囲気の中で勉強に集中できるほど、僕は大人にはなれていなかった。三十分もするとついに我慢できなくなり、外の空気でも吸おうと部屋を出た。ちらりと彼女がこちらを向いたような気がした。
一階の休憩室まで階段を降りていると、スマホにメッセージが入った。中里さんからだった。
『ごめんね』
思わず振り向く。彼女は居なかった。僕は急いで返信した。
『さっきのは僕が悪かった』
すぐに戻ろうかと思ったが、やっぱりちょっとだけ休憩してから戻ることにした。
正午になり、昼食を食べるため僕らは公園のベンチに座る。そのベンチは昨日夢の中で僕と外山さんが座っていた場所だった。
「外山さんのことなんだけど」
コンビニで買ったサンドウィッチの包みを破りながら、俯きがちに彼女は言った。
「いや、その話はもう……」
大丈夫。と言いかけたが、先に台詞を被せてきた。
「気になるのよ、途中まで言われると。なにを聞きたかったの?」
「親しかったのかな、と思っただけだよ」
「私と?」
「そう、中里さんと」
彼女は記憶を呼び覚ますことを期待するかのように、中学校の方角を向いて、言った。
「外山さんはクラスの全員と親しかったけどね。いるでしょ? そういう能力を持った人」
「まぁね。才能だと思うよ」
「ほんと、才能よね。でもね、たまに思うの。ああいう子が抱える悩みは一体なんなんだろうって」
「そりゃ、悩みはあるだろうさ。人には得意、不得意があるだろう」
中里さんはふっと息を吐くように笑った。僕がした今の発言はなんの捻りもない、手垢の付いたものだった。
「きっと、隠すのが上手いだけなのよね」
それは君もだろう、という発言を僕は必死に堪えた。
「逆じゃないか? みんな、気にしてないだけだよ。自分が思っている以上に、自分を見てくれる人は少ないと思うんだ」
紅茶を飲む手が止まり、ゆっくりと蓋を締めた。
「今の発言は及第点かな」
「それは、よかった」
「でも、なんでいきなり外山さんなの?」
「それは、隠して置いちゃだめか?」
「別にいいけど」
そういう割には不機嫌さを隠そうともしなかった。最近の彼女は表情が豊かになった。これは良い傾向なのだと僕は信じたい。
「悪かった。言葉の綾だよ。最近、モールで姿を見かけたんだ。向こうは気がつかなかったみたいだけどね」
「そう。そこで話しかけなかったのが、丹野くんらしいわね」
「そりゃ、君に話かけるのにも十年かかったぐらいだからね」
そう言うと、中里さんは機嫌が直ったのか、にっと笑った。
閉館を迎える五時まで僕らは学生らしく課題に取り組んだ。ゴールデンウィークの課題は三年間でかつてないほど進みが早かった。
僕たちは帰りも並んで自転車を漕いだ。中学校の脇を通り、旧道を抜け、坂を登る。中学時代使っていた通学路。高校三年生。隣には中里さん。夢のような感覚だった。
二人の間に会話はない。でも不思議なことに、気まずさも感じなかった。彼女の速度に合しているためか、いつもより、進みは少しゆっくりだった。
「じゃあ、また」と、僕が言った。
「うん、今日はありがとう」
「中里さん」
「なに?」
「今度は僕から誘うよ」
「ふーん、じゃあ待ってる」
中里さんはくすりと笑って、そのまま坂道を下っていった。それにしても、今日は暑かった。




