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嫌な夢ほど正夢になる確率は高い気がする

 スマホに掛けた目覚ましで、僕は弾くように飛び起きた。瞬きをしてはいけない。ほっとくと瞼は勝手に閉じていくからだ。さっきはそれで失敗した。目を見開いたまま、カーテンを開ける。朝日を直接浴びて、目の前が真っ白になった。暫くすると目が慣れてきた。


 八月二十七日の朝は、昨夜と打って変わって太陽を遮る雲はどこにも見当たらなかった。僕が眠っている間にどこに消えたのか、アスファルトに残る雨の跡と、僅かに残る水溜りだけが昨日の天気の名残だった。


 一度大きく欠伸をする。エアコンを止め、制服に着替えると、カバンを肩に掛け、階段を降りていった。


「今、何時だと思ってるの?」と、台所に立つ母さんは呆気に取られたのか、あくびでも止まったのか中途半端な顔で言った。


「五時半。でも、本当は五時に起きる予定だったんだ」と、引き出しから自転車の鍵を探しながら、僕は答えた。


「もう学校にでも行くの? こんな時間から?」


「学祭の準備があるんだ」


 嘘ではない。今日は二日間延期となった、垂れ幕を飾る日だった。


「午前中には完成させないといけないんだ」


 これも、嘘ではない。昨日、美希は突然「午後から用事ができた」と言ってきた。どうしても、と言った僕に対し、彼女には珍しく、頑固として譲らなかった。理由についても、美希は首を振って答えてくれなかった。


「そういうわけだから、もう行くよ」


 僕は自転車の鍵を握り、リビングを出る。

 ドアの向こうから何か聞こえたが、なんと言ったかは聞き取れなかった。

 

 スニーカーをつっかけ、玄関を出ると、アスファルトから湯気が立つような蒸し暑さが身体を覆った。夏の日差しは好きだが、夏の湿気は嫌いだ。

 母さんの言う通り、別にこんなに早く行く必要はない。集合はいつもの分かれ道で、時間は午前八時だった。

 僕は家の前まで自転車を走らせる。美希の家は家庭内のいざこざなど素知らぬ顔で、いつも通り、建っていた。音がならないよう、ゆっくりとブレーキし、自転車を止める。サドルから腰を上げ、自転車が倒れないよう股で挟むと、家の様子を眺めた。

 自転車は止まっている。外出した様子もない。僕はふっーと深く息をついた。静かなものだ。早朝では蝉の鳴き声も聞こえず、少し寂しい。いつもは不快に思うのに、ないと寂しさを感じるとは勝手なものだ。こうも静かだと僕は考え事をしてしまって、ひどい自己嫌悪に陥っていた。


 いくら心配でも、これは駄目だろう。こんな、隠れて様子を見に行くようなことは。まるでストーカーじゃないか。

 僕に素質があると言った高木は正しかったのかもしれない。

 ため息を吐くと、再び自転車に跨り、自宅に戻った。気温が上がったのか、じめじめとした不快感が増していた。


「あら、帰ってきたの?」と、テレビをつけたまま、スマホを弄っている母さんが言った。


 リビングのエアコンはようやく効き始めたようで、母さんの座る座椅子の位置はエアコンの風向きに対して完璧に計算されていた。僕はソファーに寝転んだ。


「集合時間、間違えたんだ」


「さすがに、間違え過ぎじゃない?」


「そういうこともある」


「寝るなら二階で寝なさいよ」


「もうエアコン切っちゃったんだ」


「お母さん、いつもより早いから。七時に出るからね」


「父さんは今日帰ってくるんだっけ?」


「飛行機が予定通り飛べばね。そうだ、四時過ぎに空港まで迎えに行くけど、ついてくる?」


「いい。どうせなら、夕飯でも食べてこればいいさ」


「そう? 昔はあんなに飛行機が好きだったのにね」


「いつの話だよ」と言って、僕は目を閉じた。規則的に当たるエアコンの風が気持ちよく、眠りに誘う。


「家出る時、エアコン切っておいてね」


 その声に応えたかどうか僕に自信はない。




 十五分ぐらい寝ただろうか。


 スマホが鳴っていた。

 こんな早い時間に誰だと思いながら、スマホの画面を見る。美希からだった。


「遅い」と、第一声。


 彼女の本気で怒った声を聞くのは、これが初めてのことで、僕は状況が理解できないまま、謝った。


「ごめん」


「本当に。何回も電話したのに。先生待たせると悪いから、先行っちゃったよ」


 嫌な予感がした。


「……いま、何時?」


 エアコンに当たり過ぎだのか、自分の声は少し掠れていた。同時にリビングの時計を見た。


「十時半」と、美希はそっけなく言った。



 その日は夏休みももう終わりだというのに、朝から既に猛暑の兆しを見せていた。

 正門前の最後の坂。

 必死になって自転車を漕ぐ。

 額から流れた汗は地面を濡らすことなく、目の中に入った。思わず片目を閉じる。それでもなんとか我慢して駆け上がり、正門に辿り着く。

 煩わしい蝉の声。僕は目を拭うため自転車を止めた。


 正面に見える校舎には、「第六十五回!苅屋高校文化祭!」と書かれた垂れ幕が既に掲げられている。学祭は九月二週目からだったが、夏休み終わりの晴れた日にこうして一度垂れ幕が降りる。文字の確認を含めてだ。僕の高校の恒例だった。


 ――知っている。


 視界の端に影が映る。


 ――この状況を僕は経験したことがある。


 屋上に美希が立っていた。


 僕を見つけたのか大きく手を振る。


 僕も手を振り返す。


 そして、彼女は飛び降りた――


















 ――スマホが鳴っている。


 僕は飛び起き、ソファーから転がるように落ちると、テーブルに無造作に置かれたスマホを引っ掴み、画面の表示を確認せずに、叫んだ。


「ごめん!」


 キャッ、と小さい叫び声が聞こえた。


「うるさっ、たしかに『ごめん』だけれども」


 美希の声だった。僕は普通の夢を見たのか。胸を押さえながら、息を落ち着かせる。溜まっていた息を吐き出すように言った。


「よかった」


「よくないよ。いま何時だと思ってるの?」


 そう言われて、ようやく僕は時計見た。


 八時十分だった。


「ごめん。今日、五時半起きだったんだ」


「そんなの、言い訳にならないからね。こんな暑い中で待たせないでよ。日焼け止めが落ちちゃうじゃない」


「今すぐ行く」


 僕が待ち合わせの分かれ道に着いたのは、ちょうど三分後のことだった。待ち合わせ場所で、手で仰ぐ美希を見つけた。なぜかそれだけで、僕は少し泣きそうになった。


「えっ、はや」


「準備はできてたから」


「そうなの? なんか泣いてない?」


「汗が滲みるんだ」と、僕は言い訳をした。


「ふーん、明日、遅刻したら置いて行くからね」


「一人で祭りに行ってどうするんだ?」


「本当に、置いて行くから」


「悪かったよ」


「なーんか、嬉しそうなんだけど」


「そうでもないさ」


 二人で屋上に上がるのが楽しみになっていた。



 校内は吹奏楽部の練習がちょうど始まる頃合いで、音出しが始まっている。僕らは、職員室で新見先生から鍵を借り、垂れ幕を持って、屋上に向かった。学祭の準備も進められており、バリケード状態になっていた階段も人が通れる程度には隙間が空いていた。


「やっぱり気持ちいい」と、美希は呟いた。


 僕と美希が屋上から幕を垂らし、職員室の窓から新見先生が下側を括り付ける。そういう手筈だった。僕らは手すりから顔だけ出して、下の様子を窺う。


「どうですかー?」と、美希が訊いた。


「大丈夫よ、上もくくって頂戴」


 先生の声に僕らは頷き合い、垂れ幕の上の両端をそれぞれ手すりに括り付けた。取り付けはあっさりとしたものだった。


「下から見てみようか」と、タオルで汗を拭い、美希は言った。


「これ、当日もやるのか?」


「やっても良いけど、去年は先生たちにやってもらった。マークだけ付けておいて、ね」


 美希は制服のスカートから赤い透明テープを取り出す。手を差し出すと、驚いたのか、僕と僕の手を交互に見た。


「それは、僕がやるよ。美希は先生と下で見てきてくれないか?」


「いいの?」


「鍵とテープを貸してくれ」


「分かった、下に着いたら電話するね」と、少し悩んだ様子を見せた後、僕の手に置いて、扉まで駆けていった。


 扉が閉まると、僕は快晴に似つかわしく無い、ため息をついた。そのまま、腰をかけ、手すりに持たれながら見上げる。屋上は地上に比べ、少しだけ日差しが鋭い気がした。


 これでいい。


 僕は乗り越えたのだろうか。それとも、彼女の問題を解決しないと、いつまでも気にしていないといけないのか。少なくとも卒業までは。

 僕は立ち上がり、垂れ幕をかけた手すりに腕を置いて、見下ろす。地上にある花壇や自動車、運動場、そして学生たちは、なぜか作り物めいて見えた。違う世界に生きる、隔絶された境界。僕は少し寒気がして後ずさった。なるほど。人の生死はこの低い柵だけで隔てられている。この世が現実のものと思えなくなった時、夢から醒めたいと思う一心で、飛び降りることもあるかもしれない。そこに恐怖はあったのか。当然、あったのだろう。しかし、進むしかなかった。逃げる方法はそれしかなかったのだ。


 スマホが振動する。メッセージを見た。


 『正門に着いたよー』


 再び手すりから顔を出す。正門には、先生と美希が居た。彼女は大きく手を振っている。僕も振り返すと、大きく丸を作った。僕は頷いて、テープを取り出し、垂れ幕を少しずらし、引っ掛けた位置にマークを付け、元に戻した。


 『終わった』

 『ありがとう。じゃあ、職員室に集合!』

 『りょーかい』


 小さく見える美希たちが歩き出す。二人が校舎に入るのを確認した後、僕も屋上を後にした。ドアを開け、暗い階段に戻る。美希がここに来ることがないように。そう思いながら、僕はそっと屋上のドアを閉め、鍵をかけた。

 

 職員室に戻り、新見先生に鍵を返し、少しだけ休憩をすると、僕らは校舎を出た。太陽は天頂。蝉たちの声はピークにたちしたものの、暑さのピークはもう少し後になりそうだった。


「ちょっと、日焼けしたんじゃない?」と、隣で自転車を引いて歩く僕の腕に目をやって、美希が言った。美希自身は綺麗な二の腕をしていた。


「日焼け止め、塗ってないんだ」


「今時、男の子だって、ちゃんと塗ってるよ」


「めんどくさいからな」


「そういうのが、将来差になるんだよ」


「将来ねぇ」


最近の僕は意識的に自分の将来について考えないようにしてきた。今の優先目標は今だ。美希とこうして並んで歩ける未来で有ればいいと思う。

 正門を抜けると、美希は思い出したかのように「あっ、今日はこっちだから」と、言った。僕にでも分かる、下手な芝居だった。


「やっぱり、午後からはだめなのか?」と、僕は訊いた。


「うん、今日はちょっと」


「どうしても?」


「なんで、そんなに今日は必死なの?」と、美希は少しだけ眉を吊り上げて不満げに言った。


 これ以上は彼女を困らせるだけだ。僕はため息をついた。


「笑わないか?」


「内容による、かな。会えなくなる夢を見たんだって言われたら、反応に困っちゃうけど」


 僕は目を閉じた。笑うなら、笑えばいいさ。


「えっ? ほんとにそういう事なの?」


 驚く彼女に、僕は一気に言った。


「そうさ。僕は君が死ぬ夢を見たんだ」


「私が? なんで?」


「言いたくはないけど、美希が自分でね」


 言ってしまえば、現実になりそうな気がして、『自殺した』とは言えなかった。僕の言葉に美希は少し黙り込み、下を向いてゆっくりと首を振った。次、顔を上げた時には美希は少し微笑んですらいるように見えた。


「ふーん。それなら、大丈夫ね」


「なんで?」


 彼女は少し首を傾かせて笑う。それは、僕の好きな彼女の笑顔だった。


「だって、本当に明日が楽しみなんだもん」



 暇になった昼からは、特に行く当てもなく、制服のままショッピングモール内をぶらぶらしていた。夏のショッピングモールは、半袖のカッターシャツで歩くには、少しだけ冷房が効き過ぎていた。手ぶらで帰ることになりそうだったが、最後に本屋に立ち寄ることにした。


 棚に並べられた赤本を眺めていく。八月半ばに行われた模試の結果は、夏休み明けに返却される予定だった。志望校には結局、夢と同じ大学を書いていた。未来と同じでいいのか。別に人生をなぞる必要はないのだ。いっそのこと、大学を変えてしまうのはどうだろう? もしくは。


「あれ? 丹野くん、だよね?」


 僕の意識の外からひょいと人影が入ってきて、声がかかる。

 聞き覚えがある声に、僕は思考と行動が遅れた。デジャブだった。


「外山さん?」


「そう! よく覚えててくれたね!」


 水色のブレザーを着て嬉しそうに飛び、胸元のリボンが一緒に跳ねる。夢の彼女を思い出し、制服って凄いな、と密かに思っていた。


「お互い様さ」


「へー、薬学部か。やっぱり頭良いんだね」と、僕の手元を覗き込む。やはり、顔が近い。


「まだ、決めてない。たまたま、手に取っただけ。外山さんは?」


「私は短大なの。司書になりたくて。人社か文学部かな」


「外山さんならなれるよ、きっとね」


 思いの外、僕の声に力が込もっていたのか、外山さんは瞼を大きく開いたかと思うと、にっと笑って言った。


「ありがとう。中里さんはどうなの?」


「み、……中里さんは、看護学部って聞いたよ」


 僕は機転を効かせて、咄嗟に言い直したつもりだが――


 外山さんは、首を振って、ゆっくりと一語一句聴かせるように言った。


「違うよ。私は、『中里さんとはどうなの?』って訊いたの」


「はい?」


「付き合ってるんでしょう?」


 僕は思わず吹き出した。

 ――意味がなかった。


「知ってたのか」と、そう呟くのがやっとだった。


「有名だよ、この町じゃあね」


「有名なのか」


 僕らはいつからご当地アイドルになったのだろう。


「図書館で勉強し過ぎだもんね」


「町立図書館では、カップルを監視するようにでもなっているのか」


「今日は一緒じゃないの?」


「今日はね。いつも一緒にいるわけじゃない」


「デートとかもう行ったの?」


「その質問、答えなきゃだめか?」


「言えないようなところまで?」


「明日、祭りに行く」と、そっけなく言った。


「へー、そうなんだ。うんうん、それは楽しみだね」と、外山さんは、僕の顔を覗き込み、何度も頷く。見るからに楽しんでいる様子だった。僕の言葉に一体何を納得したというのだろう。


「じゃあ、私、もう行くねっ」と、突然現れた外山さんは、これまた突然言い出し、手にした赤本を持って、去って行った。


 僕の手元には自分が取った赤本が残る。僕は気持ちを入れ替えるように、一つため息を吐いて、レジへと向かった。




 美希から電話がかかってきたのは、風呂から上がり、自室に篭って、化学の問題集を解いていた。水和物の析出量の計算に躓き、答えと見比べていると、ベッドに投げ出してあったスマホが鳴った。


「どう? なんともなかったでしょう?」


 笑いを堪えたのか、くぐもった声を出して、美希が言った。半日前のことなのに、久しぶりに声を聞いた気がした。


「良かった。本当に」


「今、何してるの?」


「電話」


「そうじゃなくてね」


 スマホの向こうで頬を膨らませたのが目に見える様だった。


「化学の勉強だよ」


「へーえ、珍しいね、化学って」


「気分転換さ」


「ああ、そうだ」と、取ってつけた感じで僕は言った。


「なぁに?」


「町立図書館で勉強するの、やめないか?」


「なんで? 便利じゃん」


「あそこ、監視されてるんだ」


「監視カメラはあると思うけど」


「そういうことじゃない」


「そっか、じゃあ自習室にする? でも、あっちは同級生が多そうだよ」


「町立図書館で」


 僕は少し考え、被害の大きさを比較した。まぁ、町立図書館の方が便利なことに変わりはない。スマホ越しにくすっと笑うのが聞こえた。


「なにそれ。じゃあ、明日は十三時に駅前ね」


「ああ、分かってるよ」


「今日みたいに、寝坊しないようにね」


「分かってるさ。流石に昼からじゃ寝坊のしようが無い」


「本当かなー、案外昼寝とかして寝過ごしそう。本当に、置いて行っちゃうから」


「分かった」


「楽しみにしてね」


「うん?」


 電話が切れた。数秒後、メッセージが入った。最近の流行りなのか、『おやすみ』とメッセージ入りの可愛いスタンプが送られてきた。


 僕はベッドから降りて、もう一度座り直し、問題に向き直る。途中式に間違いはない。答えが合わなかったのは、小さい計算ミスが原因だった。

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