最終話 空戦
「撮影、終わりました」
「よーし。ずらかるぞ」
清水の報告を受けて森口は操縦桿を引き、雲の上に躍り出た。森口が一息つこうと一瞬、操縦桿から手を離したときだった。
「左下から、敵機が上がってきます!」
清水の絶叫が聞こえ、咄嗟に操縦桿を握り直して機体を右に横滑りさせた。機銃弾が左翼端をかすめ去り、数瞬遅れて襲撃者が高速で通り過ぎた。
「ペロハチ!」
見紛うことのない特徴的な姿を森口はしかと見た。
P-38ライトニング。かの山本五十六大将の乗っていた陸攻を撃墜した米軍が誇る名機だ。陸上基地から発進した機体が直掩機の中に交じっていたのだろう。
森口はそれを”ペロハチ”などと蔑称で呼んだ。ペロッと食えるP-38、だから”ペロハチ”しかし、それは一昔前の話である。米軍機が日本軍機との不利な格闘戦を避けて、速度を生かした一撃離脱戦法を行うようになってから”ペロハチ”は”双胴の悪魔”へと名札を変えた。
「周りの偵察頼むぞ!」
伝声管で二人に叫んでから、森口は改めて操縦桿をグッと握りなおした。手袋の中の手が汗ばんでいる。生命の危機を森口は感じていた。P-38の最高速度は彩雲とほぼ互角。速度だけが取り柄の彩雲では勝負にすらならない。ここは逃げの一手しかないが、振り切ること自体指南の技だ。
「さらに一機、P-38が上がってきます! 右!」
西川が敵の増援を確認して絶叫する。
「クソ野郎!」
機体を横滑りさせて機銃弾を辛うじてかわすが、このままではいずれ力尽きて撃墜される。後ろでは清水が旋回機銃を乱射する。
「少尉! 太陽を背に敵機が!」
西川の絶叫に、森口は思わず上を見上げた。太陽に浮かんだ黒点がピカッと光り、その刹那、機体に激しい衝撃が襲った。
風防のアクリルガラスが粉々に砕け散り、強風にコクピットが晒される、右翼に機銃弾が何発か命中して風穴を空けた。
「上飛曹!」
清水の悲鳴に反応して、振り向こうとしたとき、森口の身体を激痛が駆け抜けた。
「いっ……!」
森口の右目が開かなかった。幸いにも目は負傷しなかったものの、掛けていた飛行眼鏡の右目レンズ部分が破損していた。二重構造になっているレンズは二枚とも粉々に砕け散り、間に入っている曇り防止用のゼラチンが漏れ出ていた。ゼラチンは森口の右目にベットリと張り付き、そのせいで目を開くことができなくなっていたのだ。
「雲に入るぞ!」
右目をつむったまま森口は、機体を操って右に急旋回させ、雲に身を埋めた。普段の雲は鬱陶しいだけの存在だが、この時ばかりは頼もしい煙幕となってくれた。
森口は首に巻いたマフラーで目元を拭い、張り付いたゼラチンを皮膚から引っぺがした。
「はぁ……はぁ……清水! 西川は大丈夫か!」
森口は息苦しさを覚えたが、雲の中の水蒸気が呼吸を妨げているのだと思い、気にすることはなく部下の状況確認に移った。
「上飛曹が! 血が……」
清水の上ずった声が伝声管から伝わる。森口は振り向くと、すぐ後ろの偵察席はペンキをぶちまけたように真っ赤に染まっていた。風防の割れ残ったガラスに付着した血が、まるでステンドグラスのように輝いていた。
「畜生!」
毒づいてから森口は機体を見回す。被弾したのは右主翼と胴体の中央部。エンジンは無事、主翼もまだ繋がっていて飛行には問題なさそうだ。まだ、彩雲は飛べる。改めて息苦しさを覚えた森口は、深く深呼吸した。
「雲を出るぞ! 敵が見えたら構わず撃ちまくれ!」
「はい!」
清水の返事を効くと、機体は左に旋回して雲を飛び出した。敵を巻いている事を願ったが、そうそう敵も簡単に見逃してくれるわけではなかった。
「右!」
すぐさま伝声管から旋回機銃の発射音と共に清水の絶叫が聞こえ、機体を左に横滑りさせる。機体スレスレに機銃弾をかわす。
「うお!」
盾にしていた右の雲の中からもう一機が機銃を放ちながらいきなり飛び出してきた。間一髪で斉射の直撃は避けたが、機銃弾の一発がエンジンに当たるのを森口は見た。エンジンから白い煙が噴き出す。
その一機は彩雲の後方に回り込み、二機編隊で追撃される形となった。よほど艦隊が発見されたのが不味かったのか、二機のP-38は死神のごとくしつこく追い回してくる。
「なんでだよ! 当たってるだろ!」
清水は旋回機銃を後ろに付いた敵機に向かって乱射し続けていた。時々、弾が当たったのか敵機は火花を散らしたが、結果はそれだけだった。部品を破壊することもなければ、煙を吐き出させることもない。
後部旋回機銃の口径は七、七ミリ。陸上火器で言えば軽機関銃あたりの口径だ。相手が人なら十分すぎる威力だろうが、今の相手は鉄でできた鳥である。明らかに威力不足であった。
「ぐぅ……!」
放たれた機銃弾が電信席スレスレを通り過ぎ、その衝撃で破損した風防のガラスが清水の頬に突き刺さった。顔の半分が鮮血を浴びて赤くなる。目に入った血を腕で拭い、頬に刺さったガラス片を引き抜く。転げまわりそうになる程の激痛に耐えながら、清水は旋回機銃の弾倉を交換する。
「あれは……」
すると、下から航空機が四機、二機ずつに分かれて編隊を組み、こちらに向かって高度を上げて迫ってくるのが見えた。P-38とは違う、彩雲と同じようにエンジンが一つだけの単発機のようだ。
「少尉! さらに右下から単発機が四機上がってきます」
「何だと!」
単発機と言うことは、グラマンか……。森口は死を覚悟した。旋回機銃一艇だけの偵察機が六機の敵に囲まれて堕とされないわけがない。今まで攻撃をかわし続けられただけでも奇跡のようなものだったのに。しかし、そんな終末への覚悟も清水の報告で無駄に終わった。
「ゆ、友軍機です! 翼に日の丸が付いてます!」
狂喜と安堵が入り混じった声が伝声管を響かせて森口の耳に届いた。思いがけない事態に驚いて、森口も右下方を見た。
深緑色に染め上げられた機体の両主翼には、見間違うことの無い真っ赤な日の丸……。友軍機の一機から放たれた第一射は、彩雲やP-38からは大きく逸れて空を切った。威嚇射撃だ。P-38は彩雲の追撃を止め、友軍機との空戦に挑むのか、編隊を組みなおしてから高度を上げていく。
P-38を追撃する友軍機と彩雲は一瞬だけすれ違った。翼を振りながら脇をすり抜けていった機影は、陸軍の最新鋭機である四式戦闘機だった。
「助かったぜ……」
森口はびっしょりとかいた額の汗をマフラーで拭ったが、別の問題に気づいて再び額に汗が浮き出た。しかし、その汗は先ほどの緊張から来る汗ではなく、冷や汗と言うものだった。
「クソアメ公……」
恨みを込めて敵陣営の蔑称を吐いた。それと同時に、計っていたように血が口から溢れ出した。森口の胸には金属片が突き刺さっていた。ちょうど肺に当たる部分だ。きっと肺は破れているのだろう。先ほどから感じていた息苦しさは、これだったのか……。森口は深呼吸をしようと空気を吸い込んだが、激痛が走って思うように吸うことができなかった。
「やった!」
四対二で繰り広げられる空戦を見守っていた清水が、声を上げた。四機の四式戦闘機は巧妙に連携して攻撃を加え、瞬く間に一機を撃墜した。もう一機はというと、全速力で雲に突っ込み、いずこかへ逃げ去って行った。
勝利した四式戦闘機隊は再び二機ずつに分かれて彩雲の両隣に付き、それぞれの機体の操縦士が陸軍式で敬礼してきた。森口と清水はこちらも左右に分かれて海軍式に敬礼した。右隣りの先頭を飛ぶ隊長機と思われる機体の操縦士は、飛行眼鏡を額に押し上げて表情がわかるようにすると、笑顔を作って翼を振り、彩雲から離れていった。残る三機も翼を同じように翼を振りながらそれに続いて離脱していった。
「清水、西川の様子はどうだ?」
しばらくして、森口に西川の状況を問われ、清水は急いで電信席の背を倒して西川のそばに寄った。
普段の電信席は後ろ向きなのだが一応、席の向きを変えることができるようになっていたので、清水は素早く西川に寄ることができた。
「上飛曹、西川上飛曹!」
軽く揺すってみたが、西川は目を開いたまま人形のように動かない。清水は手袋を外して、西川の首に手をやった。人のものとは思えないほど、西川の身体は冷たかった。そして、首には大きなガラス片が食い込んでいた。これが西川の生命を一瞬で奪い去ったのだ。
「西川上飛曹!」
死んでいるとはわかっていても清水は西川をもう一度揺さぶった。苦手と言いながらもきちんと縫い直していた右手袋の人差指部分が大きく破けていた。
「うあぁ……」
清水の目からボロボロと涙がこぼれた。情けない声が口から洩れる。一方の森口は、長年連れ添っていた戦友の死にすら、気を配っている余裕もなかった。彼自身もまた死の瀬戸際にいたからだ。
「泣くな清水! 気がめいるだろ!」
ほとんど八つ当たりに近い口調で森口は言った。どうにかなりそうな胸部の激痛を抑え込むには他に気を反らすしかなかった。心の中で清水に謝罪しつつ、森口はそのままの口調で指示を出した。
「さっさと基地へ状況を打電しろ!」
「は、はい!」
清水はごしごしと涙を袖で拭い、西川の目を閉じさせてから席を戻し、無電で基地へ状況を打電した。終了の旨を森口に伝えようと、伝声管を片手に振り向いたとき、清水は森口の背中が赤黒くなっている事にやっと気が付いた。
「少尉! ふ、負傷なさって……!」
「おー。やっと気づいたか。肺をやられてなぁ、息がしにくくてな」
森口は先ほどの強い口調とは打って変わって軽口を言い、ニヤリと笑って振り向いたが、口元は吐血で真っ赤になっていた。
「まぁ、座ってろ。もう基地が……がふっ!」
もう基地が見えている。森小口は何の気なしにそう言おうとしたが、途中で吐血に邪魔をされて言葉が続かなかった。
『操縦士および偵察員負傷。衛生兵待機されたし』
清水は震える手で基地へ打電した。さっきまでの通信では暗号を使っていたのだが、今回は平電(暗号を使わないそのままの電文)で打った。いや、打ってしまったと言った方がよい。今にも席を離れて森口に駆け寄りたい気持ちをグッと押さえて、清水は席の下に配置されている救急箱を取り出して抱きしめ、機体が無事に着陸することを願った。
「ゴホッ! ……しっかり掴まれよ!」
身体も搭乗員も満身創痍となった彩雲は、右主脚を衝撃で折りながらも辛うじて胴体で滑って着陸に成功した。
「少尉!」
機体の動きが止まるや否や、清水は風防を開けて右主翼の上に飛び出した。その際、縁に付いていた割れかけのガラスで手を切ったが、そんなことお構いなしに森口のそばに駆け寄った。
「少尉! 着きました、ニコルス基地ですよ!」
救急箱片手に駆け寄って森口の顔を覗き込んだ。森口は息も絶え絶えの状態で、顔面蒼白だった。胸部の血が一滴落ちるごとに森口の命をあの世に連れ去ろうとしていた。
「衛星兵、早く!」
全力でこちらに駆け寄ってくる数人の衛生兵をさらに急かしながら、清水は森口の頭を背もたれに倒して気道確保に努めた。森口が苦しそうに咳き込む。
「担架急げ―っ! 一飛曹、右脇を抱えてください。機体から少尉を降ろします!」
いち早く駆けつけてきた衛生兵の上等兵が、素早く指示を出した。衛生兵と協力して森口を操縦席から主翼の上へ引っ張り出す。
「担架、遅いぞ! さぁ、せーの!」
衛生兵の掛け声で、さらに森口を主翼の上から担架に乗せた。もう森口は一言も喋らなかった。
(おぉ……あれが彩雲か……)
担架で医務室を兼ねた防空壕へ運ばれている途中、太陽に雲がかかって虹色に光っているのを森口は見た。何が吉兆だ。負傷してから出たって遅いじゃねぇか、西川の馬鹿野郎も逝っちまったし。出るならもっと早く出て来いや。
「少尉! 森口少尉!」
空に浮かぶ彩雲に向かって不平をこぼす一方で、耳元ではうるさいほど清水が自分の名前を叫んでいるのが聞こえていた。そちらにも気を回す。
(うるさいぞ……聞こえてる)
そう言おうと声を振り絞ったが、声は出なかった。とたんに疲労感と眠気が大きなうねりとなって押し寄せてきた。それに抗う術は森口はあいにく持ち合わせていなかった。
(寝ようか……起きてから殴ってやればいいだろう)
目を閉じた覚えはないのに、自然と視界がゆっくりと黒一色に塗りつぶされた。奥行き感のない真っ暗闇。その中で、自分の名前をしつこいくらいに呼ぶ部下の姿だけが、意識が闇に飲まれる最後の瞬間まで浮いていた……。




