ラーメン食べたい! ~真夜中の死闘~ 後篇
今さら言うなって話ですが、「ラーメン食べたい」っていうテーマ以外、とくに何も練らずにストーリーを書いています。
*
三〇分後──
(やっと……ついた)
店の灯りと暖簾を前にして、凰鵡は膝に諸手を突き、溜息を地面に落とした。
妖種の討滅後も、さらに別の男から声を掛けられること三回。女からも二回。そのたびに振りほどき、擦り抜け、走って逃げ、道を逸れ、マップを見直し、ルートを修正して、ようやくの到着であった。
長かった。よくここまで耐えたものだと自分を誉めたい。日々の修練とは別格の疲労感が全身を淀ませている。
だが、それももう終わる。
凰鵡は顔を上げた。
軒先の換気扇から噴き出す馥郁たるスープの香りを真正面から浴びている。
それだけで口腔はじっとりと濡れそぼち、唾液が唇の端から滴りそうになる。
おもわず「ん」と小さく喘いで、手の甲を口へとあてがい、蓋をした。
凰鵡自身入ったことはないが、評判は聞いている。とくにチャーシュー麺が人気らしい。暖簾の下から垣間見える奥行きの広い店内では、いまも数人のお客がカウンターで麺をすすっている。
これから自分もそのひとりになるのだと思うと、胸が高鳴る。
(そういえば、ひとりラーメンなんて初めてかも……)
などと思うと、きゅうに少し恥ずかしくなって、体が熱くなり、頬が赤らむ。
(いやいや、ここまで来たんだから……)
そう。ここまでの道のりで費やした度胸と努力を無駄にするわけにはいかない。すべてはこのためにあった。
それに、妖種と命の取り合いをすることに比べれば、たいした恐怖ではない。
「よし」とひと息吐いて、凰鵡は暖簾という名のゴールラインをくぐるべく、一歩を踏み出した。
「ねぇ、そこのきみ、ちょっといい?」
(えーまたぁー?!)
ずるーっ、と出足を滑らせて大開脚しそうになるのを押さえ込み、声の方へと顔を巡らせる。
瞬間、凰鵡は「ひい」と叫んで飛び上がりそうになった。
若い男女二人組の……警官だった。
「あなた、歳はいくつ? ひとりかな?」
女の方が訊ねてくる。質問の文面こそナンパしてきた男達と変わらないが、その目的がまったく違うことくらい凰鵡にも分かる。
(そんなぁー!)と(そりゃそうだー!)が一度に頭のなかを駆け巡る。
なにせ凰鵡は未成年──であるばかりか、容姿のせいで三歳は若く見られてしまう。そんなのが深夜にひとりでうろついているとなれば、パトロール中の警官に見咎められるのも当然である。
(ええっと……ええ、どうしよう?!)
とはいえ、この時の凰鵡にとっては完全に予期せぬ事態だった。思考がパニックを起こす。
ここで補導されたらラーメンが食べられない。それどころか、間違いなく兄にバレる。
おまけに、素性を調べられようものなら、さらに厄介なことになりかねない。
なにせ凰鵡には、正規の身分証が存在しないのだ。
学校に通ってもいなければ、住民票もない。
衆の全員がそうではないが、人間社会の裏を活動域としているのもあって、メンバーの何割か(とくに闘者)は、あえて公的な身分を持たないまま生活している。
任務中のアクシデントなどで素性が知られた場合には衆の情報力や当局上層との協力で揉み消しもされるが、今はまったくのプライベート。つまり、ここで自分が「存在しない人間」だとバレると、多方面に余計な迷惑が掛かるのだ。
「ご……ごめんなさい!」
今夜だけで何度目かの謝罪の言葉を叫びながら、凰鵡は明後日の方向へとダッシュした。
警官達も職質時の逃走には馴れているのか、すかさず反応して走る──が、二秒と経たずして、対象の姿は彼女らの視界からロストした。
建物のあいだの細い隙間に潜り込んだ小さな影を追って覗き込む──
「ええ……?!」「いま確かに入りましたよね?」
そこには、闃として黙り込む暗闇が垂れ込めているだけであった。エアコンの室外機の裏にも目を凝らすが、そもそも子供とはいえ隠れられる大きさではない。
(噓でしょー! この時間にやってるお店、ここしかないのにー!)
懐中電灯を点してなお、目を見開いて立ち竦む警官達のはるか頭上……テナントビルの屋根にしゃがみ込み、凰鵡は頭を抱えた。隙間へ入るや同時に、気配を断ってここまで跳び上がったのだ。
彼らが諦めて遠ざかってくれるのを待つか。いや、付近を巡回しているのなら、いざ食べている最中に戻ってこられる可能性もある。
(ここまで来て……)
諦めるしかない、と自分に言い聞かせて肩を落とす。強烈なラーメン欲は収まらずとも、衆や兄に迷惑を掛けるくらいなら……と思いとどまるだけの理性はまだ残っていた。
(お店のラーメンがよかったんだけどなぁ……)
こうなったら、コンビニでカップラーメンを買い、お湯ももらって、どこかひと気のない場所で食べるか。
それで腹の虫が収まってくれるかは正直なところ怪しいが、それしかないのならしょうがない。
くやし涙を堪えつつ、凰鵡は屋根づたいにその場をあとにした。
コンビニを探すといっても、またパトロールと鉢合わせてしまうかもしれないと思うと、体は自然と繁華街から離れてゆく。
気がつけば電光の天の川は背後に遠く、行く手には広々とした都市公園の闇が続いていた。
(あれ……?)
と、凰鵡の視線が、遊歩道の片隅に引き寄せられる。
最初に目に付いたのは赤い提灯だった。明かりに照らされた小さな屋根。垂れさがる短い暖簾──そこに『ラーメン』の四文字を見て取った瞬間、凰鵡は「わ……」と歓喜の混じった仰天の声をあげていた。
キッチンカーなどではない、正真正銘の屋台である。
いまどき珍しい。凰鵡にとっては漫画か歴史資料くらいでしかお目にかかったことのない代物だ。
「あの……こんばんは。いいですか?」
数秒後、凰鵡は暖簾の下に吸い込まれていた。
「おや、いらっしゃい。どうぞ座って」
深夜の来客が年端も行かぬ少女ひとりとあってか、老齢の店主は一瞬驚いた顔をしたものの、すぐに相好を崩して招き入れた。
凰鵡はおずおずと、簡素な丸椅子に尻を乗せた。他にお客の姿はない。店主とマンツーマンだと思うと緊張してしまう。
「うちはラーメン一種類しかないけどいいかな?」
水を注いだコップを差し出して、店主は訊ねる。
「はい。大盛り、できますか?」
「いいよ。じゃぁちょっと待ってなよ」
スープ鍋の蓋が開けられ、芳香の染みこんだ湯気が、ふわっ、と屋根のしたに渦を巻く。
凰鵡は淡い虚脱感のなかで、ようやく少し眠気を感じた。
長くつらい旅路がようやく報われる。
しかも、思ってもみなかった〝屋台の味〟である。とある漫画でその存在を知ったときから、一度体験してみたかったのだ。
一時はどうなるかと思ったが、災い転じて福と成す、である。
カウンターに両肘を突いて、ラーメンが出てくるのを待った。全身が柔らかな空気のクッションに包まれているようだった。丸椅子の硬い座面が気にならないくらいに心地が良い。辺りを包む暖かな湯気と、芳醇なスープの香り。提灯と裸電球の柔らかな光。湯にくぐらせた麺のように、凰鵡の心はほぐれてゆく。
(あ、そうだ。お金……)
と、尻ポケットに手を回したところで、凰鵡は凍り付いた。
…………ない。
落とした? ちがう、思い返せば、最初からそこに財布の感触はなかった。
つまり、倶利伽羅流だけでなく、財布まで家に忘れてきてしまったのだ。
「へいおまちどう」
そのタイミングで、ストンと目の前に置かれる大盛りのラーメン鉢である。
「……」
「どうした、お嬢ちゃん」
「あの……ごめんなさい! お財布忘れました!」
もはや言い訳無用。こうなればヤケっぱちとばかりに、凰鵡はカウンターへ諸手を突いて頭を下げた。
「おや、それはまいったね」
店主は困ったように、眉をハの字に傾けつつも微笑む。
「家に取りに行ってきますから、それまで待っててくれませんか?!」
「いやいや、そんなことしたらせっかくのラーメンが冷めちまうよ。まぁ、今日のところは、いいことにしようじゃないか」
「いえ、でもそういうワケには」
「いいんだよ。お金なんかより──」
クワッ、と店主の顔に、それまで微塵も感じられなかった狂気と欲望の色が満ちた。
「──お前をもらおうか!」
その瞬間、カウンターに置かれたラーメン鉢から、麺という麺が一斉に凰鵡へと伸びた。
「ええ──?!」
驚くあいだにも、凰鵡の四肢に黄金色の細縄がぐるぐると巻き付いてゆく。
引っ張ってみてもビクともしない。恐るべき柔軟かつ強靭なコシ。もし気付かずに食べていたら、絶対に噛み切れるワケがない。なんと面妖な麺であるか──否、これはもはや妖麺である。
(妖種……? 妖種なの!?)
パニックを起こす頭で、凰鵡はそれだけを理解した。
麺の群れも触手なのだ。置かれたラーメン鉢が微動だにしていないのは、カウンターと一体化しているからか。
「ふふふ、たっぷりと嬲りながら喰わせてもらうぞ」
店主の上半身が、厨房側から客席へと、カウンターのうえを滑るように迫ってくる。
最初から、店主と屋台は一体だったのだ。提灯も鍋も擬態というわけだ。
(そ、そんなのありぃ?!)
意表を突くにもほどがある。ヒトに擬態する妖種は数あれど、屋台のラーメン屋に化ける個体など聞いたこともない。
「臭う、臭うぞ……お前、ただの家出娘ではないな。これは極上の獲物の匂いだ」
店主がニヤニヤと嗤いながら、凰鵡の眼前で鼻をひくつかせる。
そもそも家出娘ですらないのだが、妖店主の言わんとするところは当たらずとも遠からずであった。
凰鵡は女であると同時に、また男でもある。
真性の両性具有者──生まれながらにして〝男子の霊力〟と〝女子の霊力〟の両方を併せ持つがために、世界でも稀なる、莫大な霊力を保持しているのだ。
霊力というのは、生物の生命を支える〝魂の力〟。肉体の力が体力なら、魂の力が霊力である。
妖種がたびたびヒトを狙うのは、この霊力を糧としているからだ。
(竜王! 竜王りゅうおうリュウオー!)
パーカーのなかの宝剣を必死に呼び出そうとする凰鵡だったが、不発に終わる。卓袱台もろともラーメン鉢をひっくり返されたかのような急展開に、エネルギーの枯渇しきった脳が着いてこられず、念を集中させられない。
その間にも、触手麺の群れが服やズボンの裾から内側に侵入してくる。妖店主は宣言通り、〝嬲りながら喰らい殺す〟気なのだ。
「ひ……ッ」
身体の中心へと這いよってくる悪寒に、凰鵡は小さな悲鳴をあげて背を仰け反らせる。
ラーメンを食べたかっただけなのに、まさかラーメンに喰われるとは、なんという残酷な運命であろう(擬態であって別にラーメンではないが)。
「ぎゃぁ!」
とつぜん、妖店主が叫んだ。
触手を吐き出していたラーメン鉢が、木っ端微塵に弾け飛んでいた。
「凰鵡──!」
ここにいるはずのない声に、凰鵡の頭がハッと醒める。
「だ、誰だ、邪魔しやがるのは?!」
「オレだぁ!」
人工林の木の間から、ひとりの青年がまっすぐに突っ込んできた。
走りながら、両手で構えた拳銃を連射する。その一発一発が妖店主と屋台を直撃し、表面を大きく穿つ。弾丸そのものの威力ではなく、弾頭に籠められている呪力の力だ。
「翔──!?」
妖麺の縛めから解放された凰鵡は目を円くする。
乱入した青年の名は大鳥翔。凰鵡が親友とたのむ、衆の情報員である。
「ッ! ──竜王!」
なぜ彼がここにいるのかはさておき、パーカーのポケットからじかに宝剣を抜く。
「唵!」
竜の顎から現出した光刃が、屋台と店主を袈裟懸けに斬り裂いた。
「お、おのれぇぇー!」
痛快なほど型にはまった断末魔を残して、妖種はドロドロに融解していった。
「はぁ……はぁ……」
凰鵡は今度こそ、その場にがくりと膝を突いた。
体に残った妖麺が放つ悪臭に眉をしかめる元気すら出ない。
「凰鵡、無事か?!」
駆け寄ってきた翔がしゃがみこんで、顔を覗き込んでくる。
「翔……どうして、ここに?」
「たまたま張ってたンだよ。最近、このへんで妙な失踪があったから。お前こそなんで……いや、ホントに大丈夫か?」
「翔……」
凰鵡は顔を上げた。仔猫のようなくりくりした瞳が潤んで、目尻から涙がはらはらと零れ落ちる。
翔の顔に戦慄と怒りが満ちた。自分が駆けつけたときにはすでに、妖店主によって辱めを受けてしまったのか。
だが、嗚咽に濡れた凰鵡のひと言は────
「ラーメン、食べたい」
だった。
*
時計はもう午前三時を過ぎていた。
「ほらよ。おまたせ」
翔がテーブルに置いた鉢の中身に、凰鵡は目を輝かせた。
脂を浮かせた琥珀色の海。黄金色の麺はまるで海底に秘められた財宝。そこにネギ、メンマ、もやし、チャーシューが山のように積まれているとあれば、これはもう宝島である。
「店のやつほど、美味くないかもだけどさ」
ここは凰鵡の住まいとは別のマンション。翔と、彼の叔父とが住む一室である。家主である叔父のほうは、今夜は衆の支部に詰めねばならない用があって帰ってこないのだそうだ。
「んーん、ありがとう。いただきます」
涙ながらにラーメンを欲する凰鵡のため、翔は二四時間営業のスーパーマーケットでカップ麺……ではなく、具材と調味料を買い、家のキッチンで作ってみせたのだ。
(……おいしい)
スープにひと口付けた直後から、凰鵡は夢中で麺をすすりはじめた。
翔の料理上手は前々から知っていたが、まさかラーメンの味まで再現してしまうとは。
これぞ本当の家系ラーメンだ。
「あんな目にあっても食いたいとか、相当(、、)だな……」
皮肉っぽく微笑みながら、翔は凰鵡の向かいに座って自分用に煎れたコーヒーをすする。
「だってぇ。翔にもそういうこと、ない?」
「ある」
「そういうときって、どうしてんのさ?」
「食っちまう」
「あー、いいなぁー」
自分のように厳しい食事制限を課されていない友のことが、凰鵡にはうらやましい。
「けど、これからはやめるわ」
「なんで?」
「お前のこと考えて耐える」
ぼっ、と凰鵡は頭から湯気が噴き出たような気がした。
翔なりの激励なのだろうが、面と向かって「お前のことを考える」などと言われると、さすがに恥ずかしくなる。
「そんな気を使わなくてもいいのに……でも、ありがと」
友の優しさを噛み締めるように、凰鵡はラーメンの残りをゆっくりと味わいながら……
(ボクも、もうちょっとしっかりしないとね)
と、意気を新たにするのだった。
……ちなみに、夜の冒険はけっきょく兄に筒抜けだったらしく、翌朝のトレーニング量は倍増された。




