第6話 日常
週末の騒動を経て、太の部屋(201号室)と光の部屋(202号室)の垣根は、すっかり失われていた。
平日の夜7時過ぎ。疲労困憊で太が帰宅すると、なぜか鍵を開ける前に中からパタパタとスリッパの音が響く。
ガチャリとドアが開くと、エプロン姿の光がとびきりの笑顔で出迎えた。
「あ! おじさん、おかえりなさい! 今日もお疲れ様です♡」
「ただいま……って、なんで光ちゃんが俺の部屋にいるんだよ!? 鍵は!?」
「え? 一緒に買い出し行った日、おじさんが『予備の鍵はポストの裏』って言ってたじゃないですか」
「盗み聞きか!? 防犯意識どうなってんだ!?」
頭を抱える太をよそに、光は手際よく太のスーツの上着を受け取り、ハンガーへ掛ける。
部屋の中からは、出汁と醤油の香ばしい匂いが漂っていた。テーブルの上には、丁寧に作られた小鉢と焼き魚が並んでいる。
「今日の献立は、サバの味噌煮と肉じゃがの残り、ほうれん草のお浸しです! 残業続きだから、栄養バランス考えたんですよ」
「うっ……めちゃくちゃ美味そう……じゃなくて! 光ちゃん、自分の部屋があるんだから夕飯は向こうで食べなさい!」
太が真面目な顔で注意すると、光は一瞬きょとんとした後、急にしゅん……と耳を落としたウサギのように肩を落とした。
パッチリとした大きな瞳に、みるみる涙が浮かんでいく。
「……嫌、ですか? 私がここにいると、ご迷惑ですか……?」
「あ、いや、迷惑っていうか……」
「私……5年前におじさんに助けてもらってから、ずっとこの日を夢見てたんです。おじさんのおうちで『おかえりなさい』って言って、温かいご飯を作ってあげるのが、私の『日常』になることを……」
胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、上目遣いでウルウルと訴えてくる光。
その姿は、どう見ても可憐で一途な100%の恋する美少女だ。
(ぐああああっ……! 可愛すぎる!! こんなの断れる男がこの世にいるかよ!! 45歳の心が折れるわ!!)
罪悪感と可愛さのダブルパンチにKOされた太は、大きなため息をついた。
「……わかった、分かったから泣くな! 飯、一緒に食おう」
「本当ですか!? ふふ、おじさん大好き♡ はい、お箸です!」
一瞬で満面の笑みに戻る光。
(騙された気がする……絶対に計算だろこれ……)と思いつつも、目の前で「美味しいですか?」と嬉しそうに微笑む光を見て、太の胃の痛みは不思議とすーっと和らいでいくのだった。
「(あーあ、俺の静かな一人暮らし日常が、完全に侵食されていく……)」
太は心の中で呟きながら、サバの味噌煮を口に運んだ。
夜10時を過ぎた202号室。
静まり返った自室のベッドの上で、光はパジャマの膝をかかえ、ぽん、と置かれたスマートフォンをじっと見つめていた。
画面には、今日・太の部屋で作った「サバの味噌煮と肉じゃが」の写真。
「美味しい」と言って、あの広い背中を丸めながらパクパクと食べてくれた太の顔が思い浮かぶ。
「……ふふ。おじさん、サバの味噌煮の甘いタレ、好きだもんね」
口元に笑みを浮かべた光だったが、ふと胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚に襲われ、膝に顔をうずめた。
(……おじさん、まだ思い出してくれないのかな……)
5年前のあの夜。
家庭環境も、自分の存在すべてに絶望して、雨の降る公園のベンチで泣きじゃくっていた自分。
学ランの袖で涙を拭う幼い男の子だった自分に、温かい缶ココアを差し出してくれたのが太だった。
『生きてりゃいいことあるよ』
そう言って、大きくて温かい手で頭をポンポンと撫でてくれた、あの瞬間。
冷え切っていた世界に、ぽっと灯りがともったような気がした。あの手があったから、光は今日まで生きてこられたのだ。
あの日から5年。
太の「一番好きな女の子(理想のタイプ)」になろうと、髪を伸ばし、スキンケアを勉強し、料理や立ち振る舞いを徹底的に叩き込んだ。
隣の部屋に引っ越してきて、毎日手料理を作って、必死にアプローチを重ねている。
でも、太が見ているのは「隣の部屋のかわいい女子高生(※太の勘違い)」であって、あの夜助けた「学ランの男の子」ではない。
『俺は45歳のくたびれた社畜のおっさんだぞ? なんで俺なんかに……』
『サギか? 新興宗教の勧誘か!?』
今日も太はそんなことを言って慌てていた。
自分のアプローチを「世間体」や「通報のリスク」として怯え、タジタジになっている太の姿は可愛くて愛おしいけれど……。
(私……こんなに見た目を変えちゃったから、あの頃の男の子だって気づくわけないよね……)
光は細い指先で、胸元をそっと撫で下ろした。
可愛いお洋服の下にある、太にはまだ隠している「本当の自分」。
男だということを明かしたら、おじさんはどんな顔をするだろう。
気味悪がられるだろうか。それとも、呆れられて遠ざけられてしまうだろうか。
「……でも、いいんだ」
光はベッドから起き上がり、鏡に映る自分の姿を見つめた。
くりっとした瞳に、丁寧に整えた髪。どこからどう見ても、太のために努力して作り上げた「完璧な乙女」の姿だ。
「おじさんの『日常』になれるなら……私の全部を使って、ずっとおじさんの側にいるんだから」
たとえ過去の記憶を思い出してくれなくても。
いま目の前にいる自分を、少しずつ好きになってくれればいい。
「明日の朝は、おじさんの好きな玉子焼き、甘めに焼いてあげようっと♡」
不安を振り払うように、光は可憐な笑みを浮かべ、明日の「太の日常」を彩るメニューを考え始めるのだった。
(※なお、太は今ごろ「今日も女子高生に胃袋を掴まれてしまった……」と、胃薬を飲みながら頭を抱えて眠りについている――




