夜道に、ふたり
「ねぇ、このあとうちに、来ない?」
と背後から音が聞こえた。長坂さんの甘ったるい声だった。
新しく入社した高橋さんの歓迎会を、長坂さんとで催した。
たった二人の部署に一人入れば、マンパワーが1.5倍だと社長は何かをやり遂げたみたいに朝礼で語っていた。
高橋さんは、僕と長坂さんよりも随分年齢が上で、業界の知識も深い。
会社のメイン業務は寺社仏閣へお守りを納品するという、世にはあまり知られていない卸業である。僕たちはその中でも、新規開拓事業部と銘打たれ、未取引の寺社仏閣に営業アタックをかける。
長坂さんとは一度寝たことがある。
酔っぱらってもいなかったし、寂しくもなかった夜だ。なにも起こらないはずの夜こそ、何かが起こる夜でもある。
大型の新規取引先が決まり、打ち上げと称して昼間によく行く会社近くの町中華で、しこたま餃子を食べようとなったのだ。しかもニンニク入りを。金曜日の夜だったし、普段昼間は仕事にも支障が出るからと、ニンニクナシ餃子を食べるしかなかった。
弘飯店を切り盛りするオヤジさんは、店の名のとおり弘さんで、中国にルーツを持つかと思えば、在日三世だった。韓国と餃子の縁はわからないが、僕も長坂さんもここの餃子が大好きなのだ。
ニンニクありの餃子を遠慮なしにビールで流し込む、他のつまみはキュウリのキムチ和えのみ、というローカルルールで、3時間固定メニューで弘飯店を満喫した。
「明日の予定、ないの?」
ぶっきらぼうに店を出てから長坂さんは聞いてきたのだ。息が白い。そのまま真っ黒なアスファルトに落ちていく。
「明日も日曜日もありませんよ」
「私はあるんだよね」
そう言うと、長坂さんは先に歩いて行った。
街灯がチカチカといつ消えてもおかしくなさそうで、まっすぐな道は暗がりだけがいつまでも広がっている。本当は少しカーブしていて、自転車が飛び出してくるとわぁっとお互いに驚くような、夜道の歩行には相応しくない道を僕たちは歩いていた。駅に近づくと、長坂さんはサッと僕の手を引いて、ほっぺたをつまんだ。
「明日の予定は、キャンセルします」
そう言うと駅のガード下を潜り抜けて、そのまま二駅先の彼女の家まで歩いて行った。途中商店街があり、小さな窪みに引き寄せられ、長坂さんと何度かキスをした。回数は覚えていない。
そういういきさつで、一度寝た。
二度目がやって来たのは、またしても金曜日だった。ウチに来ないと言われて、行かない理由はないが、行く必然もない。
「また、どうしたんですか?」
「どうもしないわよ」
高橋さんと随分前にコンビニの角で別れた。奥さんに今から帰ると電話をしているのを、二人して聞いた。
その直後に、長坂さんから二度目のお誘いを受けたのだ。
一度目から、半年が過ぎている。
そもそも半年間、僕たちの間には何の進展もなかったというわけだが、お互いに結婚をしているわけでもないし、恋人がいるわけでもない(長坂さんはいるのかもしれないが、その様子もわからない)
好きなのかどうなのかをはかる必要はあるか?
僕は「うん、行くよ」と答えた。
そのコンビニで何か買って行こうとなった。長坂さんの家まで、駅から歩くことになると思うが、コンビニひとつないのだ。
「歯ブラシは前のが、新しい下着はあるわよ」と彼女が小声で耳打ちした。
店内で流れる有線がかき消すように騒々しい。
そう言えば、高橋さんは長坂さんが引っ張って来た人だと社長が言っていた。前職の上司だったとわかったのが今日の歓迎会の成果だ。高橋さんが入社して一ヵ月も経つのに、二人して教えてくれなかった。
「やっぱ、わかれてなかったのよね」
長坂さんが一駅分歩いたところで、唇の端から苦そうに絞り出した。途中二度ほどキスをした後だった。だいたいそういうことだろうなわかっていたが、「なんのこと?」「わかれてなかった?」というオウム返しよりも、
「高橋さんのこと、好きなんですね」と話のテンポを上げる方が、暗い夜道の話しにはいいだろうと気を利かせた。余所余所しく敬語を使うあたりがこざかしいと我ながら思う。
「わかってたのね」と彼女は僕の左手をぎゅっと貝殻握りして、長坂さんは二度ため息を吐いた。あの時と同じ場所じゃないのに、カチカチと街灯が今にも切れそうだった。
「あれ、交換しないのかな」
不満げに聞こえたのか、当然交換すべきだというふうに聞こえたのか
長坂さんは
「そうだね」と言って、手を離した。
僕が空いた左手を、長坂さんの腰に巻き付けて引き寄せて
「そうだよ」と照れずに言えた。
長坂さんは歩きにくそうに、少しよろける。
彼女と僕のズレた歩幅を、刻んで合わせた。
「そうなの?」と彼女はポケットにしまっていた右手を、再び僕との接点にあらわすと、迷いなく力強く僕の腰に巻き付けた。
ちょうど彼女の手が当たる、緩んだ腰がぞわりと粟立つのを感じた。それは、初めてで、知らない感覚で、とても気持ちよかった。
真っ暗な夜道に、四本足、二本手のふたりが吸込まれていった。




