第1話 静かな予兆
三月の深夜、駅前の商店街は、湿った春の夜風に包まれていた。
上田蓮美は、少しだけ足元をふらつかせながら、隣を歩く腐れ縁の友人、シュウジの軽口に小さく笑った。
「……だからさ、あのキャラの判定がおかしいってリスナーが騒ぎ出しちゃって。配信中、フォローするの大変だったんだから」
「はは、有名税だな。配信者様も楽じゃないね」
蓮美には二つの顔がある。
一つは、清潔感のある美貌と凛とした佇まいを持つ、二十代の女性、上田蓮美。
そしてもう一つは、格闘ゲーム『ヴォルカニック ファイター』の実力派配信者『うえはーす』。
女性限定大会では常に上位に食い込む実力者だ。
彼女のプレイは、その名の通りサクサクと(ウエハースのように)相手を粉砕することで知られ、地元で彼女を知らぬプレイヤーはいない。
「あー、飲んだ飲んだ……」
蓮美はふと、下腹部に宿った微かな熱に意識を向けた。
駅近くの商店街から少し外れた居酒屋。
飲んだ五杯の生ビールと、冷房で冷え切った身体。
駅までの歩きが刺激になったのか、膀胱が静かに、しかし確実に存在を主張し始めていた。
(……結構ヤバイ。居酒屋出る時にもう一回トイレ行っとけばよかった。…ちょっと、急ぎめに帰ったほうがいいかも)
そう思った矢先、シュウジが商店街の隅にあるネオンサインを指差した。
「そうだ。ハスミ、久しぶりに一戦見せろよ。最近、配信観てなかったからさ。ここ、まだ開いてるだろ?」
指差す先は、古びた雑居ビルの地下にある『ゲームセンター・アビス』。蓮美が格ゲーのいろはを叩き込まれた、彼女のホームゲーセンだ。
「えー、今から? もう遅いし……」
断ろうとした。だが、尿意の波が再びツンと下腹部を突く。
(……シュウジに『漏れそう』なんて恥ずかしくて言えないし、ゲーセンに入ってから思い出したようにトイレに駆け込めば……)
その打算が、最悪の選択だった。
「……いいよ。一戦だけね」
蓮美は完璧な笑みを崩さず、慣れ親しんだ自動ドアを潜った。
地下への階段を降りると、タバコの匂いと電子音が混ざり合った、淀んだ、いつもの空気が停滞している。
蓮美は真っ直ぐ奥のトイレへ向かおうとした。しかし。
「――あれ? もしかして、『うえはーす』さんですか?」
入り口近くの喫煙スペースにいた、大学生風の男性グループの視線が一斉に蓮美に突き刺さった。
「うわ~!本物だ! 配信いつも観てます。超綺麗……!」
うえはーすがアビスに来るなんて!今日ラッキーすぎだろ!といった声が次々に上がる。
「……あの、もしよかったら、俺らと一戦お願いできませんか?」
まっすぐな熱意のこもった懇願。
逃げる隙はなかった。ここで「ちょっと、トイレ」と背を向ければ、彼女のブランドイメージは一瞬で崩れるだろう。
(……今からトイレに駆け込んで、用を足して、戻ってくる。……その一連の動作を、彼らにじっと見守られる? 『うえはーすがトイレに駆け込んだ』という事実を共有される?)
少々自意識過剰とも取れる気恥ずかしさは、尿意以上に彼女を縛り付けた。
女王は、生理現象さえも超越していなければならない。
(それに、もし断って逃げれば……)
明日のSNSには、彼女の『逃亡姿』がアップされるだろう。
『うえはーす、地元民を無視して逃亡』
『配信での姿と全然違う。ビビりすぎ』
そんなコメントが脳内でリフレインする。配信者としての活動において、それは死を意味する。
「ハスミ、人気者だな。ほら、一番奥の筐体、空いてるぜ」
何も知らないシュウジが、無邪気に蓮美の背中を押した。
蓮美は引き攣る頬を必死に抑え、奥歯を噛み締めた。
(……ひとり一戦。秒殺して、すぐトイレに行けば間に合う。……大丈夫、私は『うえはーす』なんだから!)
蓮美は、一番奥の壁側の対戦台、冷たい椅子に腰を下ろした。
深く座った瞬間、デニムのショートパンツ越しに下腹部が圧迫され、思わず中身が飛び出しそうになるほどの刺激が走る。
「……っ!」
思わず膝を閉じた。
「うえはーすさん、ではではお願いしまーす!」
期待に満ちた笑みを浮かべた大学生が、反対側の席に座り、100円玉を投入した。
コインが筐体に吸い込まれ、クレジットが増える音。
蓮美にとっての『終わりの始まり』を告げる鐘の音に聞こえた。
キャラ選択をして、細い指でボタンを一通り軽く叩き、開始前の指慣らしを終える。
レバーの乾いた入力音と、ボタンを叩く破裂音。その振動が、指先から腕を伝い、極限まで張り詰めた下腹部へとダイレクトに響く。一打ごとに、決壊へのカウントダウンが早まるのを感じた。
ボタンを叩く指に、いつもより力が籠る。
『READY... FIGHT!!』
足元では、逃げ場を失った水分が、今にも決壊しそうな勢いで出口を探している。
薄暗いゲーセンの照明が、彼女の青ざめた横顔を照らしていた。
(……接待は無し。速攻で終わらせる……!)
だが、彼女はまだ知らなかった。
この大学生たちが、ただの『前座』に過ぎないことを。
そして、この夜の連戦が、一生の恥となる1ページになることを。




