第10話 槍を持った火星人
ぎらつく太陽に、梅雨開けした、澄み渡った青空。と、謂っても、茹だる様な暑さ故か、空も何処か霞んだ印象である。其処へ、傍若無人な白南風が、強烈な熱波を引き連れて、我が物顔でやって来る。往来の電信柱も凄まじい暑さの為か、海底の海藻の様に大気の中を揺らいで見えた。愈々、夏本番である。正太郎は右の腕で額の汗を一擦りすると、自転車に跨り、学校に向かって、自転車を漕ぎ出した。余りにも、いつも通り過ぎる日常である。其れは、恰も、正太郎が童貞を落としたからとて、此の地球は回っているのだ。と、謂わんばかりの趣であった。そして、渋川橋東の交差点に差し掛かった時、図らずも、祐子を見つけた。正太郎は、一瞬、戸惑ったものの、勇を鼓して、思い切って祐子に声を掛けた。
「…あの、祐ちゃん。…おはよう」
何時もの様に、祐子の此れ以上無い笑顔が弾けた。祐子は振り向き様に、
「あっ、正ちゃん。おはよう」
祐子は、とびっきりの笑顔で正太郎に応えた。正太郎は驚いた。此方も余りにも普段どおり過ぎる反応である。其れは、恰も、祐子が破瓜したからとても、此れまた矢張り、此の地球は回っているのだと、天の啓示があったかの様である。正太郎は、余りに、祐子の普段どおり過ぎる反応に、少々、毒気を抜かれた形であった。何と謂っても、此の描写、清水巴川灯篭流しの翌日の描写なのである。即ち、昨日の今日の話なのである。
祐子は、夏服の白のブラウスに、通学用のデイパックを背負っている。背嚢の帯に手を掛け乍ら、笑顔を浮かべて歩いている。正太郎はそんな祐子の横で自転車を引き乍ら、歩き出した。側道の立葵が、ゆらゆらと、白南風に揺れている。赤と緑の対比が美しい。正太郎は、ぼんやりと、立葵を眺め乍ら、昨日のあの事は夢か現かと、訝しんだ程である。昨日の経験は、自身の今迄の人生を振り返って、何処か女性を敬遠して来た彼の人生からして、臍の緒を切って以来、初めての経験であり、彼的に物申せば、天地開闢以来の椿事だったのである。然るに、祐子は、見た限り、昨日以前と全く変わりは無い。寧ろ、僅か乍ら、美しくなった様にすら思う。正太郎は、少々、呆れた様な思いで、祐子を眺めた。祐子は本当に、全く普段どおりに見える。男と女では、斯くも物事の感慨が異なる物なのか? そんな事を思ったりした。其れ程迄に、祐子は普段どおりに見えたし、また、其の様に振舞っていた。
(いや、違うな)
正太郎は、ゆっくりと、首を振り乍ら、其れらの考えを否定した。恐らくは、優しく、正太郎思いの祐子の事だ。余計な心配を掛けまいと、無理をしている処も有るのだろう。正太郎は祐子の横顔を優しげに見守り乍ら、自転車から降り肩を並べて歩き出し、昨夜の破瓜の痛みを気遣った。
「…祐子ちゃん。…昨日は、其の、大丈夫だった?」
祐子は、にこやかに振り向くと、
「うん。平気だよ。」
「そう。…あのね、此れからも、よろしくね」
にっこり笑った祐子が、力強く頷いた。
「うん」
眼前に聳えるのは、夏の入り口の、大きな大きな入道雲。後は、終業式を残すのみであり、其の後に控えるは楽しい夏休みだけなのである。
の、筈だった…。
然し、豈図らんや、いつの世もそうそう楽しい事ばかりでは無い。此れはいつの時代にあっても、万古不易の理である。と謂うのも、先日の期末テストが、そろそろ返却されつつある。何の教科も、結果が非常に芳しく無い。正太郎と祐子は、例の精神的動揺(此れは高志により七夕騒動と命名された)のせいで、惨憺たる状況にあった。特に、英語が赤点すれすれの正太郎にとっては、今回、英語が平均点に届くかどうかが、赤点か如何かを分かつ、極めて重要な分水嶺となっていた筈なのである。(以前に聞いた、1度でも平均点に達した者は、赤点にならないと謂う謎の都市伝説を信じていたのである)然るに、此の体たらくである。平均点から、10点以上も乖離している。正太郎にして見れば、針の上の蓆とは、将に、此の事であろう。もう一方の当事者である祐子も、矢張り、今回の結果は芳しく無い。普段であれば、学年10番以内を目指せる成績であった彼女も、今回に関しては、50番前後と、大変、揮わ無かった。辛うじて、花道(300番台)の一歩手前で踏み止まっている正太郎からすれば、羨ましい限りの話なのではあるが、矢張り、祐子にして見れば、此の成績はショックだったのであろう。正太郎、祐子、高志の三人組は、重い足取りで部室に向かっていた。部室でも一様に、肩を落としたボストンティーパーティーの面々が、腐っている。一体に、正太郎と敬介を除いた彼らは、清水高校内にあっても、優等生の部類である。然るに、今回、彼らも、前回の中間テストに較べ、大幅に成績を落としていた。彼らも七夕騒動の煽りを受け、大なり、小なり、成績を落としていたのだ。正太郎や祐子の様に、大いに心を搔き乱された者、親友と意見がぶつかってしまった者、図らずも、喧嘩をしてしまった者、人それぞれであるが、皆、一様に頭を抱えていた。
「畜生、ボコボコにされた」
明彦が、今日返って来た32点の数学の答案を見て、自嘲する。だが、平均点が14・6である事を考慮すれば、寧ろ、良い部類であるのだが、中学時代、数学は常時45点以上であった明彦にして見れば、屈辱以外の何物でも無かったのであろう。其れに対し、
「おい、ふざけんな。贅沢にも程があるだろ」
12点の正太郎が不平を垂れる。
「全くだ。32点の何処が不満なんだ? ふざけえやがって」
5点の敬介が熱り立つ。
「そうだな。俺なんか…、見ろ。此の体たらくだ」
何故か、吹奏楽部の部室に居合わせた一平が白紙の答案を晒す。殆どが白紙で、記入した形跡が2箇所程しか無い。物の見事な迄に0点の答案である。
「此のバカと同じ点数というのが、全く以って、納得が行か無え」
いろいろ、書き込んだ形跡は有るものの、一平と同じ点数の六助が、如何にも釈然としないと謂った顔付きで、採点を批判する。高志がニヤつき乍ら、
「おお、将に伯仲の戦いだな。仲が良いというか、丙丁つけがたいと謂うか…。ところで、如何でも良いが、何で、おめえらが、うちの部室にいるんだ?」
一平が、惚けた口調で、切実な想いを口にする。
「おお、其れだ。答案の返却の時に、敬介の点数が見えたからな。追試会場での、助力を賜ろうと思ってな…。其れで付いて来た。」
「わー、ふざけんな、ばかやろう。未だ、赤点と決まった訳じゃあねえや」
ひろみが妙な処に感心する。
「然し、見事なもんねえ。あたし、0点の答案って初めて見た。将に、前途遼遠って感じね」
今回、若干、苦手な数学で平均点割れを経験して、14点であったひろみが、六助の答案をまじまじと見ている。
「わっ、こら、人の答案を勝手に覗くんじゃねえ。全く、油断も隙も、あったもんじゃあ無え」
六助が慌てて取り上げる。一方、一平は平然と答案をひろみに晒し、
「ふふふ、見たけりゃ、いくらでも、見せてやるぞ」
「やい、一平。てめえにゃ恥って言葉は無えのか」
横で不敵に笑う一平を叱りつけ、六助がぼやいた。
「其れにしても然し、本当に、此の学校のテストはえげつ無えなあ。何より、点取り問題が、全然、無え」
「えーっ、そんな事無いよ。最初の問題は解の公式に当て嵌めるだけだったよ」
祐子が異論を唱えるが、一平も六助に同調する。
「いや、祐子ちゃん。六の謂うとおりだ。点取り問題はだな。もっとシンプルにだな。例えば、AとBと二人の男が居ます。Aが飴玉4個、Bが飴玉5個、持ってます。併せていくつかな?、的な」
高志が呆れる。
「おい、ふざけんな。小学校1年レベルの点取り問題じゃねーか」
「何い!」
「全くだ。おまえがそんなんだから、サッカー部がバカの集まりみたく謂われるんだ。良いか? 斯う謂うのは如何だ? Aさんは秒速37キロのスピードで、歩いて北へ52キロ。Bさんは1時間掛けて東へ34キロ。Aさんは途中で飴玉を7個、Bさんは飴玉を8個食べました。二人併せて何個の飴玉を食べたかな?」
「おお、其れだ! 頭、良いな、おまい」
「わー、ふざけんな。先刻と同じだろ、ばかやろ。繰り上がりが入っただけで、小学校1年レベルの足し算じゃねーか? 大体、速度だの、距離だの、方角の件は、丸々いらねーじゃねーか」
高志が真っ赤になって吼える。明彦も、苦笑いし乍ら続く。
「抑々、秒速37キロメートルで歩いてって何だよ? Aさんって、絶対、地球上の生命体じゃねーだろ?」
「何か、シュールな設定の点取り問題ね」
凛子も呆れた様に、ニヤニヤし乍ら口を挟む。高志が二人に対して、引導を渡す。
「さあ、お前ら、そろそろ、練習だろ。バカ謂ってないで、行ったら如何だ? また、白坂さんにどやされるぞ。」
時計を見た六助が、慌てて、スポーツバッグを肩に掛け、立ち上がった。
「おっと、いけねえ。一平、行くぞ」
「おお、そんじゃあな。敬介。追試会場では、頼んだぞ。必ず、俺の隣に座るんだぞ」
「わー、ふざけんな。だから、赤点と決まった訳じゃあねえや」
憤然とする敬介を尻目に、でこぼこコンビは去って行った。然し、まだ、敬介がぶつくさ文句を謂っている。
「くっそーっ、でこぼこコンビめ。俺を仲間に引き入れようとしやがって…。ふざけんなってんだ。まあ、然し、確かに、あいつらが謂うとおり、此の学校って、本当に点取り問題が無いよな。今日帰って来た現国も…」
其れに対して、正太郎が異議を唱える。
「何、謂ってんだ。現国は漢字の読み問題が、略々、点取り問題だったじゃねーか?」
敬介が気色ばむ。
「何処がだよ! 何か槍を持った火星人みてーな漢字もあったし…」
「槍を持った火星人?」
高志が眉を顰めて聞き返す。
「何かまた、シュールな表現ね? そんな字あったっけか?」
凛子も首を傾げる。突然、祐子がニコッとすると、大きく叫んだ。
「あー、わかった。『侃』の字だ。ほら、『侃侃愕愕』のフリガナをいれる問題の」
「おー、そう謂えば、そんな問題があったな。敬介、此れの事か?」
正太郎が愛用の漢字辞典で該当ページを開き、敬介に提示しようとした処を、祐子が横から掻っ攫う様に手許に置くと、侃の字の口の中に、円らな瞳を二つ書き込んだ。
「ねっ、斯うすれば、火星人に見えるでしょ」
凛子が覗き込んで感心する。
「あら、意外と可愛いらしいわね」
「でしょ?」
然し、愛用の漢字辞典に落書きされた正太郎は堪らない。祐子の暴挙に対して、
「わー、何すんだよ。祐ちゃん。俺の愛用の辞典に」
「えへへ、ごめんごめん」
「然し、槍を持った火星人かあ…。かなり、独特な感性だよなあ…」
素直に感嘆する明彦に、高志もニヤ付き乍ら追随する。
「おう、斬新だ。全く、常人離れした発想だぜ」
敬介が真っ赤になって吼える。
「何、謂ってんだ。此の野郎め。扨は、てめーら、俺をバカにしてやがんな」
「いや、そう謂う訳でも無いんだが…、まあ、多少、そういった処も、無いでも無いが…」
と謂いつつも、多少、ニヤつく正太郎に対して、
「ムッキー、ひどい、眼鏡、高志、正ちん。いずなはケースケの味方だからね。よーし、此の火星人に、おリボンをつけちゃえ」
「い、いずなちゃん」
感激して、目を潤ませる敬介。一方、いずなはそう謂うと、先程の正太郎愛用の漢字辞典に、蝶々形のリボンを書き足した。そして、再び、覗き込む凛子。
「あら、何だか、益々、可愛らしくなってきたわね」
「あー、何て事すんだ、いずな。又、落書きなんぞしやがって…、然も、今度はボールペンで」
正太郎が小学校時代から愛用していた漢字辞典には、リボンをつけ、槍を携えた火星人が踊っている。
「くっそー、みんなして俺をからかいやがって…」
一人、ぶそくる敬介に、ニヤ付いた高志が話し掛ける。
「まあ、落ち着け、敬介。漢字の成り立ちを考えてみろ。抑々、漢字は表意文字だ」
「?」
「侃の字の成り立ちを考えてみろ。つまりだな。4千年前の中国で、侃の字みたいな情景を目撃した奴がいるって事だ」
「其れって…、つまり?」
「そうだ。つまり、槍を持った火星人を、古代中国人は目撃していたって事だ」
「うおおー、やっぱり」
ひろみが溜息混じりに、呆れる。
「全く、ばかばかしい」
目を吊り上げたいずなが真っ赤になって、吼える。
「ムッキーッ、ケースケ。真に受けちゃあ駄目。高志はバカなんだから。こら、高志。ケースケは純粋なんだから、詰まんない事、謂わないの。敬介、あのね、あれは槍じゃなくてニンベンなんだよ」
「誰がバカだ。ペチャパイの癖しやがって」
「ムッキー、何、失礼な事謂ってんの! 本当に、もう」
結局、テスト結果其方除けで、何時ものドタバタとなる一同であった。然し、其の夜、高志は、槍を持った火星人に追い掛けられる夢を見て、魘されたとの事だった。
あくる日の、終業式の日の1年4組。正太郎と高志は萎靡沈滞して項垂れていた。祐子が心配して声を掛ける。
「一体、如何したの? 正ちゃんも、高志くんも?」
正太郎は力なく応じる。
「ああ、祐ちゃんか…、今日は成績表が返って来るからな。くっそー、死刑判決を待つ囚人の心境だよ。かなりの高確率で、英語がやべえ。赤点の可能性が80パー位だ」
「そんな、未だ赤点と決まった訳では…。高志くんも? ってそんな訳無いか」
高志は、概ね、学年でも50番以内の優等生であり、然も、どの教科も偏り無く満遍無く出来る、祐子やいずなと同様、全教科対応型。所謂、オールラウンダータイプである。正太郎と違い、赤点に慄く姿などは、流石に想像など出来無い。
「ああ、昨日の夢見がちょっと酷くてな」
「?」
未だ、槍を持った火星人を引きずっている模様である。
清水高校の成績表は、中学と異なり10段階評価である。10、9が5段階評価の5に当り、それぞれ5%と成っている。続いて、8、7であるが此れは4に該当する。比率に直せば10%づつである。6,5,4,3が一番多い階層で5段階評価の3に該当し、比率は各10%づつであり、最後の3だけ20%となっている。そして、2は2に当り比率に直せば10%。1も1であり、同じく10%。但し、1は赤点であり、朱筆で1と表記され、追試で合格しない限り、進級権が無く、合格すると、1を訂正され2と表記されるのである。5段階評価の3の比率は合計で50%となっており、此の様な、アンバランスな構成比率となっているのは、推薦時に不利益を生じさせない為であろう。それでも、6、5は『良い3』とか『エラ3』と呼ばれており、4,3は『駄目3』とか『バカ3』と呼ばれていた。まあ、所詮、3は3であり、3に良いもクソも無い様に思うのだが、学生達の休みに於ける生活が大きく左右されて来る。主要5教科については、各休みに、補助学習、所謂、補習として、追加の7月一杯の授業、及び宿題が割り当てられるのであるが、対象生徒は、所謂、駄目3以下。即ち、10段階評価に於ける4以下が対象となって来るのである。補習は英・数・国が午前中、午後を社会系、理科系の一部の教科となっており、補習の無い教科には、問題集の宿題が割り当てられる。従って、生徒の中で、7月の20日過ぎから休みを満喫出来る者は、
①主要5科目の成績が全て5以上で
②休みに倶楽部活動が無い
者に限定されており、以上の2項目を全うする様な生徒は、意外と多くは無かったのである。
そんな、正太郎にも1学期の成績表が帰って来た。事前の懸念とは裏腹に、赤点は一つも無かった。正太郎の有頂天振りは、謂うには及ばず、まるで、お祭り騒ぎであった。とは謂うものの、決して良い成績であった訳では無い。英語、物理の2を皮切りに、3と4のオンパレードであり、正太郎の比較的好きな国語や社会も5が最大であり、ぱっと見には5段階評価の成績と謂っても、誤魔化せる程である。抑々、2と謂う評価は、赤点を取った生徒であっても、追試の結果、2に書き換えて貰える訳であり、そう考えれば、赤点と同格。謂わば、教師陣から送られた出来の悪い御世辞の様な物であり、出世コースから外れたサラリーマンの評価と近いものが有るかも知れない。それでも、正太郎は英語が赤点で無かった事が、余程、嬉しかったのだろう。子供の様に燥いでいた。然し、敬介は、現国と世界史で赤点を食らっていたし、でこぼこコンビに到っては、六助が赤点6個、一平が赤点9個。と、成績表自体が色彩豊かであり、体育以外の教科は全て3以下、全帯么三色が狙える様な成績表だったのである。
部室に行ってみても、冴えない顔が並んでいる。皆、一様に各々の勉強不足を、悔いていた。とは謂っても、でこぼこコンビや敬介の様に、赤点をとった者など居る筈も無く、ひろみが唯一、物理で4(駄目3)となり、お土産(宿題)を貰った程度である。ひろみや凛子は、どちらかと謂うと、文系科目特化型であり、理系科目に於いては若干、苦手としていた嫌いがあった。とは謂え、中学時代はオール5に近い水準の成績を取っていた連中である。流石に良い3とかは、自尊心を著しく傷つけるものであり、況してや、駄目3などは、全てを否定された位の衝撃があったのであろう。何時も、活発で、溌剌としているひろみが似気も無く、どんよりと、黄昏ている。其の隣では凛子が、得意な筈の英語で10を逸した事に、細やかな自尊心を酷く傷つけられていた。其の更に隣で高志も酷く浮かない顔をしている。明彦がニヤニヤし乍ら声を掛ける。
「よう、高志。如何した? 酷く、浮かない顔をして…。扨は、てめーも補習か?」
「そんな、くだらねえ事じゃあ無え。実は、昨日の夢見がな…」
「先刻も、教室で、そんな事をほざいていたな。何かあったのか?」
正太郎も心配して、話に首を突っ込む。
「ああ、昨日の夜、ひどい夢を見て、魘されてな…。槍を持った火星人に、追い掛け回される夢だ…」
「また、其の話か? どっちがくだらねえんだよ。全く」
明彦が呆れて吼える。居合わせた女子は、噴出しそうなのを、懸命に堪え、神妙な面持ちを装い、耳を傾けている。然し、いずなは既にニヤ付き乍ら、
「ムッキー、なんか、小学生でも見ない夢だねー。其の夢の何処が怖いの?」
「怖えだろ! 普通に。然も、其の槍で突かれると、ラザニア人間になっちまうんだぞ」
「らざにあ人間だあ?」
明彦が眉間に皺を寄せ、聞き返す。
「何か、美味しそうな人間だね」
祐子がニコニコし乍ら、相槌を打つ。丁度、お腹も減って来たのであろう。明らかに、ラザニアを連想している。
「うわあ、何、謂ってんだ、祐子ちゃん。ラザニア人間だぞ。宇宙吸血ゾンビだぞ。そんなもん食べようものなら、あっと謂う間に、ドロドロに溶けて、たちどころにラザニア人間にされちまうんだぞ。然も、ラザニア人間に吸血されても、同じ様にラザニア人間になっちまうんだぞ」
正太郎がニヤニヤし乍ら、
「何か、マタンゴみてえな展開だな。其れで、如何した?」
「如何も、斯うも無えよ。俺が襲撃されたのは、県総合運動場駅なんだが、ホームに向かう地下道には、ラザニア人間どもが犇いてやがる。奴らを振り切って、何とかホーム迄、駆け上がったが、ホームもラザニア人間で一杯だ。斯くなる上はと、線路へ飛び降りたんだが、其処へ入って来た、急行電車にはねられて、目が覚めた」
切々と訴える高志を、呆れた様に見据えたひろみが呟いた。
「ふーん、呆れた。何か壮絶な夢ね。あんたも、相当、特殊な発想してるわよ。全く、バカバカしい」
凛子も呆れて続く。
「本当よねえ。大体、何よ。うちの近所じゃないの? うちの近所を、そんなくだらない夢に使わないで欲しいわね」
明彦も、
「大体、何なんだよ、らざにあ人間って」
と、散々である。いずなに到っては、腹を抱えて大爆笑の挙句に、
「ムッキー、高志。かわいいー。丁度いいから、今日はみんなでラザニア食べに行こうよ。屹度、夢のお告げって奴だよ」
「うわー、ふざけんな、いずな。大体、昨日、俺を追い掛け廻した火星人の中には、リボンをつけた奴も一体混じっていたぞ。ありゃ、てめーの仕業だろ。抑々、其れも、此れも、敬介がくだらねえ事を謂い出したからだ。やい、こら、敬介。てめえのせいだぞ。てめえがあんなバカな事を謂い出すから、あんなおっかねえ夢を…」
「うわあ、ふざけんな」
わいわい謂い合う高志達。ボストンティーパーティーの面々にも、夏休み特有の気楽さが溢れている。結局、補習・追試が無い者も、お盆後のコンクールの練習の為、毎日、学校に通う事にはなるが、寧ろ、一同、此の陽気な仲間達と一緒に居られる事が楽しいと思っている。祐子はニコニコし乍ら、楽しそうに正太郎達を眺めている。思えば、祐子は此れ迄の人生、人付き合いが決して上手な方では無かった。生来の内気さが災いし、クラス内でも、中心で輝く様な事は決して無かった。学校に行きたく無いと思った事も、少なからずあったのだ。だが、今は違う。例え、休み中であっても、学校に登校したい。そう思っているのだ。不思議な変化である。それは、何も正太郎との事だけでは無い。此の愉快な仲間達と一緒に居る事が、頗る、心地良いのだ。これは、何も祐子だけに限った事では無い。いずなにしても、同様である。小中学校時代、壮絶ないじめを受けていたいずなにしてみれば、居心地の良い友人と謂うのは、或る意味、永遠の憧れでもあった。そんな楽園が、今、将に目の前にあるのである。そんな、いずなの心持ちが、以心伝心したのか、祐子がいずなに優しく語り掛けた。
「いずなちゃん。本当に楽しみだね。夏休み」
「うん」
いずなは、ニッコリすると、祐子に笑顔を返したのだった。
そして、待ちに待った夏休みが始まった。尤も、補習の方は、昨日の午後から既に始まっており、正太郎と敬介は、英数の補習に参加していた。吹奏楽部は、7月中は補習授業も考慮して、練習は午後からであったのだが、祐子は、朝、8時には部室に来て居た。夏休みの宿題を部室でやるつもりであったのだ。然し、宿題をやるのであれば、冷房の効いた自宅でやった方が、充分に能率的であったであろうし、いろんな教科の宿題に着手出来る自室の方が合理的であったのは、謂う迄も無いのである。其れでも、此の時間に登校して来たのは、勿論、正太郎との出会いを期待しての事ではあるが、先にも記した様に、学校に行くのが楽しくて仕方が無い、そんな思いも、心の何処かに少なからずあったものと思われる。部室には、ひろみを除く、ボストンティーパーティーの面々が、蝟集していた。其処へ、活発なひろみが、元気良く入って来た。
「おっはよー、あら、あんたたち、早いわね。練習は午後からよ」
「俺は、今から補習だ」
正太郎が、多少、剥れ乍ら答える。
「私は、夏休みの宿題を…」
と、祐子。
「俺達はナポレオン大会だ。丁度良かった。ひろみもやるだろ?」
「うわあ、やるやる」
「ねえ、ちょっと、待ってよ。其れって、抑々、あたしもメンバーに入っている訳?」
凛子が驚く。
「当然だろ。折角、5人揃ったんだから…」
「もう、勝手に…」
「ムッキー、て事はいずなも?」
「当たり前だろ。やんねえのか?」
「ムキ、…やる」
いずなが、渋々乍ら、同意をするが、満更でも無い様子だ。
「くっそー、良いなあ」
と、若干、寂しげな正太郎。今から、補習と謂う身の上なれば、トランプなぞに興じている訳には行かない。
ナポレオンと謂うのは、ジョーカーを含めた53枚のトランプで行なう、ポイントテイキングゲームで、切り札を使うコントラクトブリッジやホイスト、ツーテンジャック等と似たゲームである。ナポレオン側(ナポレオンと副官)と連合軍側で獲得した王族(A~10)の数を競うのである。各自、10枚の札を配り、3枚を伏せてゲーム開始である。ゲームに先立ってセリを行なう。その際に、ハート13とかクラブ14と言った具合である。これはハートを切り札にして王族を13枚取る。或いはクラブを切り札にして王族を14枚取る。と謂う宣言であり、セリの際のルールとして、強いスートの宣言が優先される。スートの優先の度合いはスペード、ハート、ダイヤ、クラブであり、此の辺りは、コントラクトブリッジと同様である。更に、切り札を指定しないノートランプがあり、スペードよりも更に優先される。札には強さがあり、3役。即ち、マイティ(スペードのA)、表(切り札のJ)、裏(切り札と同色のJ)の順となっており、続いて、切り札のA~2、そして、台札のA~2となっている。台札のスートが手札にあれば、必ず出さねば成らず(ジョーカーは例外)、全て、同じスートであった場合は2が最強というセイムリー2と言うルールがあるが、但し、3役には通用しない。ジョーカーは台札として使用する場合は、スート指定、その他の場合は、デコイとして、使用する。ノートランプの場合は、切り札は無いのだが、3役(4役)は存在する。此の場合、マイティ(スペードのA)以下、表(スペードのJ)、裏(ハートのJ)、カエサル(ダイヤのK)となっている。マイティ以外は全てワンアイ(片目の絵札)であり、ノートランプの場合それらが勝負の鍵を握る事となる。セリ落とした人間がナポレオンとなる訳であるが、此処で副官を指名する。指名と言っても、名指しでは無く、例えば、副官マイティと謂った具合にである。従って、副官の正体は副官自身しか知りえず、副官は、ゲーム中、影になり、ナポレオンをサポートするのである。副官指名が終わった処で、場の3枚をナポレオンが貰い、代わりに、3枚の札を捨てて、ゲーム開始である。勝負はナポレオンが競った枚数を獲得するか否かなのであるが、獲得した場合、ナポレオンには7点、副官には5点、連合軍には-4点づつとなり、逆に獲得出来無かった場合は、先程の得点の+-が逆転する事となる。更に、ナポレオンが単独で戦い勝利した場合、俗に謂う、一人立ちの場合、ナポレオン勝利は20点、逆に敗北の場合は連合軍が5点づつとなっている。又、一つの陣営が全ての王族を獲得した場合、俗に謂うグランドスラムが発生した場合、上乗せで総額60ポイントの放流となる。
此のナポレオンと謂うゲームは、非対称戦である事、高度な戦略性がある事、人狼ゲームの様な副官の存在、そして、先に述べた様にレーティングがゼロサムゲームである事が好まれ、清高内では、滅茶苦茶、流行っており、清高生であり乍ら、ナポレオンを知らない者は、偽清高生と呼ばれる程で、学校側でも、其の対策には苦慮しており、トランプの持ち込み禁止としていた。とは謂っても、学業以外の生活指導に淡白な此の学校の事であり、大抵の場合、教師陣は見て見ぬ振りをしていた。其れでも、一昨年、運動部の生徒達が、授業をサボって部室でナポレオンを興じていた事が発覚し、当該生徒は停学3日間、全員、丸坊主にされ、反省文を書かされた事件は記憶に新しい処である。
いざ、勝負開始と成るべき処、凛子が、
「ちょっと、待って…」
と声を発した。明彦が、
「何だ? 如何した?」
と覗き込む。凛子の前の机には、マッチ棒が並べられている。
「いや、昨日クラスの子に出されたんだけど…、答えが判らないのがしゃくの種なのよねえ」
「?」
テーブルには、一番左に、マッチが縦に2本繋げて並べられており、数字の1、若しくは、アルファベッドのIに見える。其の右隣にマッチ4本で□、位置的にはIの底部に底辺が来ており、其の右隣に同様に□、其の右隣に更に□。全体を俯瞰すると、宛ら、数字の1000に見える。
「マッチ棒を3本動かして、0にするんだって」
凛子が説明する。高志がボソッと呟く。
「…無理だろ」
明彦が、
「何だ。だらしが無え、こんなのは最後の0に乗じる様な形に持ち込めば良いんだろ」
然し、如何も上手くいかない。祐子も頭を捻っている。ひろみが、
「此処をスラッシュに見える様にして、0で割るとか…」
高志が呆れた様に、
「0で割って如何する? そんなバカ謂ってると、敬介や正太みたく、数学が赤点になるぞ。ぐえぇ…」
顔を赤くしたひろみの渾身の正拳突きが、高志の鳩尾にめり込んでいる。
「ばかやろう赤点じゃねえ。俺は4だ」
高志の台詞を聞き咎めた正太郎が吼える。敬介も、
「俺は2だ」
「チャース、おい、正太、敬介、迎えに来たぞ。補習に行こうぜ。補習の1限は数学だったな」
其処へ、でこぼこコンビが正太郎達を呼びに来たのだ。彼らは朝錬の直後である。何時の時代も、サッカー部、野球部は補習対象者が多過ぎて、朝錬をするのが慣わしと成っている。高志の持っているトランプを目敏く見つけた一平が、不見識な一言を発する。
「何だ? ナポか? 俺も混ぜろよ」
六助が、叫ぶ。
「てめえ、状況が判ってんのか? 此処を突破しねえと、留年なんだぞ」
「判ってるよ。冗談だって。其れで、其方は何だ、マッチ棒で1000て書いてあるが?」
祐子が説明する。
「3本動かして0にするんだって…」
一平はまじまじとマッチ棒を見つめると、徐に呟いた。
「ふーん…、簡単じゃねーか」
「えっ?」
「ええ?」
事の意外さに、居合わせた多数の人間が愕然として、息を呑んだ。何しろ、あの、一平の台詞なのである。一平の言葉に反応した六助も覗き込んで、勝鬨を挙げる。
「本当だ。楽勝だな」
「ええー?」
更に驚く、高志。そして、何と、正太郎と敬介も爽やかに、其れに追随する。
「扨と、俺達も行くか、敬介。確かに、六助の謂うとおり、簡単だよな」
「ああ、スーッとした。へへへ、おめえら。ざまーみやがれ。此れで、ちったあ、溜飲が下りたぜ」
そう謂うと、4人組はスッキリした顔付きで部室を出て行った。高志が茫然自失の態で呟く。
「何で、赤点四人衆が…」
「バカな、嘘…だろ」
明彦も、俄には信じられ無い模様である。自尊心を痛く傷つけられたらしい。
「ムッキー、信じられない。ゆーちん、如何思う?」
祐子は、細めた目で思慮深げに、マッチで出来た1000を見つめている。そして、徐に呟いた。
「多分、本当だと思うよ。何か悔しいなあ。正ちゃんのあの顔。演技じゃ無かった。其れに、六助くんや一平くんの顔も自信に溢れていた。サッカーの試合の時の顔だったよ」
結局、祐子以外は、諦めてナポレオンを始めた。祐子は、少し離れたテーブルの隅で、宿題そっちのけで、マッチ棒の1000とにらめっこである。暫し、考えていた祐子であったが、頓て立ち上がると移動し、窓を全開にした。蝉の声の大合唱が部室に飛び込んでくる。眼前、左側には校舎があり、正太郎たちも、今頃、頑張っている筈だった。祐子は窓際に立ち、窓枠に手を掛けて、校舎の方を見つめている。暑い乍らも、夏の朝のそよ風が清清しい。祐子も自信に満ち溢れた顔付きである。そして、不意に、ボソリと呟いた。
「そうかあ、だから、解けたんだ…」
いずなが聞き咎めて、祐子に声を掛ける。
「ゆうちん、解けたの?」
「うん…、多分。かなり、スッキリするよ」
いずなはテーブルの上のマッチ棒をまじまじと見つめていたが、頓て、
「あーっ」
と声を上げると、祐子の横顔、そして、其の視線の延長上にある校舎に目をやり、そして、しみじみと嘆息した。
「そっかー、成程。だから、ケースケたちが解けたんだ…」
いずなも、祐子と同じ台詞を口にする。明彦が目敏く、
「何だ、解けたのか。俺にも、答えを教えろよ」
「ムッキー、秘密だよー」
「あー、てめえ、けち臭え事言ってんじゃねえ。教えろよ」
高志も身を乗り出すが、いずなは応じ無い
「ムッキー。駄目だよー。でも、ゆうちん。ISO 80000-2の12・6に準拠するのなら、□を一つ減らさなきゃ…、ネ」
祐子もニコニコし乍ら、
「本当だね」
と、応じる。相変わらず、答えを教える様な気配は無い。仕方無く、高志はトランプを配り始める。祐子は茹だる様な暑さの中、目を瞑って、暫し、先程の風がそよ吹くのを待っていたが、其処にあるのは蝉の声ばかりである。頓て、祐子は席に戻ると、マッチ棒を片付け、宿題を始めたのだった。
一方、冷房の効いた教室で、数学の補習が行なわれていた。どの教科にも謂える事であるが、補習対象者を計算してみると、成績表の評価の分布から、学年の50%に上る事が判る。つまり、穿った見方をすれば、補習の名に託けた夏休みの侵食であり、結局の処、半数の学生は7月一杯迄授業がある訳である。そんな、状況下にて、補習授業は2日目のカリキュラムへと進んで行った。数学教師である薬缶が、突然、大声を上げた。
「こらー、サッカー部のでかいの。初っ端から、ガーガーと鼾を搔いているんじゃ無い。其処のお前だ。よーし、良い度胸だ。昨日の復習だ。①の問題の答えは何だ?」
横の六助が鉛筆で小突いて、一平を起こす。そして、小声で、
「おい、薬缶に、当てられてるぞ。①の問題だ」
一平は寝ぼけ眼で、問題を一瞥した。
① log1
一平は慌てて、涎をふき取ると、徐に答えた。
「えーと…、0です。」
外には、茹だる様な暑さの中、集く蝉達の声が溢れ返っている。
将に、神は天に御座しまし、世の中全て事も無し。である。
こんちは。高志だ。やっぱ、浴衣って良いよな。浴衣姿の女の子は、どんな子でも綺麗に見えてくるから不思議だぜ。次回は、清水の夏最大のイベント、清水みなと祭りを舞台に俺様が大活躍をするぜ。『第11話 清水みなと祭りの夜』。見てくれよな。




