03:日常に潜む試練
やや閲覧注意。
…………朝か。
耳を澄ませてみれば、どこかの家の目覚まし時計のベルが聞こえてくる。
アニマは獣人族であるだけあって聴覚も優れていて、俺でも聞こえる音量の目覚ましは──日本人の感覚でいえば、同じ部屋に置かれているそれと同じぐらいには聞こえているんだろう。
まぁ、いつものことなので段々と慣れて図太くなっていたりもしたのだが、気になる時はやはり気にはなるらしく、今日も目が覚めてしまったらしい。そんなアニマの目覚めに俺もたまたま気付いて目が覚めてきた、という流れだと思う。
俺がこういう理由で目覚めるとアニマは大体申し訳なさそうにするので、気にしてないよと優しく接してみる。
今日は誘われた訓練の予定日だから、多少早起きしたところで問題は………………うん?
頭を撫でる感触はいつも通りだが、抱き寄せた感触が何かおかしかった気がする。
寝間着は色々種類があるので日によって違うのも道理なのだが、昨晩寝る前とは何かが違っている。
首に巻かれている首用の装飾品はいつも通りだが……?
「……ふあっ!? ……っ……!」
……あー……これどうなってんだ?
タオルケットの下、というより部屋はまだ暗いままなので手探りになるが、興味が向いたので確かめてみることにした。
寝るときにもよく嵌めている木綿製の長手袋は、初期位置の二の腕で止まっている。
同じ素材で、こちらもよく履いている太ももまでの高さの靴下は若干捲れているが、こちらもほぼ初期位置だ。
どちらも長時間の着用を想定しているものであり、横方向の締め付けは肉に食い込まない程度。それでも初期位置で止まっている理由は、伸縮性が弱く、縦方向も伸ばす前から長く、体系に合わせて編んであるからだろう。
そして昨晩はたしか、下着代わりに競泳水着と、その上に柔らかく編んだ浴衣風の寝間着を着ていたような気がするのだが──ほんのりと汗で濡れた、きめ細やかな背中の感触、しかない?
競泳水着は購入後泳ぐために使われていない、という事実を思い出して少し申し訳ない気分にもなったが、今は興味が勝る。
更に探ってみると、アニマの腰の後ろ辺りに、アニマの両手が突っ込まれた布地の塊があった。寝間着の下半身部分はそのままだったので、上半身の部分だけが集まったものだろう。
手首には手首用の保護具を嵌めていて、左右のそれが革のベルトで繋がれていたような覚えが──布地の塊の中で繋がったままだった。
…………。
猫に似た短い毛を生やす尻尾が俺の腕に絡みついた。
アニマの鼻息が少し荒くなった気がする。
「……」
「……」
昨晩、布団に入ったのは日付が変わる前だった。
無視できない程度には尿意があったので、便所で用を足してから、アンナを起こさないように空き部屋へ移動。
肩紐を掛け直したアニマには敷いてあるカーペットの上でうつ伏せに寝てもらい、マッサージを施し始めた。浴衣風の寝間着は一旦脱いでもらい、畳んでからアニマの顔の下に敷いてある。
「んふっ……んっ……んひゃっ…………あっ……」
アニマは寝返りをうまく打てない状態で寝ていたので、筋肉が強張っている箇所はそれなりに多い。とはいっても、既製品の競泳水着以外は気を付けて作っただけあって、肌に残る跡などは皆無なようだが。ああいや、尻尾用の穴は開けたから完全な既製品でもないか。
手首用の保護具などはすっぽ抜けないように作っているものの、ゴムのように締め付けるわけでもない。手首に巻く部分の外側は革で作られているが、内側には布で包んだ綿が適度に配されているし、下には長手袋を嵌めている。
手首用の保護具が手首に巻く帯と違う点は、回転しないように指を通す穴があること。基本は親指だけだが、俺が作ったものは厳密なスポーツ用というわけでもないので、通常とは違う点も多々なくはない。
左右を繋いでいた革のベルトは外してあり、今は左手側のそれから腕まで軽く巻き付けてある。
何日前だったか、アニマから拘束されたまま一緒に寝たいと言われた時、俺は最初は拒んだ。
結局は根負けして、全部我慢できたら認めるという条件で半日ほどあれこれ悪戯を仕掛けたのだが、結果は昨晩の通り。つまりアニマは、困難を跳ね除ける強い意志を持って、全力で俺に身を捧げてくれているというわけである。
それがまたなんとも、身体を壊しやしないかと冷や冷やさせられることもあるが、総合的に見ればやはり可愛く思える。
しかし、こう、なんだな。背中を無防備に晒したまま色っぽい反応を示されると、指圧の成果より感触の方に気が向いてしまう。
というか一通り終えておいて今更だが、こり方は大したものではなく、背伸びでもさせていれば済む程度だった。まぁ、これも、アニマなりに俺を喜ばせようとしているんだろう。
救いといえば、厚みと通気性と柔らかさを兼ね備えている伸ばされた黒い布地が染みのない白い肌に負けていなかったところだろうか……ああ、いかんいかん。
歯止めが効かなくなってはいけない。我慢した方がアニマからの愛情をもっと感……いや、深呼吸、深呼吸だ。
「…………ふぅ。しかし、毎日じゃないにせよ、あんな状態でよく眠れるもんだな?」
「ふぇ……? ええと、ご主人様に治していただく前は色々大変でしたから……あれは一時的にちょっと不自由なだけですし、全然大したことないですよ?」
「……そうなのか? いや、どれだけ大変だったんだよ昔……」
「あ、あはは……他にも、今は身体が柔軟になったからじゃないですか?」
「あぁ、それはある、のかなぁ?」
確かに、俺の治療を受けてから今日まで、ストレッチをしっかりやっているアニマの身体はかなり柔らかい。
俺も一緒に多少のストレッチはしているが、柔軟性を維持する程度にしかやっていないので、スポーツ選手にも劣りそうな常人の範疇である。まぁ、アニマのストレッチを手伝う方が楽しいからな。アニマも喜ぶし。
そしてアニマの柔軟性はといえば、先日などはインターネットで調べながら、コントーションと言うらしい高度な軟体運動をやって見せてくれたりもした。背中を大きく逸らせるようなものは挑む前に止めさせたが、腕や脚の可動域が広いのはあれで十分理解できた。
「そ、それに……ご主人様の物だって実感できますし、喜んでいただけたら私も嬉しいですし……」
「……お、おう…………うん?」
アニマはうつ伏せのまま背中で手を組み、尻尾を振りながら──
「えと……どうぞ、お召し上がりください……?」
期待の滲む声を発した。
「あー……いただきます」
「いただきます。……えへへ」
「いただきます」
朝食を乗せたリビングの机を囲み、いただきますと唱和した。
アニマは手首用の保護具等を外しており、服はしっかり着直して座っている。耳や尻尾が楽し気に揺れていて、上機嫌な様子だ。
アンナは微妙に拗ねているような気もするが、少なくとも表面上はすまし顔である。
…………。
テレビでも点けて気を逸らしたいとは思うものの、一台しかないテレビは寝室に設置されているため、リビングで食事を摂っている今、取れる選択肢ではない。
「ん、んん。それで、ユーリは今日は訓練に行くんだったかしら?」
「ああ。車が来るのは二時間ぐらい後の予定で、多分泊まりは無し。俺の帰りが遅いようなら夕食は食べててーって、いつも言ってる通りだな」
「そうね。結局、ユーリはいつも一緒に夕食時には帰ってきてるけど、午後の八時より遅くなるようなら二人で食べておくわ」
「ああ、それでよろしく。アニマも良いな?」
「は、はいっ」
当人から話を振ってくれて助かった。
こんな狭い人間関係の中で問題があっても困るので、普通にありがたい配慮である。
「そういえば、何かやりたいことや欲しい物なんかはないか?」
二人に大して交互に視線を送りながら聞いてみた。
「え、ええっと、私はちょっと思いつかないです」
「……餃子、とか? たしか、皮で包んで焼くだけなのよね?」
「大体はそうだな。小麦粉の買い置きもあるし、買うのは豚ミンチだけで良いかな?」
とりあえず、アニマは思い浮かぶことがないようで、アンナは餃子と。
皮の作り方は調べたらすぐ出てきたし、作り方も簡単だったので安く仕上げられる。
多少の手間はあるが、俺を含め三人とも小麦粉からパンを作った経験はあるので、この程度なら慣れたものである。
「そうね。んー……他には、ちょっと思いつかないわ」
「そうか? テレビゲームなんかは結構楽しめてそうだったが」
「ユーリが持ってた分だけでもまだまだ触りきれてないし、そっちは別にいいわね」
「……そりゃそっか」
先日接続したゲーム機に対応している俺が持っていたゲームソフトは、基本的にプレイ時間が長いものばかりである。
短時間で済むものもあるが、対戦格闘アクションのソフトは大失敗だった。
試してみた理由は、日本で暮らしていた頃と比べて反射神経が良くなったから。失敗した理由は、反射神経が良すぎたから。
連射機能付きのコントローラーを惰性プレイ用に購入していたために対戦は実現できたが、六〇分の一秒がよく見えてしまっていて、操作に慣れるのも早かった。
具体的には、手加減抜きなら隙の小さな弱い攻撃は確実に防げて、それより隙が大きな攻撃は基本的に反撃が確定するという、とんでもない状態になってしまったのだ。操作のミスも皆無なので、下手な手を出した時点で長時間かつ大ダメージな連続攻撃が確定する。
後出しが必ず勝つので延々睨み合うだけ、という更にとんでもない状態になりそうなのがわかりきっていて、起動する前に止めたソフトもある。
遅延だのを有効にすることも考えはしたが、見えているのに対応できないという状況がストレスになりそうだったので結局没。俺達の間では一人プレイ用のアクションゲームとして扱われることになった。
接待プレイは面白くないからな。
「あ、ちょっと興味があるシリーズの本があるんですけど、いいですか?」
「ん、わかった。何が欲しいかは後で教えてくれ」
「はいっ」
小説や漫画はあまり買いすぎると場所を取るが、今は日本だけでなく異世界にも持ち家があるので、あまり読まなくなったものは異世界に置いてしまえばいい。
朝食を終えた後は、外出に向けてジーンズとカジュアルシャツに着替える。
着替えたらアニマを抱えるように座って、先程話した通りの情報を調べるべくPCを起動した。
アンナはテレビのチャンネルを変えて、昨日プレイしていたゲームを起動している。
PCの動作が安定する前に後から起動したアンナのゲームがタイトルに辿り着き、データをロードした。
やや遅れてPCのブラウザが起動し、アニマは横に表示させた履歴から、目的のページを……おや、このアイコンは……。
「それで、えっと、これです……」
「これかぁ。……これならたしか、駅まで行けば買える本屋もあったかな?」
「近くのお店じゃだめなんですか?」
「大判のラノベだしな。近くにある店だと、ラノベはもう少し小さな奴しか置いてないんだ」
「……じゃあ、通販ですかね?」
「んー……それも良いが、たまにはでかい店に行くのも楽しいんだよなぁ。近くにはいろんな店もあるし、明後日あたり一緒にどうだ? アンナも」
「はい、行ってみたいですっ」
「私も賛成。テレビでたまに映ってたから、ちょっと気になってのよ。人は多そうだけど」
「そうだな。……えーと、珍しいものがたくさんあるとは思うが、はぐれないようにな?」
「はいっ」
「……できるだけ、気を付けるわね」
はぐれた場合のことを考えたのか、アンナが少し震えた。
アンナが詰まったところで助けを求めてきたので、うろ覚えだったがネタバレにならない程度の情報を思い出しながら伝えて、また少し経った後。
メールで届いていた予定の時間が近付いてきた。
「じゃあ、そろそろ良い時間だから……」
「行ってらっしゃいませっ」
「行ってらっしゃい」
「おう、行ってきます」
玄関まで付いてきてくれた二人に手を振りながら扉を閉め、施錠してから階段へ。
昨日が雨だったので、今日は八月にしては涼しい空気が流れていた。
マンションの駐車場まで移動してしばらく待つと、見覚えのある制服を着た運転手が運転する、見覚えのある車が来た。運転手の顔に見覚えがないのが残念である。他に乗客も居ない。
「白井さんでしょうか?」
「はい、白井悠理です」
「IDを確認します。カードを出してください。××××××」
「あ、はい、ええと……」
組織から貰った身分証のようなカードを取り出し、IDの前半部分がこの運転手が言ったものと一致したことを確認して、運転手に見せる。
「……確認しました。お乗りください」
「はい、よろしくお願いします」
組織で聞いていた通りのアナログな手順で身分照会を終え、開いた後部のドアから入り、シートベルトを締める。
それから数秒後、俺のシートベルト装着を確認した運転手が車を発進させた。




