水の記憶
銀髪の少女は、部屋の中央で立ち止まった。陽向の部屋を物珍しげに見渡すでもなく、ただまっすぐに陽向を見つめている。藍色の瞳は静かで、しかしその奥には測り知れない深さがあった。
「狹い部屋だな」
少女が口を開く。感想なのか、事実の確認なのか、判別しがたい口調だった。
「一人暮らしには十分だ」
陽向はドアを閉め、少女と向き合った。警戒は解いていない。右手の紋章は、いつでも反応できるように意識を集中させている。
「それで、あんたは誰だ。迦具土を知ってるのか」
少女は少しの間、何かを考えるように目を伏せ、それから答えた。
「私の名は水無瀬深月。契約神は——罔象女神」
「みずはのめ……?」
陽向は聞き覚えのない名前に眉をひそめた。迦具土の声が、頭の中に響く。
——罔象女神。日本神話における水を司る神。我と同じく、この国が生まれた頃より存在する古き神だ。だが、なぜその名が今になって。
「あなたの神は知っているはず」
深月は静かに続けた。
「迦具土と罔象女神は、かつて——大災厄の時代、共に戦った。そして共に、敗れた」
「共に……?」
陽向は右手を見た。紋章が、かすかに脈打っている。
「迦具土、本当か」
しばらくの沈黙の後、迦具土の声が響いた。その声には、初めて聞く感情が滲んでいた。戸惑い、そして——懐かしさ。
——ああ、確かに。罔象女神は我が盟友だった。大災厄を封じるため、我が炎と彼女の水が揃わねばならなかったのだ。だが、封印の代償として、彼女もまた人の記憶から消えたはず。まさか、代理人を得て現世に留まっていたとは。
「罔象女神は、迦具土ほど完全には消えていなかった」
深月は言った。
「山奥の小さな集落で、ひっそりと信仰を繋いでいた。私の祖母が、最後の巫女だった。そして私が、最初の代理人。でも——」
深月の表情が、初めて曇った。
「罔象女神の力は、もうほとんど残っていない。水の加護は、私の周囲数メートルが限界。だから私は、迦具土を探していた」
「なぜ」
「大災厄が、目覚めかけている」
陽向の背筋に、冷たいものが走った。
「どういうことだ」
「封印が、解けかけている」
深月の声は淡々としていたが、その言葉の重みは計り知れなかった。
「迦具土が命を賭けて封じた災厄は、完全には消えていなかった。長い年月をかけて、少しずつ、少しずつ——封印の隙間から滲み出している。私の祖母は、それに気づいていた。そして三年前、封印を維持しようとして」
深月は一瞬息を呑み、それから言った。
「死んだ」
陽向は言葉を失った。深月の顔には、悲しみよりも、何か別の感情が浮かんでいる。怒りだろうか。それとも——決意か。
「祖母は言っていた。『迦具土の炎が再び灯らなければ、封印はもたない』と。だから私は代理人となり、迦具土の復活を待っていた。あなたが、あの廃神社で迦具土と契約した時——罔象女神が反応した」
深月は右手を掲げた。甲に浮かぶ波紋の紋章が、青白く光る。
「私は、あなたに協力を求めに来た。迦具土の代理人として——灰原陽向」
陽向は深月の目を見つめ返した。嘘をついているようには見えない。だが、あまりに話が大きすぎる。大災厄の封印、祖母の死、神々の共闘——つい昨日まで「無加護」だった自分には、遠すぎる世界だ。
「協力って、具体的には」
「大災厄の封印を完全に修復するには、迦具土の劫火が必要。でも今の迦具土には、その力はない。だから——あなたに強くなってもらう。そして、次の神代理戦争世界大会で、迦具土の完全復活を勝ち取る」
「それまで封印はもつのか」
「わからない」
深月は初めて、かすかに唇を噛んだ。
「でも、やるしかない」
——陽向。
迦具土の声が、静かに響く。
——この娘の言葉は真実だ。我もまた、うっすらと感じていた。封じたはずの災厄が、遠くで脈打っているのを。しかし今の我には、それを確かめる力すらなかった。情けない話だ。
「情けなくなんかない」
陽向は呟いた。
「お前は、独りでよくやってきた。これからは——」
陽向は深月を見た。
「一人じゃない。そういうことだな」
深月は小さく頷いた。その仕草は、どこか不器用で、陽向は初めて彼女に人間らしさを感じた。
「わかった。協力する」
陽向が言うと、深月の表情がほんの少しだけ和らいだ。それは笑顔と呼ぶにはあまりに微かだったが、確かに彼女の緊張が解けた瞬間だった。
「ありがとう」
深月は短く言い、それから窓辺に歩み寄った。
「まずは、あなたの今の力を見せてほしい。迦具土の炎がどこまで戻っているか」
陽向は右手を掲げた。意識を集中させると、浄火の淡い炎が揺らめく。
「まだこれだけだ。今日、初めて使えるようになったばかりで」
「浄火、か」
深月は炎をじっと見つめた。
「守護の炎。それを使えるようになったなら、次は——」
彼女は自分の右手に水を集めた。空気中の水分が凝縮し、掌の上で透明な球体を作る。
「これを見て」
深月が水の球を放つ。それはゆっくりと陽向に向かい、浄火に触れた瞬間——
水と炎が、混ざり合った。
普通なら水は蒸発し、炎は消えるはずだ。しかし、浄火と深月の水は互いを消し合うことなく、まるで絡み合うように、白い蒸気の渦を作り出した。
「これは……」
陽向は目を見張った。
——なるほど。
迦具土の声が響く。
——罔象女神の水もまた、浄化の力を持つ。我が炎と彼女の水は、元々対になるもの。互いを打ち消すのではなく、高め合う。大災厄を封じたのも、この力の融合だったのだ。
「これが、私たちの切り札」
深月は言った。
「でも今はまだ、こんな小さな融合しかできない。もっと強くならなければ——世界大会で勝ち抜けるだけの力を、手に入れなければ」
「世界大会か」
陽向は炎を見つめた。昨日までは想像もできなかった目標。けれど今は、その先に「大災厄」という現実がある。
「具体的に、どうやって強くなる。ただ戦えばいいってものじゃないんだろ」
「小さな勝利を積み重ねること」
深月は答えた。
「神代理戦争の基本は、どんな小さな勝負でも、勝てば信仰リソースが得られる。まずはあなたの学校で、あるいはこの地域で、少しずつ信仰を取り戻す。そして——」
深月は陽向の目をまっすぐに見た。
「東京二十三区には、『神代理戦争』の地下リーグがある。代理人同士が非公式に戦い、信仰リソースを賭け合う場所。リスクは高いけど、得られるものも大きい」
「地下リーグ」
陽向は聞き返した。そんなものがあるとは初耳だ。
「私はもう、そこでいくつか戦ってきた。でも、私一人では限界がある。水だけでは、戦えない相手も多い」
深月は右手の紋章を見つめた。その光は、陽向の浄火よりも、さらに弱々しい。
「あなたの炎が、必要だ」
陽向はしばらく考え込み、それから深月の目を見返した。
「わかった。その地下リーグとやらに、連れて行ってくれ」
「明日、学校が終わった後で」
深月は窓辺から離れ、ドアへと歩き出した。
「場所は、また連絡する」
「連絡って、連絡先知らないんだけど」
陽向が言うと、深月は振り返り、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。
「もう知ってる」
そう言って、彼女はドアを開け、夜の闇の中へと消えた。廊下の足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
陽向はしばらく、閉まったドアを見つめていた。
——不思議な娘だ。
迦具土の声が響く。
——だが、信頼できる。罔象女神の代理人であることは間違いない。あの水の気配は、我がよく知るものだった。
「盟友、か。お前にも友達がいたんだな」
——当然だ。我とて、孤独を愛していたわけではない。
迦具土の声には、かすかな照れが混じっていた。
——だが、大災厄の封印が解けかけているとは。我が身を焦がして封じたはずだったが、人の世の時の流れは、神の力すらも浸食するらしい。
「まだ間に合う」
陽向は言った。
「そうだろ」
——ああ。そなたと、あの娘がいれば。
陽向は窓の外を見た。雲が晴れ、星が瞬いている。その光は遠く、しかし確かに輝いていた。
翌日。
学校は相変わらずだったが、一つだけ違うことがあった。
「おい、聞いたか。灰原が加護を得たらしいぜ」
「マジかよ。どの神だよ」
「なんか、零落神だって。名前も聞いたことねえ神らしい」
「零落神って、あのゴミ神かよ。やっぱノーガードと変わんねえじゃん」
教室の隅で、そんな声が聞こえる。陽向は無視して窓の外を眺めていた。だが、昨日までと違うのは、右手の紋章が確かに熱を帯びていることだ。
昼休み、陽向は屋上へと向かった。弁当を食べるためではない。
「来てたのか」
屋上の扉を開けると、銀髪の少女がフェンスにもたれて立っていた。水無瀬深月。いつの間に校内に入ったのか、彼女は陽向の高校の制服を着ている。
「転入した」
深月は簡潔に言った。
「監視対象と同じ学校にいた方が都合がいい。手続きは罔象女神の残った力で誤魔化した」
「監視対象って……俺のことか」
「当然だ」
深月はフェンスから離れ、陽向に向き直った。
「今夜、地下リーグに行く。相手はもう決めてある」
「もう? 早すぎないか」
「時間がない。大災厄の封印は、日々弱まっている」
深月の声には切迫感があった。陽向は弁当を諦め、ポケットに手を突っ込む。
「相手はどんなやつだ」
「雷神の分霊——今日あなたが倒した小学生の、父親。加賀美光成。大企業の代理人で、地下リーグでもそれなりに名が通っている」
陽向の眉が上がった。
「加賀美の父親だと」
「息子が負けたことを知って、報復を狙っている。先手を打つ」
「報復なら、俺一人で受ける。お前を巻き込む必要は——」
「必要がある」
深月は有無を言わせぬ口調で遮った。
「これは単なる報復戦じゃない。加賀美光成の信仰リソースは大きい。彼に勝てば、迦具土の力は一気に回復する。そして——」
深月は陽向の右手に目をやった。
「迦具土の力が戻れば、私の水も強くなる。私たちは、対だから」
——確かに、理には適っておる。
迦具土の声が響く。
——しかし陽向、相手は大人だ。加護の熟練度も、今日の子供とは比べ物にならぬ。覚悟はあるか。
「覚悟なら、とっくにできてる」
陽向は右手を握りしめた。紋章が熱を帯び、浄火がかすかに揺らめく。
「相手が誰だろうと、守るために戦う。それだけだ」
深月は陽向の炎を見つめ、それから小さく頷いた。
「いい目だ」
それが、彼女なりの最大限の賛辞だった。
「放課後、校門で待ってる。遅れるな」
深月はそう言い残し、屋上を去っていった。
陽向は空を見上げる。雲一つない青空。しかし、その向こうには見えない何かが蠢いている。大災厄。迦具土が命を賭して封じたもの。それが今、目覚めようとしている。
「守るために、か」
陽向は呟いた。
廃神社で迦具土と出会った時、彼は言った。「守りたかったからだ」と。理由など、それで十分だと。
今なら、少しだけわかる気がする。
誰かを守りたいという想いが、こんなにも強い力になることを。
放課後。
陽向が校門に向かうと、深月が約束通り待っていた。彼女の隣には、もう一人——見覚えのある小さな影。
「あっ、お兄ちゃん!」
昨日お守りを取り返してやった子供が、深月の後ろから顔を出した。
「お前、どうしてここに」
「この子の契約神、道祖神から連絡があった」
深月が説明した。
「私たちに協力したいと。信仰リソースは少ないけど、道案内くらいはできる。地下リーグの場所は、こういう土地神が一番詳しい」
子供は誇らしげに胸を張った。
「僕、役に立ちたいんだ。お兄ちゃんに助けてもらったお礼」
陽向は一瞬迷ってから、子供の頭に手を置いた。
「危険な場所に連れて行くわけには——」
「大丈夫だよ。僕の神様が守ってくれる。それに、お兄ちゃんもいるし」
子供の無邪気な笑顔に、陽向は何も言えなくなった。
「道案内は頼む。でも、危なくなったらすぐに逃げろ」
「うん!」
子供は嬉しそうに頷き、二人の先に立って歩き出した。
「こっちだよ。地下リーグの入り口は、この街の地下道にあるんだ」
深月が陽向の隣に並ぶ。
「緊張してるか」
「していない、と言ったら嘘になる」
「正直でよろしい」
深月はわずかに口元を緩めた。
「でも、あなたは強い。私が保証する」
「まだ一回しか戦ってないのに、よく言う」
「戦いの数じゃない。戦う理由だ」
深月の藍色の瞳が、まっすぐに陽向を見た。
「守るための力は、奪うための力より強い。昨日、あなたが証明した」
陽向は何も答えず、前を向いた。
右手の紋章が、夕暮れの街に淡く輝いている。
地下道の入り口は、古びた公園の片隅にあった。子供が案内した先は、一見するとただの排水溝の蓋。しかし、その蓋には見慣れない紋章が刻まれている。
「この紋章、神代文字だ」
深月が呟いた。
「古代の神々が使っていた文字。ここで間違いない」
子供が蓋に手を触れ、小さく祈る。すると、蓋が音もなく横にスライドし、地下へと続く階段が現れた。
「僕はここで待ってる。中は大人の代理人しか入れないから」
子供は少し残念そうに言った。
「気をつけてね、お兄ちゃん、お姉ちゃん」
「ああ」
陽向は階段を見下ろした。闇の中から、かすかに熱気と喧騒が伝わってくる。
「行くぞ」
深月が先に階段を下りていく。陽向もそれに続いた。
階段を下りきると、そこは広大な地下空間だった。かつての地下鉄の跡地か、あるいは戦時中の防空壕か。高い天井には無数のランプが吊るされ、闘技場と思われる円形のエリアを照らしている。
そして、その周囲を取り巻く観客たち。全員が、手の甲や額に神の紋章を光らせている。代理人たちだ。
「ここが、地下リーグ」
深月が言った。
「神代理戦争の、裏の顔。表の世界ではできない、危険な戦いが日夜行われている」
陽向はごくりと唾を飲み込んだ。
闘技場の中央で、一人の男が待っている。スーツ姿の壮年の男。その両腕には、見覚えのある青白い雷光が走っていた。
加賀美光成。雷神の分霊を操る、大企業の代理人。
「来たか」
光成の声が、地下空間に響く。
「息子が世話になったな——灰原陽向」
陽向は深月と顔を見合わせ、闘技場へと歩み出した。
右手の炎が、闇の中で燃え上がる。




