灰の中の灯火
雨だった。
都心の空を劈く雷鳴は、天候によるものではない。ビルの屋上から屋上へ、二つの影が跳躍する。片方は背に白銀の翼を広げ、もう片方は両腕に雷光を纏い、激突のたびに火花を散らしていた。
人々は傘を差し、時折空を見上げる。誰も悲鳴を上げない。逃げ出しもしない。これが、この世界の日常だった。
「——またかよ、神代理戦争」
スーツ姿のサラリーマンが呟き、歩き去る。その声には呆れと、かすかな羨望が混じっていた。
この世界では、神は実在する。人々の信仰が力となり、神に選ばれた代理人たちは、あらゆる勝負でその威信を競い合う。企業の買収、スポーツの決勝、時には子供の喧嘩ですら、神の名の下に行われれば、それは「神代理戦争」だ。
勝者は敗者の信仰リソースを奪い、自身の神をより強大にする。
遠くで歓声が上がる。勝負がついたらしい。空から光の粒子が舞い降り、勝利した代理人へと吸い込まれていく。
しかし、その光が届かない場所がある。
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都立橘花高等学校。
校門をくぐる生徒たちの傘には、様々な紋章が描かれていた。ゼウスの雷霆、トールの鎚、アマテラスの八咫鏡——それらは自らの契約神を示す、誇りの印だ。
灰原陽向の傘には、何の紋章もなかった。
「おい、見ろよ。ノーガードの通り雨だぜ」
教室の隅で、そんな声が聞こえる。聞こえないふりをして、陽向は窓の外を眺めていた。雨粒がガラスを伝い、外の景色を歪ませる。
「灰原ってさ、なんで学校来るんだろうな。どうせどの神にも選ばれてないのに」
「まあまあ。加護がなくても生きてはいけるだろ。底辺なりにさ」
クスクスという笑い声。
陽向は黙って教科書を開いた。文字は並んでいるが、頭に入ってこない。
無加護——ノーガード。
どの神からも加護を授かれない者への蔑称。この世界において、それは「無価値」と同義だった。
クラスメイトたちの話題は、いつも加護のことだ。「俺の神はトールの分霊でさ、この前の模擬戦で稲妻の加護が覚醒したんだ」「うちの神は弁天様。芸術系の勝負なら負けないよ」
神のいない人生。加護のない存在。
陽向には、それがどれほど重いか、彼らにはわからないのだろう。
放課後のチャイムが鳴る。誰も陽向に声をかけない。かけようともしない。陽向もまた、誰にも声をかけずに教室を出た。
靴を履き替え、傘を開く。校門を抜けるとき、背後で楽しげな笑い声が聞こえた。
「神なんて」
陽向は小さく呟いた。
「結局は人間を見下してるんだ。価値があると判断したやつにしか、力を貸さない」
けれど、その言葉は自分への言い訳に過ぎないことも知っていた。
本当は、欲しかった。
誰かに必要とされたかった。
力が欲しかった。
——あの日、両親を守れるだけの力が。
雨のせいで、思い出したくなかった記憶が蘇る。
七年前。両親が経営していた小さな会社が、大手企業の神代理戦争に巻き込まれた。相手の代理人が放った加護の余波が、何の加護も持たない両親を——。
葬式の日も、雨だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
親戚の誰かが泣いていた。けれど陽向は泣けなかった。ただ呆然と、冷たい雨に打たれていた。
神がいるなら、なぜ。
なぜ、何の罪もない人を。
そんな問いを、誰にぶつければいいのかもわからないまま、陽向は大きくなった。
コンビニのアルバイトまで、まだ二時間ほどある。まっすぐ帰る気になれず、陽向はいつもと違う道を選んだ。
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十五分ほど歩いただろうか。
住宅街の裏手、古びたアパートと小さな公園に挟まれた場所に、それはあった。
「こんなところに神社が……」
陽向は思わず足を止めた。
鳥居は朽ちていた。朱色だったであろう柱は色褪せ、あちこちにひびが入っている。狛犬は苔むし、片方は首が欠けていた。
敷地は雑草に覆われ、参道の石畳はほとんど見えない。社務所はなく、本殿だけがかろうじて原型を保っていた。かつては誰かが管理していたのだろう。しかし今は、完全に忘れ去られた場所だった。
雨に煙るその光景は、あまりに寂しかった。
誰にも顧みられず、祈られることもなく、ただ静かに朽ちていく。
——まるで、俺みたいだ。
陽向は気がつくと、本殿の階段を上っていた。濡れた木の感触が靴底に伝わる。中を覗くと、小さな神像が安置されていた。
像は埃を被り、蜘蛛の巣が張っている。供え物の痕跡も、賽銭のひとつもない。どれだけの間、ここにあったのかすらわからなかった。
「……可哀想に」
言葉が自然と口をついた。
誰にも覚えてもらえないなんて、どれほど寂しいだろうか。
それは、学校で誰にも必要とされない自分自身への、無意識の投影だったのかもしれない。
陽向はポケットからハンカチを取り出し、像の埃を拭き始めた。ゆっくりと、丁寧に。蜘蛛の巣を払い、落ち葉を手で拾い集めた。水道はなかったが、ペットボトルの水で手を清める真似事をする。
ただ、自分と同じ「孤独」に対して、何かをせずにはいられなかった。
「俺も」
陽向は呟いた。
「誰かに、必要とされたかったな」
その瞬間だった。
指先に、かすかな温もりが灯った。
最初は雨の冷たさで感覚が麻痺しているのかと思った。けれど、その温もりは次第にはっきりとした熱を帯び、やがて小さな火の粉となって陽向の指先で揺らめいた。
火の粉は雨に濡れない。水滴が触れる寸前で蒸発し、白い湯気が立ち上る。
陽向は驚いて手を引っ込めようとした。
——やめよ。
頭の中に、直接、声が響いた。
周囲を見回す。誰もいない。雨音だけが、世界を満たしている。
——久方ぶりの、人の温もりよ。
声は年老いた男のようでもあり、幼い子供のようでもあった。かすれ、震え、今にも消え入りそうな声だった。
「……誰だ」
陽向は警戒を込めて問うた。返事は、また頭の中に響く。
——我が名は迦具土。かつて、火を司りし神。
神像が、ぼんやりと淡い光を放ち始めた。その光は橙色で、まるで囲炉裏の火のように温かかった。
光は陽向の胸へと吸い込まれ、体内で何かが目覚める感覚が走る。痛みはない。むしろ、凍えていた心がゆっくりと溶かされていくような、不思議な感覚だった。
「あんた……神様、なのか。こんな、誰もいない神社で」
——左様。されど、遠い昔のこと。大災厄よりこの国を守るため、我は身を焦がし、全てを燃やし尽くした。その代償として、人の記憶より消え去ったのだ。
「大災厄……?」
陽向は聞き返した。その言葉は、初めて耳にするものだった。
——もはや覚えておる者はおるまい。それでよい。我が封じた災いは、人の世にあってはならぬものゆえ。
迦具土の声には、悲しみよりも、静かな誇りが滲んでいた。
「どうして」
陽向の声は震えていた。
「どうして、そこまでしたんだ。見返りもなく、誰にも覚えてもらえず、こんな寂しい場所で、独りで……」
——守りたかったからだ。
迦具土の答えは、あまりに簡潔だった。
——この地を、人を。理由など、それで十分であろう。
陽向の胸に、小さな波紋が広がる。
見返りを求めない献身。損得ではない、ただ純粋な「守りたい」という想い。
それは、陽向がずっと信じられなかったものだった。
——願いがある。
迦具土の声が、少しだけ強くなる。
——そなたの手で、我が名を再び人の世に戻してほしい。このまま消えるのは、あまりに寂しい。
「俺は」
陽向はうつむいた。
「俺は無加護だ。どの神にも選ばれなかった、落ちこぼれだ。そんな俺に、何ができる」
——我もまた、誰にも選ばれなかった神よ。
迦具土の声に、初めて笑みのようなものが混じった。
——ならば、落ちこぼれ同士。手を組む価値はあろう。
神像から、炎の欠片が浮かび上がる。それはゆっくりと陽向の右手に近づき、甲の皮膚に触れた瞬間、焼けるような熱さが走った。
「っ……!」
思わず声が漏れる。けれど、その痛みはすぐに消えた。
見ると、右手の甲に小さな炎の紋章が浮かび上がっている。赤と金が混ざり合った、揺らめくような意匠だった。
——契約は結ばれた。
迦具土の声が、頭の中に響く。
——我が加護は、まだ灯火ほどの力もない。されど、そなたが勝利を重ね、信仰を取り戻すたび、我は甦る。
「……俺に、できるのか」
——できるかどうかではない。やるのだ。
雨の中、陽向の右手の紋章が静かに輝いていた。
それは、生まれて初めて手にした「誰かのための力」だった。
誰かのために戦える力。
誰かを守れるかもしれない力。
陽向は、強く拳を握った。
「……わかった」
短く、そう答えるのが精一杯だった。
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その夜、陽向はアルバイトを終え、ボロアパートの一室に戻った。
六畳一間の部屋には、最低限の家具しかない。両親を失ってから、親戚を転々とした後、高校入学と同時にここで一人暮らしを始めた。
右手の紋章は、普段は消えている。けれど、意識を集中させると、ほのかに浮かび上がる。陽向は電気を消した部屋で、その淡い光をじっと見つめた。
——まずは小さな勝利でよい。
頭の中に、迦具土の声が響く。どうやら、思念で会話ができるらしい。
——信仰の欠片を集めるのだ。道端の石を積むが如く、ひとつ、またひとつと。
「小さな勝利、か」
陽向は呟き、天井を見上げた。
小さな勝利。それは、たとえば。
何かが、変わるのだろうか。自分に。
世界に。
答えはまだわからない。けれど、あの廃神社で感じた温もりだけは、確かにここにあった。
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翌日。
学校は相変わらずだった。陽向は「無加護」として扱われ、誰も目を合わせようとしない。それはいつものことで、今さら気にするほどのことでもない。
昼休み、陽向は一人で屋上への階段を上ろうとしていた。教室にいるよりは、誰もいない場所で弁当を食べたかったからだ。
しかし、その途中で、足を止めた。
階段の踊り場で、小さな影がしゃがみ込んでいる。小学校低学年くらいの男の子だった。この高校には附属の小学校がある。おそらくその生徒だろう。
子供は、泣いていた。
声を押し殺して、肩を震わせている。手には、千切れたお守りのようなものを握りしめていた。
陽向は、通り過ぎようとした。他人の子供の泣き声に首を突っ込む義理はない。
——されど。
右手の甲が、かすかに熱を持つ。
「……ちっ」
陽向は小さく舌打ちをして、子供の前にしゃがみ込んだ。
「どうした」
子供が顔を上げる。大きな瞳には涙が溜まり、その目は、かつて雨の葬式で立ち尽くしていた幼い自分に、あまりに似ていた。
「お守り……とられちゃった」
子供はしゃくり上げながら言った。
「僕の神様のお守り。六年生が、代理戦争だって言って、無理やり勝負して……僕、負けちゃって……お守り、取られて……」
子供の言葉を聞きながら、陽向は右手の紋章に意識を集中させた。
——迦具土。
——なんじゃ。
——これが、最初の戦いか。
一瞬の沈黙の後、迦具土の声が響く。
——いかにも。そなたの優しさが、我を呼び覚ましたようにな。今度は、その優しさで、誰かを守るがよい。
陽向はゆっくりと立ち上がった。
「相手は誰だ」
子供が驚いたように陽向を見上げる。
「六年生の……加賀美って……雷神の分霊と契約してて……」
「わかった」
陽向は短く答え、子供に背を向けた。
「ちょっと待ってて。取り返してくる」
「え……でも、お兄ちゃん、加護は……?」
子供が不安そうに尋ねる。当然の疑問だ。
陽向は振り返らず、右手を掲げた。甲に、炎の紋章が浮かび上がる。
「あるよ。小さな火種くらいは、な」
階段を上りながら、陽向は口元に笑みが浮かぶのを感じていた。
自分から喧嘩を買う日が来るとは思わなかった。
けれど、不思議と悪い気分ではなかった。
——落ちこぼれと、忘れられた神の、成り上がりが始まる。
炎の紋章が、静かに輝きを増していく。
それは、灰の中に灯った、最初の灯火だった。




