021.王子の真意
部屋の冷たい空気は、仮面を外した男――第二王子レオンハルトが、司祭が位置を直した椅子に腰を下ろすと同時に、さらに重くなったように感じられた。彼は堂々と足を組み、まるでこの部屋全体が、彼の私有地であるかのように振る舞っていた。その目は冷たく、私を品定めするように見つめている。
「不要とは思うが……改めて自己紹介と、洒落込もうではないか。我が名はレオンハルト・アルデリック・カリストリア。王位継承権第二位として、飼い殺し中の王子だ」
その声は低く、威厳に満ちていた。彼はまるでこれが当然だと言わんばかりに名乗りを上げる。
「そしてこっちの棒読み役者が、文典卿クラウス・グランディエ」
彼が指さした先には、控えめに佇むもう一人の人物、先程まで私に拷問めいた行いをしていた、文典卿クラウス・グランディエが立っていた。文典卿と聞いて、私はさらに緊張した。目の前にいるのは、ただの役職者ではない。国の中枢に立つ者たちだった。
カリストリア聖王国。中央の大都市を中心に構成された都市国家であり、その周囲には小さな集落や農村が点在しているだけの国土。広大な土地を持たないこの国では、貴族たちは土地の統治ではなく役職を拝命することにより権力を得る。
律法卿は宗教法や教義の運用・司法機能の監督を。
軍防卿は軍事力の管理や治安維持、戦争指揮を。
財務卿は税収管理や予算調整、財政運営を。
農地卿は農業や水利の管理、収穫調整を。
築造卿は城壁や宗教施設の建築事業の管理を。
文典卿は教育や記録管理、宗教教育の統括を。
典籍卿は聖典や記録文書の保存・複製を。
祭儀卿は宗教儀式や祭礼の運営、供物の管理を。
それぞれ任されている。
目の前にいるクラウス様はその中でも、特に教育や知識の管理を司る文典卿であり、彼がここにいるということは、この状況がただ事ではないことを示していた。
私は緊張で喉が乾き、言葉を発することもできなかった。目の前には王族と文典卿――国の中枢を担う人物たちがいる。この状況が持つ意味を理解するだけで、背中に冷たい汗が流れた。
そんな私の心情などお構いなしに、レオンハルト殿下は話を続けた。
「貴様は、五年前から山脈を越えた軍勢による侵攻が続いていることを知っているか?」
「……はい」
声がかすれたのが自分でも分かったが、なんとか返答する。
「我が父上、カスパール・マクシミリウス・カリストリアは、それに対抗するため、やたらと強い大男――つまり『救国の英雄』とやらを戦場に駆り出してきた。戦果は素晴らしいものであるようだ。たった一人で、千や万の軍勢を毎回撃退するのだからな」
レオンハルト殿下は腕を組みながら続ける。
「だが、それは一時的な対応に過ぎない。毎回敵の僅かな生き残りが山脈を戻り、軍備を整えた後にまた山越えをしてくる。……戦場で一人の兵を暴れさせたとて、侵攻を根本的に止める策にはならないと、我は父上に何度も抗議した。だが、我の意見が聞き入れられることはなかった」
彼の言葉には、どこか皮肉めいた響きがあった。
「王位継承権第一位の姉上も同じだ。父上に倣っているのか、我の意見など聞く耳を持たない。父上に至っては、元より警戒していた我を、余計に警戒するようになってしまった。この狭い国にいて、最後に顔を合わせたのは二年前になる。あまりにしつこいものだから、すっかり嫌われてしまったらしい」
レオンハルト殿下は自嘲気味に笑った。その姿に、私は思わず目をそらしたくなった。
「それならばと、英雄本人に聞いてみようにも、父上が救国の英雄と呼ぶその男の居場所さえ、我には開示されない。捕らえることもできないどころか、話を聞くこともままならない」
彼は苛立ちを押し隠すように淡々と話を続けた。
「手回しをし、英雄の世話係として、我らを詮索するようなことをしなさそうな、愚鈍な聖騎士を新たにあてがった。そのおかげで場所は割れたが、奴らも情報を何も掴めなかった。英雄本人も、昔からの側近も、一切口を割ろうとはしない」
その言葉に、ヘンリーさんとユアンさんの姿が頭をよぎる。ダリオンさんに比べ、どこか無邪気で騎士然としていなかった理由に合点がいく。
「しかしようやく、あれこれ手を回して事情を知る者を味方に引き入れることに成功した。そして、その者経由で分かったのだ。……英雄が何者なのか。そして、あのおぞましい実験の存在についても」
その言葉を聞いて、胸が締め付けられるような感覚が走る。
レオンハルト殿下はそんな私の顔を見て、目を細めた。
「……その反応。やはり魔術実験について、何か知っていたな」
「あ、えと……も、申し訳……」
レオンハルト殿下が右手を上げ、私の言葉を遮った。
「よい。我は赦すと言ったはずだ」
彼は上げた手を下げ、そのまま右手を自分の顎にそえ、考え込むような仕草で話を続ける。
「……我は、父上のやり方が気に入らん。王位継承権の繰り上げも考えたが、我が国は聖王国教会による信託にて次の王を定めている。何らかの功績を立てたとて、我に王位が回ってくることはない。……誠に残念なことに、父上も非常に元気でおられる。姉上へ王位が回ってくるのも、随分と先のことになるだろう。しかしながら……北からの侵攻は激化する一方。姉上の王位継承のタイミングを待っていることも出来ぬと、我は思っているのだ」
彼は一度目を閉じ、深くため息を吐いてから言い放った。
「我はこれを、『実験と英雄の真実』を公にしたい。この事実を白日の下に晒せば、民衆を味方につけることも叶おう。そうすれば、神の決定に誤りがあったと、難癖をつけることも叶うやもしれん。……しかし、手順を誤れば、我が首も含めて、いくつかの首が飛ぶことになる。信託の否定……つまり、神の意志の否定となるのだからな。無論、このクラウスの首も飛ぶことになる。事は慎重に運ばねばならん」
レオンハルト殿下はフンと鼻を鳴らし、大きなため息を吐いて椅子の背もたれに身体を預けなおした。
「……しかし、考えれば考えるほど骨が折れる。いっそのこと、王位を簒奪してしまえたら楽だろうな」
簒奪。
その不穏な言葉に、私は目を見開き身体を硬直させた。
レオンハルト殿下が僅かに笑みを浮かべ語るその横で、クラウス様が穏やかな声で口を挟んだ。
「殿下、陛下の侵攻に対する姿勢が気に入らないのであれば、それを陛下に真摯にお伝えすれば良いだけのこと。王位を奪わずとも、それは叶います。……無理に簒奪だなんて、手段を取る必要はありますまい」
「黙れ。我なりの冗談というものよ。全く、貴様は昔から口煩くてかなわん」
レオンハルト殿下が応じると、クラウス様は小さくため息をついた。
私は気になっていることを確認するべく、おずおずと口を開いた。
「救国の英雄……ヴァリク様は、その後どうなるのですか?」
その質問に、レオンハルト殿下は一瞬だけ眉を上げたが、興味なさげに首を振った。
「どうでもよい。あれは働かされているのだ。民衆を味方にする上で、被害者として祀り上げられれば、良い差配が出来よう。……その後の事は知らぬ。それなりの金を持たせ、納得させるくらいしか、我は今のところ考えておらぬ。本来であれば、争い事を好まぬ男と聞いている。まさか復讐などに走るとも思えん。それである程度、納得させられるであろう」
その答えに、胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。ヴァリク様を今の状況から助けられるかもしれない――その希望が芽生えた。
「もしヴァリク様が助かるのなら、私は協力します。いえ、協力させてください」
私は震える声でそう答えた。
その瞬間、レオンハルト殿下は口元に笑みを浮かべた。だが、その笑みには冷酷さが宿っていた。
「フフフ……アハハハハハ! 貴様、理解しているのか?」
肩を揺らして笑うレオンハルト殿下に、心の中で焦りながら、なんとか返事を絞り出した。
「な、何をでしょうか……?」
「フ、フフフ……この件、失敗すれば、貴様の首も飛ぶのだぞ?」
彼の言葉に、冷や汗が背中を伝った。そんな私を、レオンハルト殿下が再びじっと見据えた。
「そういえば……貴様の名前を聞いていなかったな」
私は一瞬戸惑ったが、すぐに背筋を伸ばして答える。
「ロベリア・フィンリーです」
殿下は短く頷くと、淡々とした口調で問いを投げかけた。
「我の要件は以上だ。他に、何か知りたいことはあるか?」
私は息を呑み、恐る恐る尋ねた。
「今、ヴァリク様がどうなっているのか、ご存知でしょうか……?」
レオンハルト殿下は肩をすくめて答える。
「知らん。だが、殺されることはない。聖王国教会本部のどこかに閉じ込められているだろう」
その言葉を聞いて、私は胸を撫で下ろした。少なくとも命の危険はないということだろうか。けれど、次の言葉が私の安堵をすぐに吹き飛ばした。
「だが……あれの側近――ダリオンという男は処刑が決定した」
「え……」
頭の中が真っ白になった。私は口を開いたまま、言葉を紡ぐことができなかった。
ダリオンさんが処刑される? 私は必死に思考を巡らせた。ヴァリク様にとって、彼は恩人だ。ライラも彼を慕っていた。泣きじゃくるライラが、ダリオンさんを想うあの顔――幼子が心を寄せるような愛らしさと切なさに満ちたあの表情を思い返すと、胸が締め付けられた。
最後に「迎えに行く」と言っていたライラの声が頭の中で響いた。でも、それはもう叶わないのではないだろうか。ダリオンさんが処刑されてしまったら、ライラはどうなってしまうのだろうか。
視界が滲むような感覚に襲われ、私はかぶりを振った。そんなこと、信じたくなかった。
そのとき、レオンハルト殿下が目を伏せ、低い声で呟いた。
「……あれを助け出すことは叶わん……許せ」
その言葉は、彼自身への言い訳のようにも聞こえた。




