第八章
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どうしてこうなった。
本当なら長良川河川敷にいるはずなのに、どうして今、スカイラインに乗っているのだろう。
「付き合ってもらっちゃって悪いねぇ」
「そう思うんならせめてどこに行くのか教えてくださいよ」
華麗なハンドルさばきで大通りを曲がりながら文城さんはからから笑った。教えるつもりはないのか、この人。
「マネージャーさんはさ、連れて行くとうるさいからね。お目付役に君を指名しちゃったんだ。悪く思わないでよ」
「何で私なんですか……」
「いいじゃないか。今日は鵜飼いの撮影までオフなんだから」
「こっちにだって予定はあるんですけど」
「でも君なら僕を優先してくれるかなーって思って」
ああそうですか。私はもう何も言わない。今日は寝だめでもしようかと思っていたのに、とんだ誤算。
「さあ、もうすぐ着くよ」
大通りから細い道に入る。ぎりぎり対面できる道が一方通行じゃないなんて、本当に厄介。何台か向こう側から来た車をやり過ごし、文城さんのスカイラインはするすると走っていく。車体が大きいくせに妙にフットワークが軽い。文城さん本人のような車。よく手入れの行き届いた高級車。
「やっぱりね、車は国産がいいと思うんだ」
「私は乗れればそれで十分です」
「乗り心地とかそういうの、あるでしょう?」
「私、そういうの頓着しないんで」
いざとなればすさまじく揺れる船の中でも爆睡できる。そのくせベッドの上じゃあんまり眠れないこともある。繊細なんだか鈍感なんだか自分でもよく分からない。文城さんは苦笑しながら器用に細いカーブを曲がる。
「やぁ、着いた着いた。ここだよ」
「……………………えええええ」
これはまずい。非常にまずい。
聳え立つ四階建てのマンション。自動ドアの前にはパンジーの花壇、自動販売機。明るい玄関の向かって右に、事務室。
「……群青の空」
「ミサキちゃん、知ってるの?」
項垂れる私に脳天気な声が降ってくる。
知っているも何もここは私の可愛いユキちゃんがお勤めしている老人ホームじゃないか。
「どうして老人ホームに用があるんですか? 慰問ですか? ならマネージャーさんに連れられてきてくださいよ」
「え、ミサキちゃん、もしかして老人苦手なのかい? 駄目だよぉ、お年寄りは大切にしないと」
ちっがーう! 私は心の中で盛大に叫んだ。決して私はお年寄りに厳しい人じゃないし、むしろ優しい方だ。優先席は空いていても絶対座らないし、電車もバスもお年寄りには席を譲っちゃう。サロンに来る年輩の人にも丁寧に対応するし……ってそういうことを言っている場合じゃない。どうしよう。実は私たち、互いの仕事場を見るって機会が全くなかった。ユキちゃんの髪は私が自宅で切ってるからあの子がサロンに来ることなんてなかった。ましてユキちゃんの職場に私? ないないない本当にない。私の家族は兵庫にいるけど老人ホームに入るほどの歳じゃない。何よりも、私が来るだなんて予想もしていないユキちゃんがどういう反応するのかが一番怖い。あの子、怒ると無表情になるし、すごい棘のある言葉を吐くし、敬語とか使ってくるしでもう本当に怖い。そんなことも知らずにサプライズー! みたいなノリで私を連れてきた文城さんにもとばっちりが行きそうだ……。
ぐだぐだ考えていても仕方ない。腹をくくり、私はスカイラインから降りた。
「ちょうど向こうも着いたみたいだ」
「向こう?」
文城さんの指さす方から一人の女性が歩いてきた。白い日傘、薄紫色のブラウス、白のフレアスカート。優雅な貴婦人のような女性が手を振る文城さんに気づき、ぺこりと会釈した。
「ご無沙汰しております、逍悟さん」
綺麗な声。姿勢もいい。
「こちらこそだよ。たまにしかこっちに来てあげられないからね」
ふと目が合い、女性は私にも会釈した。つられて私はお辞儀をした。妙に格好の悪いお辞儀を。
「仕事の合間でね。マネージャー連れてくるのは気が引けたから、彼女、僕のお目付役」
「そうですか。ではこちらも女優さん?」
「いいえ、私はただのヘアメイクです」
「あら、そうなの? そうは見えないけれど……」
「まぁまぁいいじゃないか。立ち話には暑すぎるよ。中に入ろう」
文城さんに促され、私たちは中に入った。自動ドアをくぐればすぐに消毒液が目についた。アルコール液を手に拭きかけ塗りつける。来客用のスリッパに履き替えてようやく事務所の人に会釈をした。ガラス越しの景色ではこの初老の男が大御所俳優・文城逍悟だとは気づかないらしい。事務員らしく事務的に会釈を返しただけだった。
滑らかな引き戸を引けば、広々とした共同スペースが飛び込んできた。明るい日差しの差し込む、温かな場所。真夏の苛烈な太陽光もこのホームの中では穏やかな日だまりに変わるみたいだ。幾人かの居住者たちが私たちを見る。じろじろ無遠慮な視線を送るものもいれば、全く無関心なものもいる。文城さんと女性は気にすることなくエレベーターへと向かった。
「ここ、階段は職員さんしか使えないんだよね。ほら、危ないからさ」
前にユキちゃんも言っていた。もし利用者さんたちが階段から落ちたー、なんてことになったら困るから、階段室には厳重にオートロックがかかっているって。なるほど。話を聞いたときはあまりリアルな想像はできなかったけれども、初めてこういう場所を生で見て、私はやっと腑に落ちた。ぼんやりと虚空を眺める人、車椅子に座ったままの人、何かの管を体から生やしている人、体の一部がない人。夜中に何かあったら……うん、ぞっとする。
無機質な機械音を奏でながらエレベーターは三階へと上っていく。小さな箱の中は沈黙で満たされている。何となく重苦しい空気。
(……てかこの人、誰?)
未だどこの誰だか分からないご婦人にそっと目をやってみた。白い肌はどこか病的で、ベージュの口紅は彼女の不健康さを際立たせるようによそよそしい色合いをつける。チークもアイシャドウも塗られていない、平面的なメイク。年齢のよく分からない人だけれども、目元にくっきり刻まれた烏の足跡が生きてきた年月を語っている。
無言のままエレベーターは扉を開き、私たちをのろのろと吐き出す。私は意味もなく忍び足で三階へと下りた。
「すみません、こちらです」
女性は文城さんと私を奥へと案内した。適度な空調。うるさすぎないBGM。けれどもここは一階とは違って共同スペースには誰もいない。住人たちがひっそり息を潜めているかのように静かだった。時計を見ると午後三時。ユキちゃんの勤務表によると入浴時間だ。きょときょとと見渡しても、ユキちゃんらしき大きな影は見えない。ほっと胸を撫で下ろし、文城さんの後をついて行く。どん詰まりの西日の差し込む廊下。その南側の部屋を女性はノックした。神経質そうな、尖った音だ。
「入ります」
返事を待たず、彼女は扉を開けた。効き過ぎる冷房の冷気でさっと肌が粟立った。日当たりのいいはずの部屋の中、カーテンを閉め切り、老婆が一人ベッドの上で宙を見ていた。
彼女がカーテンを開けた。ぐっと飛び込んできた陽光に目が眩みそうになる。部屋は明るくなったが、老婆に注ぐ影はいっそう濃さを増したように思えた。
文城さんは怯むことなく老婆の元へ足を進めた。
「姐さん、お久しぶりです」
枯れ木のような老婆の手を取り、文城さんはベッドのそばに膝をついた。
「逍悟です。あなたに名前をもらった、兄やの弟分です」
覚えていませんか? 縋るように呟いても、老婆は鈍い光すら宿さない瞳で余所を見るばかりだった。文城さんは寂しそうに笑みを浮かべ、そっと立ち上がった。老婆は握りしめられた手を何もなかったかのようにだらりと落とした。
「ミサキちゃん、この人が誰だか分かるかい?」
私は首を振った。初めて訪れた場所で、何も知らされずに面会している私に、その老婆が誰だか分かるはずもない。
「この人は横峰蘭子。今はただのたつ子さんかな」
「……まさか!」
昨日の今日でこの展開。まさに御都合主義。三文芝居のクソ脚本。でも現実なんてそんなもの。小説やドラマよりもシリアスで、都合のいいことも悪いことも一緒くたに起こるのが現実世界のお約束のようなもの。私は軽い目眩のようなものを覚えながらも、何とか崩れずに立っていた。では、この女性は……。
「申し遅れました。横峰たつ子の娘で夢子と申します」
深々と頭を下げられても、私には何のことだか分からない。どうして私は今、ここにいるんだろう。深い理由なんてないんだろうけれども、妙に何かが引っかかる。
「蘭子姐さん、本当にぼけちゃったんだねぇ」
惜しむように文城さんはこぼした。
にわかには信じがたかった。ユキちゃんに話は聞いたものの、百聞は一見にしかず。よくよく注意深く見れば、映画『ディレッタント』の頃の面影がちらついた。
「本人……ですよね?」
「本人です。間違いありません」
娘の夢子さんが言った。改めて夢子さんを見ると、若かりし頃の横峰蘭子に似ていた。……と言っても、彼女もだいぶ年を取っているので何となくの感じだけの話かもしれない。けれども二人の間には確かな血縁関係の空気がまとわりついている。そんな気がする。
「僕はね、ミサキちゃん。蘭子姐さんの旦那の弟分だったんだよ。一緒の旅芸人一座にいてねぇ。僕は兄やの鞄持ちだった」
文城さんはあまり過去を語らない俳優だ。無名の旅芸人一座の出身だとは明かしていたが、詳しいことは知らない。
「兄やは蘭子姐さんと結婚して、僕は役者として独り立ちできた。蘭子姐さんもよくしてくれてねぇ。僕の名前は姐さんがつけてくれたんだ」
そういえばこの人も芸名を使っていたんだっけ。私は「文城逍悟」以外に、彼の名前を知らないけれど。
「姐さんは綺麗だったよ。つやつやの黒髪を粋に結い上げてさ、いつだってぴしっと背筋を伸ばしていた。その横に兄やが寄り添って。そりゃあ絵になったよ。二人とも顔もよかったし、演技も上手かったからね」
文城さんはゆっくり話した。別世界に意識を飛ばしている横峰蘭子こと横峰たつ子に聞かせるかのように。文城さんはぽつり、ぽつりと語り続けた。
「僕は二人に本当に世話になったんだ。食えないときには腹一杯食わせてもらったし、いくつか仕事ももらったこともある。居候もしていたなぁ。ねぇ、夢ちゃん」
「懐かしいですね。私が確か小学校に上がるくらいまで一緒に暮らしてました」
そうなんだ。
それにしても今、私っている意味あるの?
「その頃はもう姐さん女優を辞めちゃってたっけね。夢ちゃんも辛い思いしたねぇ」
「……そうですね。私が四つの時に辞めたので……」
夢子さんはそっと顔を撫でた。今まで気づかなかったけれど、眉のあたりに薄い傷跡がある。何かで切ったような、そんな傷だ。
「姐さん、仕事辞めて荒れてたから」
「……この人、私のせいで仕事を辞めたんだってことあるごとに言って……本当、あの頃はいいことなんて一個もなかった」
私は傷の由来を垣間見た気がした。
女優が女優を辞めたとき、現実と精神が分裂するかのような苦しみを味わう。それは一般的な仕事からの転職とは次元が違う。ある意味人生の大半を自分で否定し、これからの未来を自分で塵屑のように捨てるかのような、そんな錯覚。痛いほどよく分かる。そしてそれをぶつけられた――夢子さん。気の毒だとは思う一方で、私は横峰たつ子に対する親近感を覚えずにはいられなかった。
「私を身ごもった頃、父が外に女の人を作ってたって分かって……逍悟さんはもういなかったし……」
「すまなかったねぇ、夢ちゃん。僕もその頃から仕事が増え始めてて……って、言い訳にしかならないか」
私は老いた女優を見た。石のように動かない、固く、閉ざされた人間がそこにはいた。何かをぼそぼそ言っているようだけれども、それが言葉なのか、ただの声なのかも判然としない。誰にも向かわない言葉、誰にも向けられない言葉はわずかに泡のように浮かんでは、消える。枕カバーやシーツに吸い込まれるように、消える。
それでも文城さんは語りかけ続けた。
「姐さんは激しい気性の人だったけど、どこか浮世離れしててねぇ。どっちかってぇと兄やもそういう人だったからもう、周りは振り回されっぱなしさ」
兄や、と文城さんは何度も口にするけれど、私はその人を知らない。私以外の三人の、思い出に巣くうその人を、私だけが知らない。
「女優を辞めても姐さんは綺麗だった。けど姐さんは自分が歳食っていくのを認められなかったなぁ」
「だから父さんも余所に女を作っていたのよ。この人が醜くなっていくから……性根が……」
文城さんはたはは、と苦笑した。私はぎくりとした。身に覚えがありすぎる話に、背筋が寒くなる。
あの事件から数年間、私は荒れに荒れていた。世話をしに来た家族に当たり散らし、見舞いに来た友人たちに花束を投げつけた。その間に来た友人知人の結婚式の招待状や出産を知らせる年賀状の類はすべて破ってから燃やした。その挙げ句、顔の手術が終わるやいなや放浪を繰り返し、ついに実家とは絶縁状態、昔の友人たちも離れていった。ユキちゃんに出会うまで、本当にひどかった。
だから分かってしまう。「横峰蘭子」からただのたつ子に成り下がったときのあの絶望感。支えて欲しいときに支えて欲しい人が支えてくれない虚無感。辞めざるを得なかった原因に対する憤怒と憎悪。そして何より、それを抱く自信への果てしない嫌悪。あらゆる負の感情が心を埋め尽くし、自分が自分でなくなる。
――ああ、この人は私だ。ユキちゃんに出会わなかった私の姿だ。
私はユキちゃんという支えを手に入れた。ユキちゃんは一人で立てるほど強くなかったし、私は一人でなんて立ちたくなかった。お互いに依存し合って、どろどろに溶けて一つになりたいと思ったこともある。互いの過去をさらけ出して、それでも一緒にいたい、一緒にいさせて欲しいと泣いたこともある。
横峰たつ子は、それがなかったんだ。
過去に縛られ、過ぎていく人たちに叫んでいたんだ。
私はここにいる。
声が涸れても、涙が血に変わっても、彼女は叫び続けていたんだ。だから彼女に縋らざるを得ない夢子さんのことが、見えなかった。
しわくちゃの老婆が、私はひどく愛おしく思えた。
ふと夢子さんを見ると、憎らしさを隠そうともせず母を見つめていた。
皮肉なものだ。五歳で母親に殺されかけて死別したユキちゃんは、不思議と今でも「お母さん」と呼ぶのに、この人は横峰たつ子を「あの人」「この人」「母」と呼んでいる。生まれてから今までずっと一緒にいるのに。そんなものなのだろうか。私は母をよそ行きの言葉で「母」と呼ぶことはあっても、そこには何かしらの情、のようなものがあったと思う。ユキちゃんの「お母さん」にも、それはある。でもどうしてだろう。夢子さんの「母」に対する呼称にはそれが感じられない。無機質で、義務的な響きすら感じられる。けれどもそれを責めることなんてしない。それがこの人たちの親子の形であり、時間であり、結果だ。でも、それでもやっぱり皮肉を感じずにはいられない。私は努めて表情をなくして文城さんと夢子さんの言葉を聞いていた。
「姐さん、盛りで辞めちまったからねぇ。未練もあっただろうよ」
文城さんは始終苦笑いしっぱなしだ。そりゃ楽しい話題でもない。ただの苦み走った思い出話だから仕方ないのだろうけど。
「それにカムバックしたいって思ってたからねぇ。……叶わなかったけど」
「冗談じゃなくあの人、老けましたから。ひどい崩れようでしたよ。本当に……」
そしてまた眉のあたりを撫でた。
「それでもこの人、化粧品やらサプリメントやらにどんどんお金つぎ込んで……認知症だって分かる少し前に何十万もする美顔器買って……。クーリングオフまでしましたよ」
夢子さんは溜息混じりにこぼした。いくつになっても女は女。女優はより女のまま。私が気にしているのは火傷が目立たないことだけど、顔を気にしているっていうレベルでは同じかもしれない。普通の人より、やっぱり気にしている。未だに。美容師という職業柄そうなっているだけだと思いたいけれども……。
「姐さんはやっぱり姐さんだよ。いくつになっても、どんな風になっても……」
文城さんは再び横峰たつ子の手を取った。子猫の背中でも撫でるように、優しく甲をさする。
「よぉ、姐さんよぉ。ほんっとうに僕のこと、覚えてないかい?」
再び同じ台詞を繰り返す。
「一緒に映画にも出たじゃないか。ほら、『ディレッタント』だよ、姐さん」
ぴく、
枯れ枝のような指が動いた。文城さんと夢子さんが顔を見合わせた。
「覚えているかい!? 兄やと、姐さんと、僕とで共演した、最初で最後の映画だよ! 姐さんが自分でアヴェ・マリア唄うってきかなかった映画! 今度リメイクするんだ。当時僕は丁稚役だったけどよぉ、今度は誠一郎の叔父の役だ。姐さんが演った静音を口説く悪い男をやるんだ」
からからに乾ききった老婆の唇が震える。
夢子さんが目を見開いてそれを見ている。信じられない光景を見るかのように。
文城さんは畳みかけるように語りかけた。
「姐さんは綺麗だった。体にぴったり合ったドレス着て、赤い天鵞絨の階段をゆっくり下りてくる姐さんは本当に綺麗だった。島田に結い上げて大島を着た姐さんは凛としてた。兄やに冷たくあたる姐さんは本当に怖かったなぁ」
かたかたと老婆の体が震える。骨が音を鳴らしているように痩せた音がする。
ひゅう、と喉が鳴った。
言葉が、声が、空気を震わせる気配がする。
じ、と固唾を飲んで見守る。
誰かが喉を鳴らした。
もしかしたら私かもしれない。
「……………………しょう………………ご…………………………」
かすかな声だった。
聞こえるか聞こえないかの、蚊の鳴くような声だった。それでも確かに、確かに彼女は「逍悟」と呼んだ。
「そうだよ! 逍悟だよ! 姐さんがつけてくれた名前だ。ああ、思い出してくれたかい? 姐さん、もっと呼んでくれよ」
文城さんは何度も何度も「姐さん」と呼んだ。手を握りしめ、涙ながらに訴えた。
「久しぶりだねぇ、姐さん。僕も姐さんも歳食っちまったけど、分かってくれたんだねぇ。嬉しいよ、本当に」
あ、あああ、
老人は掠れた声で不明瞭な言葉を紡ぎ始めた。
「……どうしたの?」
夢子さんが顔を覗き込んだ。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
叫声が
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ! あああああああああああああああああああああ! あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
鳴り止むことなく部屋を、廊下を、フロアを、縦横無尽に駆け巡る。
「どうしたのねぇどうしたっていうのよ!?」
「姐さん! おい姐さん!!」
「ああ! しょうご……ああああたしなんてばかをしちまったんだ……ああああああどうしたらいいんだい? ねえどうしたら……」
「姐さん? 姐さんが何をしたってんだよ?」
「あああああああたしがわるいんだよあのひとがあんなおんなのところにいっちまうのがくやしくてくやしくてくやしくてあのひとをとりもどしたくてのぞんでもいやしなかったのにあのひとはなのにあたしがばかだったから」
「姐さん止めとくれよ! 夢ちゃんがいるんだぜ!?」
「ゆめこはうまれてきちゃいけなかったんだよこのこがいたからあのひとはこっちにもどってきたけどむこうがあああああんなことになるなんてあたしゃおもいもしなかったんだよ」
「生まれてきちゃいけなかったって何よ? やっぱり私はいらない子供だったのね!? だったらなんで私なんか妊娠したりしたのよねぇなんでよ! 何とか言ってみなさいよ!」
「夢ちゃんも落ち着いて!」
「あのひとはゆめこをかわいがってくれたけどそれもやっぱりむこうにおいめがあったからでああああああのひともゆめこもくるしんだのにあたしはあああああああああたしはどうにもできなくてええええええあああああああああああああああああああああああああゆるしとくれよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
ここは一体何の部屋なんだ?
老婆の嘆きに娘の金切り声。なすすべもなく、ただ止めてくれと叫ぶ老人。無力な私。
獣のような咆哮が響く中、私はベッドに置かれたナースコールを押した。老人ホームも病院も同じような設備だってユキちゃんが言っていたのを覚えていてよかった。すぐに通じた。私は悲鳴のような声にかき消されないよう大声で言った。
「誰か来てください! 早く!」
向こうの声は聞こえない。けれども響き渡るこの声に気づかないわけがない。すぐに足音が聞こえてきた。
「どうしましたか!?」
駆け込んできたのは白衣の看護師と医者だった。ここの施設に常駐しているのだろう。叫び続ける横峰たつ子をなだめる看護師、事情を説明する文城さん。なぜか誤り続ける夢子さん。何か鎮静剤のような薬を打つ医者。私は映画の撮影を見ているようだった。メイクとして撮影を見ている、あの感じだ。私は蚊帳の外。あちら側だけ忙しなく囂しく時間が動いている。スクリーンの向こう側。私だけ客席。観衆の位置。溜息が出るほど滑稽だ。
どうにかこうにか落ち着きを取り戻し、眠りについた横峰たつ子を横目に、私たちはなぜか医者に頭を下げていた。私、別に身内でも何でもないのに。可笑しい。
「どうぞお大事に」
お決まりの文句を言って、医者と看護師は部屋から出て行った。扉が閉まると同時に深い息を吐き、夢子さんが謝った。
「せっかく逍悟さんに来ていただいたのにこんなことになって……申し訳ありません」
「いいや、僕が軽率だったんだよ。……悪かったねぇ」
夢子さんは黙って首を振った。
「私が両親に望まれて生まれてきたんじゃないってことは幼い頃から薄々分かっていたことですから。……はっきり言われると、やっぱり……傷つきますね……」
私はただ無言で立ち竦んでいた。私にはこの人たちにかける言葉がない。一つも、ない。
「でも兄やは夢ちゃんをうんと可愛がってくれたじゃないか」
「それもあの人が言ったとおり、捨てた愛人に対する贖罪のつもりだったんでしょう。詳しいことは私は知りませんけど、父に別の人がいたことは知っていましたから……」
夢子さんは腹立たしげに吐き捨てた。穢らわしい、と小さく呟いて。
とんとん、
遠慮がちなノックが二人の不穏な会話を打ち切った。
「失礼いたします。横峰たつ子さんの担当をしています水埜と申します」
げ。
こ、れ、は、ま、ず、い。
静かに引き戸を開けて入ってきたのは私が想像したとおりの人で。
この中の誰よりも背が高くて。
この中の誰よりも髪が黒くて。
この中の誰よりも私の知っている。
「…………………………なんで?」
「………………やぁ」
――ユキちゃん。
鳩が豆鉄砲を食ったような顔ってこんな顔なんだなぁ……とぼんやり思ってしまった。
「三枝さん、水埜さんとお知り合いなんですか?」
小さな声のやりとりを聞いていた夢子さんが尋ねてきた。結構耳聡いな、この人。
「ええ、友達なんです。ね、ユキちゃん」
あえていつもの呼び方で呼んでみる。しかし急なことに対応できていないユキちゃんはまだわなわなと震えていた。
「突然だったからびっくりしちゃったんだよね、ユキちゃん」
とん、と軽く肘で脇腹をつついてやった。ユキちゃんはすぐに開いた口をふさいで文城さんと夢子さんに挨拶をした。
「遅くなってしまい申し訳ありません。入浴介助に回っていたもので……。たつ子さんが大変なときに担当がいないということになってしまい、本当に申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げるユキちゃん。私は華麗にスルーされた。しかしこういう場面を見ると、あー仕事をしている人だなー……なんて思っちゃう。丁寧な言葉遣い、きちんとしたお辞儀。この子ってこういう顔するんだなぁって、結構長いこと一緒にいて初めて知った。
「横峰さんこそ、ミサキさんとお知り合いだったんですか?」
やだ、この子すっごい愛想笑いしてる! 腹が捩れるほど笑いたいんだけれども、ここは笑っちゃいけない場面だ。絶対そうだ。私は頬の内側の肉を噛んで笑いを耐えた。
「あ、いえ。私じゃなくてこちらの知人がお連れしたんです。ねぇ、逍悟さ……?」
夢子さんが怪訝な顔をした。つられて私とユキちゃんも文城さんの方を見た。
「どうかなさったんですか、逍悟さん? 顔色が……」
「……………………なんてこった」
「え」
「アンタ……名前は?」
文城さんがユキちゃんに近づいていく。足はふらつき、視点が揺れている。ユキちゃんはつ、と後ずさりをしたが、
「水埜……ユキです」
と答えた。
「ミズノ……水の野っぱらじゃなくてこう……難しい方かい?」
「はい。水と、林の下に土の埜で水埜です」
「お母さんの名前は?」
「サチです。…………それが何か?」
――やっぱり。
そう呟いて文城さんはふらふらと傍にあった椅子に崩れ落ちた。
「兄やよぉ、いくら何でもこりゃ皮肉すぎるだろう……」
独りごちて、文城さんは溜息をついた。息を吐き出しているのに、どこか何かが詰まっているような溜息。膝に肘をつき、両の手で顔を覆ったまま、文城さんは詰まった溜息をまたついた。
穏やかな昼下がり、規則的な寝息と時計の針だけが、部屋の中に響いていた。