第九章
9
応接室には私とミサキさん、そして私を見て血相を変えたあの男性がいる。夢子さんはたつ子さんの容態がどうなるか分からないから、と言って残ってもらっていた。これもこの初老の男性が言ったのだけど。てかこの人、どっかで見たことあるな……。
「突然すまないねぇ。こんな部屋まで用意してもらっちゃって……」
つい昨日聞いたような台詞だな。
「別に構いません。本当に……」
なぜだかぶっきらぼうに答えてしまった。愛想笑いに疲れたのかな?
違う。私は気になっているんだ。この人が知っている何かが。
そして疑っている。この人が、何を知っているのだ、と。私は私を知っている。それで十分なのに、この人は私に何を足そうとしているんだろう。私はそれが、気になっているし、気にくわないんだ。
「ユキちゃん、この人はね……」
「ああ、ミサキちゃん、いいんだ。自分で言うよ」
皺だらけで骨張った手がミサキさんを遮った。
「僕は文城逍悟っていうしがない役者です。初めまして、水埜ユキさん」
「ぶんじょうしょうご……ってあの俳優の? ミサキさんの大先輩の? 納豆にこだわりのある舅さんの?」
「この子、面白いこと言うねぇ、ミサキちゃん」
「そう。その文城さん」
「うそぉ……」
有名人を生で見たのって初めてだ。よく見たら本当にテレビやミサキさんの持ってる映画のDVDに出てくるあの人だ。
「でも、そんな人がどうして私を……?」
その後の言葉が思いつかず、うやむやに消えていった。
「……これ、見てくれるかい?」
文城逍悟はシャツのポケットを探り、カードケースを取り出した。そして一枚の写真をテーブルに置いた。折れ線のついた、セピア色のモノクロ写真。
「……え?」
それはどこにでもありそうな写真だった。一組の男女。何かの記念に撮ったのだろうか。知らない男と、知らない女。けれどもどこか、見覚えのある顔のような気がする。
「ここに写っている女性は君のおばあさん。そしてこっちの人が、おじいさんに当たる人だ」
淡々と彼は言った。
「そしておじいさんの名前は浮舟雪之丞。僕の兄貴分で、もう亡くなった横峰たつ子の夫だ」
――意味が分からない。
突然の告白は私の頭をぐるりと回ることなく右から左へ流れていった。
「本名は佐橋雪雄。君のお母さんのサチさんの実の父親だ」
私は写真を見た。見覚えのある顔は確かに私の顔に似ていた。映像で見るよりもはっきり、私は浮舟雪之丞にそっくりだった。
「メイクしてないとすんごいよく似てる。……ちょっとつった目とか、そっくり。鼻筋だってユキちゃん同じくらい通ってるよ」
「君を見た時、本当に驚いたよ。若い頃の兄やに本当に瓜二つだ。まだ映画に出る前の、旅芸人をしてた頃の兄やに……」
何も言わず、私は写真を凝視していた。私の祖父だという浮舟雪之丞はどこか寂しげな笑顔を浮かべ、母と祖母だという人たちと写っていた。私は祖母の顔など見たことはない。母の小さい頃の写真だって、見たことがなかった。なのにどうしてだろう。私はこの写真に懐かしさを感じた。それはセピア色の背景のせいだろうか、単色のせいだろうか。でも、それにしても、私はこの写真が愛おしい。訳もなく、愛おしい、と思えた。それこそが血の証明のような気がして、私の頭は余計にこんがらがった。
「なんで……」
「兄やの、姐さん以外の女……浮気相手ってのが、この水埜カヨさん。アンタのおばあさんだ」
指さされた女性を見る。質素な着物に身を包んだ、細面の女性。少し痩せ気味なのが、自分によく似ている。
「蘭子姐さんが芸名通り蘭の花なら、カヨさんは野辺の花だった。兄やは白詰草のような人だって言っていたよ」
白詰草。クローバーの花。母が買ってくれた、四つ葉のクローバーのヘアピン。ああ、そういえば母はクローバーが好きだった。
「兄やはどこで出会ったのか知らないが、カヨさんの元へ足繁く通っててねぇ。姐さんが腹を立てたのも無理はねぇって位だった」
「ちょっと待ってください」
思い出した。
「私が母に聞いていた話と違う気がしてならないんですけど、」
最近見た夢のおかげだろうか。私は妙な食い違いが引っかかった。
「その……カヨさんという私の祖母が、本妻じゃあないんですか? 私はずっとそう聞かされてきました。母の父、祖父は祖母を捨てて、子供のできた愛人の元へ走った……そう聞かされてきました」
文城さんは面食らったような顔をした。けれどもすぐに手を顎に当て、深く思案した。
「……そいつは事実とは違う。たぶん、カヨさんが、アンタのお母さんが妾腹の子だってことを隠しておきたかったからついた嘘じゃねぇかな? もしくは、アンタのお母さんが事実を認めたくなくってそう言ったか……。どっちにしろ、それは事実じゃねぇよ。どっかで話があべこべになっちまってるな」
にわかには信じられなかった。けれどもそんなことは些細なこと。どうだっていい。本妻だの妾腹だの、孫世代に当たる私にとってはどうだっていい。
「これから僕が知っている限りの真実をアンタに話そうと思う。知りたくないって言うなら、このまま帰るが……。どうだい?」
ここまで話しておいてそういう聞き方をするのは、ずるい。
ふ、とミサキさんに目線をやる。
――なんて顔してるんだよ、この人は。
私よりも泣きそうな顔してるじゃないか。ああ、心配させてるなぁ。愛されてるなぁ、私。この人がいれば、私、本当にどうなったっていいや。
「お願いします。話してください」
私は隣に座るミサキさんの手を握って、答えた。
「兄やは綺麗な人だった」
文城さんは最初にそう言った。
「まだ兄やが旅芸人だった頃から知っているが、あの人ほど綺麗な人はいなかった。
僕も兄やも風花一座って一座の、役者たちの子供でねぇ。まぁ大変だったよ。まともな学はないし、次々回らなきゃいけねぇしで休まることがなかったからねぇ。でも、それが当たり前だった。特に兄やは僕たちの一座の座長の子だったからねぇ。小さい頃から舞台に立って、芝居だの歌だの踊りだのって稽古稽古稽古の毎日さ。僕はまだマシだったよ。両親は僕が生まれてすぐに裏方に回ってねぇ。僕は子役として舞台に出たけど、それほど厳しい稽古はなかった。兄やはなんてったってやっぱぁ座長の子だからねぇ、無理していたと思うよ。でも兄やは愚痴一つこぼさなかった。それどころか誰よりも上手くなっちまって、十三で花形役者になったよ。
兄やは生まれつき顔立ちもよくって、今で言うほら、イケメンってヤツだったよ。女形をやってたからかねぇ。艶があって、普段の仕草も指先までぴん、と神経通ってて……凛としていた。すっぴんで歩いていたって男が振り向くくらいの色男だったからかねぇ、女は余計に放っておかなかったさ。特に、姐さんの兄やに対する執着は半端じゃあなかった。姐さんと兄やは『ディレッタント』……は、知っているね? それで初共演だったんだが、まあ凄かった。二人は夫婦の役だったんだけど、端で見ていても本当の夫婦のようで……いやあそれ以上だったかな。とにかく姐さんが一方的に兄やに好意を寄せているのがありありと分かったよ。毎日のように弁当こさえてきたりね、手ぬぐいなんか渡したり。あの人、てんで不器用なくせに手ぬぐいに刺繍なんざしてみたりね。かいがいしくやってたんだよ。兄やもそれが可愛かったんだろうねぇ。すぐに姐さんの気持ちを汲んでやったって訳さ。映画の公開と同じ日に籍を入れてねぇ。兄やは旅芸人一座から独立して日が浅かったからまだ貧乏で、姐さんも同じくらい貧乏で、式なんて挙げられなかったんで、兄やの鞄持ちしながら仕事してた僕と三人でちょっといい酒で乾杯した程度だったんだよ。
それからが大変だった。誠一郎と静音が本当に結婚しちまったってことで映画が予想以上に大ヒットしてねぇ。丁稚役だった僕にまでどんどん仕事が来るようになった。だから言うまでもないけど二人はもっともっと仕事をこなさなきゃあならなくなった。姐さんは劇中で唄ったアヴェ・マリアが評判になってレコードも出した。ラジオにも引っ張りだこで、兄やはっていうと舞台の仕事ばかりが増えていってほとんど二人の時間はなくなっていった。僕はその頃二人の借家にお世話になってたんだけど、やっぱり兄やとの仕事の方が多かった。ほとんどが地方回りの旅芸人と変わらない生活だったよ。それでも兄やは綺麗だったし、姐さんも輝いていた。それでよかったんだよ。
だけどある日、兄やと僕が長野を回った時だった。兄やは僕を置いて夜出かけることが多かった。どこを回ってもそんなことはなかったのに、長野に来ると兄やは出かけていった。もう分かるだろう? カヨさんに会っていたんだ。二人がどういうわけでどういう風に出会ったのか、僕は一切知らない。けれども長野に来た時の兄やはいつもよりどこかほっとしていたんだ。毎日のように移動を繰り返すってのは本当に厳しいもんだよ。なじんだと思ったら次の場所、次の国って……故郷がどこだったかも分からなくなるくらいだ。そんな中で、兄やはカヨさんに出会ったんだ。
僕は一人東京に残っていた蘭子姐さんに悪いだろう、と兄やを詰ったことがあった。すると兄やは黙って宿を出たんだ。僕を連れてね。僕と兄やは通ったこともない道を歩いて、商店街を抜けて、ぼろっちい長屋に来た。長屋の入り口から三番目。そこにカヨさんが住んでいた。お父さんを戦争で亡くして、病気のお母さんを先月看取ったんだとカヨさんは言った。そこで兄やは飯を食ってたんだ。なんてこたない、普通の飯さ。里芋の煮たヤツに野沢菜漬け、大根の味噌汁に麦飯だったかな。兄やは飯食って、茶ぁ飲んで、
「おい、逍悟。蘭子の飯よりうまいぞ」
なんて言いやがった。僕は姐さんにちょいと恋心……なんてもんじゃねえな、年上の女の人に対する憧れみたいなもんを持ってたもんだから兄やをこう、ぶん殴ってや…………ろうと、思ったけど殴れなかった。役者の商売道具の顔を殴るわけにもいかねぇし、何より、兄やとカヨさんが幸せそうだったからかな? 姐さんと兄やの夫婦はスクリーンの上の夫婦みたいだったけど、カヨさんと兄やは……懐かしい夫婦だった。昔々見た、おとっつあんとおっかさんみたいだった。本当は殴ってやろうと思ったのに、ああ、兄や、こりゃしかたねぇな。なんて言っちまったんだ。
兄やに聞いたことがあるんだ。どうして蘭子姐さんと結婚したのにカヨさんと会うんだって。そしたら兄やのヤツ、
「おまえ、そりゃ俺にだって分からねぇよ。気づいたら俺はカヨに惚れてたんだ。蘭子が俺に惚れたのと同じだろう。ただな、俺は蘭子といると浮舟雪之丞なんだが、カヨといると俺は佐橋雪雄になれるんだよ。おまえ、これが分かるか?」
当時の僕にはなんだかよく分からなかったけれど、今なら分かるよ。兄やはただの人になりたかったんだって。女形でも役者でもない、ただの雪雄に戻りたかったんだって。だから僕はやっぱり「ああ、兄や、こりゃしかたねぇな」としか、未だに言えないんだ。
それから兄やには東京の仕事が増えてきた。けれども最低でも月一度は長野のカヨさんとこに通っていったよ。東京の土産とか持ってね。僕もたまにそれに付き合った。カヨさんは喜んで飯作ってくれたよ。そんで、僕だけその日のうちに帰されたりしてね。これは僕と兄やだけの秘密だった。姐さんになんて話してなかった。けど女の人ってぇのは鋭いねぇ。姐さんは兄やの浮気に気づいて、僕を問いただしにかかった。直接兄やに聞いてもはぐらかされてお仕舞いだって分かってたからねぇ。どんなに揺さぶられても、小突かれても僕は吐かなかった。けどそれがいけなかった。笑い飛ばしとけばよかったって今でも後悔するよ。僕の態度で、姐さんは兄やへの疑惑を確信に変えたんだからね。
僕がカヨさんと初めて会ってから半年くらいだったかな。姐さんが妊娠したんだ。その話を聞いた時、兄やはただ一言、「そうか」とだけ言って、俯いた。
兄やは知っていたんだ。姐さんが兄やへの腹いせに不貞を働いたことを。兄やは姐さんと別れてカヨさんと一緒になるつもりだったからね。きっぱり役者も辞めて、二人で静かに生きていこうと決めていたそうだから。だから兄やは姐さんが妊娠するようなことをしていない。完全に潔白だった。……ああ、姐さんの相手は僕じゃあない。僕だったらむしろ早く別れられただろう。兄やは僕も姐さんも切り捨てていくつもりだっただろうからね。そう、ここに夢ちゃんを来させなかったのはそういうことさ。あの子は自分が浮舟雪之丞の娘だと信じて疑わない。あの子には本妻の子っていう妙な自負があるんだ。そうやって正当性を保ってないとあの子は崩れてしまうからね。あの子が真実を知っていようが知らなかろうが、僕の口からそれをあの子に伝えることはできない。言葉はそれくらい重いからね。
それから何日か後に、兄やは一度、僕を伴って長野に行った。僕は長屋の外で待っていたんだけど、中の声は結構聞こえてきた。
「蘭子にあそこまでさせてしまったのは俺の罪だ。すまない」
兄やの謝る声が聞こえた。カヨさんの声は小さすぎてよくは聞こえなかったけれど、あの人も謝っていたよ。
兄やは優しかったけれど残酷な人だった。兄やが選んだのは、蘭子姐さんの愛に報いることだった。選んだ行為が報いる行為かと聞かれたら答えに困るだろうけど、兄やは蘭子姐さんがどっかの男と作った子供を、愛することに決めたんだ。夢ちゃんは姐さんには愛されなかったかもしれないが、確かに兄やに愛されていた。あの人は昔っから子供が好きだったからねぇ。僕みたいな不出来なヤツを弟分だと言って可愛がってくれたのも、あの人の懐の深さってヤツだろうな。それにあの人は根っからの役者だった。姐さんと添い遂げるってことは、生涯浮舟雪之丞として生きると決めたってことだ。いつだってあの人はよき父親の役を演じていたよ。それを悟らせないようにね。演技を演技でないと思わせた方が、実生活では勝ちなんだってよ。兄やは苦しげに言ったことがあったな。
……さて、こっから先は、兄やの知らない真実だ。
僕は兄やに言われて定期的にカヨさんの元を訪れていたんだ。ちょっとのお金を持ってね。カヨさんは幸い学のある人だったから紡績工場の経理をしていて収入には困っていなかった。けれども兄やは気が済まなかったんだろうねぇ。僕にお金を渡して、長野に遣わせてたよ。そしてある日、カヨさんは僕を家に上げてこう言った。
「私は今、妊娠しています。お察しの通り、あの人の子供です」
僕はびっくりしたよ。姐さんの妊娠と同じ時期に、カヨさんも妊娠していたなんてね。本当に運命ってヤツは皮肉だよ。兄やが偽りの家族を演じに戻ったっていうのに、こっちには本物の家族があるんだ。
「兄やに伝えましょう。すぐにでも」
そう言ったら、彼女は静かに首を振ったんだ。
「この子のことは、あの人には伝えないでください。雪雄さんは優しい人だから、きっと今よりずっと苦しむはずです。私のことなら心配しないでください。一人でやっていけるだけの蓄えもあります。ですから逍悟さん、どうかあの人にだけは伝えないでください」
カヨさんはそう言って膨らみかけたお腹を抱えて僕に頭を下げた。よしてくれって僕は言った。けれど彼女はずっとお願いします、お願いしますって頭を畳に打ち付け続けた。もう僕は分かりましたと言うしかなかったよ。僕は兄やにも言えない秘密を抱えてしまった。長野からの帰りの足は本当に重くってね。しばらく仕事を休んじまったくらいさ。
それからしばらくして、カヨさんは行方をくらました。どこに行っちまったのかさっぱり分からなかった。最後の便りは出産を知らせる電報で、カタカナで「ジョジ シュッサン サチ ト ナヅケル」ってだけだった。それもどこから届いたのか分からなくしてあったけどね。それ以来、全く便りがなかった。
僕も兄やも、姐さんでさえも忘れるくらい長い年月が経ったんだろうね。僕らの会話にその頃の話が出ることはなかった。酒が入っても兄やはカヨさんのことを口にしなくなっていった。
けど事件が起こった。
そう、ユキさん。君と君の母親の事件だ。あれは結構大きな記事になった事件で、新聞に何日も取り沙汰されるわ週刊誌は賑わうわで大変だったねぇ。あの事件がテレビで報道された日、僕と兄やは一緒にいた。あれから二十七年が経っていた頃だ。兄やは芸能界を引退し、もうすぐ還暦って頃だった。久しぶりに僕らは一緒に食事をしていて、うらぶれた定食屋の古いテレビを見ていたんだ。緊急速報みたいな形だったかな。お昼の番組に割って入ったニュースだった。五歳の女の子が家に監禁されているところを救出されたって。そんで置き去りにした母親の顔と名前が出た。それを見て、兄やは凍り付いた。血の気が引くって言うけれど、本当に引くんだよ。真っ青になるんだ。長野県の、水埜サチって出た時の兄やの顔。あれは忘れられない。何十年も経った罪を、まざまざと見せつけられた人間ってのは、白く変わった煙草の灰みたいなもんさ。少しつつけば崩れていきそうだった。
兄やはサチさんが生まれたことを知らなかった。けれどもすぐに分かったんだろう。それがカヨさんと自分の子供の顔で、置き去りにされていたのが自分の孫だって。サチさんはカヨさんにそっくりだった。その時兄やはすぐに悟ったんだよ。自分が犯した罪がどんなに酷いものかってことを。
それからすぐに兄やは君を探した。けれども大きな事件になっちゃったからねぇ。警察は得体の知れない男を信用して話してくれるほど甘くはなかった。結局君がどこに行ってしまったのか、兄やは知ることができなかった。そんでその翌年にスキルス性胃がんであっさり死んじまった。最後の最後に兄やは言ったよ。
「あの世でカヨに頭下げてくらぁ」
ってさ。全くやんなっちまうよ。今までずっと浮舟雪之丞でいたのに、最期の最期にあの人は佐橋雪雄に戻っちまった。本当に、かっこいい人だよ、兄やは。いろいろ間違っちまった人生だったけれど、兄やは兄やの人生を精一杯生き抜いた。それだけは変わらないよ。
兄やが死んだ後、遺品を整理していた姐さんが事実を知ってしまった。兄やは吐き出せない思いをずっと日記に書き綴っていたんだ。カヨさんの名前も出さなかったあの人が、一人文机に向かって日記を書いているのを思うと、僕は本当に辛くなる。その日記には君の新聞記事のスクラップもあってねぇ。そんで姐さんは自分がどんなに馬鹿なことをしでかしたかようやっと悟ったみたいだった。けれども姐さんは君を探すことはしなかった。きっと怖かったんだろうな。自分の罪が、こうやって形をなして目の前に現れるようで。あの人はそういう人だ。臆病なんだよ」
「僕が知っているのは、こんなもんだ」
そう言い終えて、文城さんはお茶を啜った。
私は使わない頭をフル回転させて話を聞いていたけれども、なんだか現実離れしすぎていて本当に自分の身の上に起きた話なんだろうかと疑問すら抱いてしまった。
とりあえず分かったのは、母が私に言い含めていたことには多少誤解があったくらいのことだ。けれども母が口を酸っぱくして言い聞かせた「男はろくでもないもの」という定義を覆すことは、なかった。
「……たつ子さんは私にだけ言う言葉があるんです」
知らず、言葉が私の口をついて出た。
「殺してください殺してください。あなたに殺されるなら私は本望です」
文城さんが息をのんだ。
「これ、たつ子さんがまだ女優だった頃に『ディレッタント』で言った台詞なんだって、ミサキさんに教えてもらいました」
私はどうしてこんなことを言おうとしているのだろう。自分の気持ちも分からないまま、私は文城さんに疑問をぶつけた。
「彼女はどうして、私にこんなことを言うんでしょう?」
あまり現実味のない自分の身の上話よりも、今が気になる私。おもしろみのない人間だ。悲劇のヒロインみたいにここで泣き崩れでもしたらウケるだろうか? ……馬鹿馬鹿しい。可愛げのないところが私の特徴なんだから、仕方ない。
「……今の姐さんが、一体何を見て何を思って何を考えているのかは僕にはもう分からない」
文城さんは私の目を見て言った。この人は一度も目を泳がせない。話しづらい話なのに、どうしてこの人はこんなに真摯に話してくれるのだろう。私のどうでもいい疑問を介すことなく、文城さんは続けた。
「けれど君に申し訳ないと思っていることだけは確かだ。それがその言葉になったんじゃないかと、僕は思う」
「ユキちゃんを、浮舟雪之丞だと間違えているってことは……?」
「……分からない」
文城さんは迷った。ミサキさんも文城さんも理想の答えが否定されることを厭わない。たとえそれが残酷であろうとも。この人たちは、本当に優しい人だと思った。だから妥協しない。容赦しない。嘘で癒やされる心があっても、後に沸き上がる疑念を抑える力はない。
「けれど今日、蘭子姐さんの叫びを聞いて僕は確信した」
叫び?
私のいない間の騒動だろうか。
「姐さんは言ったよ。許しておくれって。僕の知る限りじゃあ蘭子姐さんは人に許しを乞えるような軽いプライドの持ち主じゃねぇんだ。不遜で、高慢ちきで、孤高の女性だった。そんな性格が年取ったからって変わると思うかい?そんな人が、泣きながら許しを乞うんだ。だから僕は、蘭子姐さんが君に済まないと思っているからあの台詞を言うんだと、信じたい」
私は横峰たつ子という人の人生を知らない。つい最近、映画の中のあの人を見ただけで。でも文城さんが言うような性格は、何となく分かった。その人が、泣いて、私に言う。「殺してください」……そう言う。
私は目を閉じた。
「ユキちゃん?」
気づけば私は立ち上がっていた。応接室の扉を乱暴に開け放ち、大股でフロアの角を目指して歩いた。後ろでミサキさんが読んでいる気がする。でも私の足は止まらない。ヘルパーステーションでも誰かが呼んだ。けれども私は振り向かない。拳を握りしめて、私は闊歩する。こんな気分になったのは生まれて初めてかもしれない。今までたいした感情の起伏もなく生きてきた私が今、言いようのない感情に突き動かされている。衝動。まさにそんな感じだ。血が頭に上っているのかもしれない。手が震える。足がいつも以上に速く進む。いつか観た怪獣映画のようだ。怒りに狂った怪獣が街で破壊の限りを尽くす。今ならなんかビームとか衝撃波とかそういうの、出そうな気がする。
そして私はたつ子さんの部屋に入った。夢子さんが驚いた顔をしたかもしれない。でも私の意識には入ってこない。夢子さんが何か言っているかもしれない。けれども私の耳には届かない。
私はベッドの横に立った。たつ子さんはまだ夢の世界の住人だ。私の言葉はきっと彼女に届かない。それでも私は口を開いた。
「私はあなたを許すことはできません」
後から追いついてきたミサキさんと文城さんが入る音がした。ようやく私の意識が、円のように広がっていくのを感じながら、それでも私は言い続けた。
「だって私は誰も恨んだことなんてなかったから。恨んでもない、憎んでもいない人のことを、一体どうやって許せと言うんですか。土台無理な話ですよ」
声が震える。
こういうとき、たぶん「わなわな」とかいう言葉で表現されるんだろうな。私の頭がどんどん冷静さを取り戻していく。針が静かにいつもの位置に戻る。
「だから私には、あなたを許す理由も、殺す理由もないんです」
私の声が静かに響いて、消えた。
「あなたがとった行動で、お母さんが私を捨てたわけじゃない。お母さんは自分が父親に捨てられたから私を捨てたんじゃない。そこに因果関係なんてないんですよ。たとえお母さんが父親に捨てられていなかったとしても、私は捨てられたかもしれない。というよりそうだったら私ってきっと今、ここに生きていないでしょ? 何勝手に人の人生まで背負い込んでややこしく生きちゃったんですか。もったいない」
「いや、もったいないって……」
ミサキさんのツッコミが入った。
「けど実際もったいないでしょう? せっかく生きて長生きしてるのに人生の大半をつまんなく過ごすなんて、もったいない。人生はリサイクルも何もできないのに」
「リサイクルて」
そこは笑うところじゃないぞ、ミサキさん。
「私は生きていてよかった」
最低な幼少期。お母さんに殺されかけた幼い私。
「だって今、こうして生きているだけで、幸せだって思えるから」
松永さんに助けられ、マリア慈童苑に引き取られた。私を探そうとしてくれた人がいた。ついていない人生だけど、私は生きている。
「殺されかけても、鞭で叩かれても、レイプされても私は生きてる方が幸せ。おいしいご飯食べて、お菓子食べて、大切な人と一緒にいられる。それだけで十分です。一瞬でもその瞬間があれば、私、十分幸せです」
一粒、涙が落ちた。
それから堰を切ったように一粒、また一粒と次々落ちて、たつ子さんの布団を濡らしていった。
「だから殺してくださいなんて言わないで……。これからでいい。あと数年でも構わない。せっかくの人生、大事に生きてください……」
私は泣いた。
大きな声を出して泣いた。まだ夢の中にいるたつ子さんに覆い被さって泣いた。こんなに泣いたのはいつ以来だろう。お母さんがもう帰ってこないと知った時?もうそれくらい前の話だ。慈童苑でも泣かなかった私が、今、こうして泣いている。
私の肩にミサキさんの手が添えられる。私は有無を言わさずその手を取って、抱きついて、泣いた。ミサキさんは黙って私の頭を撫でてくれる。
「偉いなぁ、ユキちゃんは。ホント、きつかったね……」
たったそれだけ言って、ミサキさんは何も言わなくなった。
私は生きている。
たくさんの人が、私の支えになって。
お涙頂戴のその手の話を鼻で嗤う私でも、そう思う瞬間はある。それだけで尊い。
――お母さん。
心の中で私は言った。
私はあなたも、恨んでいない。
だって恨む理由が分からないから。
何も言わずに私を捨てて逝ってしまった母を、恨む気すら起こらなかった。怒りや悲しみは、ぶつけるところがないから大事に育てて、いつか気づいたらどうでもよくなっていた。
だって過ぎてしまったことよりもこれからのこと、今この瞬間のことの方が、私には大事に思えたから。
見上げれば私を優しく抱きしめてくれるミサキさんがいる。ああ、この人がいれば私は大丈夫だ。なぜか、そう思えるから。
いつしか外は赤くなり、濃紺の夜が近づいてくる頃になっていた。
私が落ち着いた頃、文城さんとミサキさん、夢子さんは帰っていった。夢子さんは一人、通りを左へ回り、文城さんとミサキさんはスカイラインに乗って撮影現場に行った。これから鵜飼いの撮影があるらしい。大変だなぁ、映画って。
私はと言うと、このまま夜勤に突入だ。目の周りが熱く熱を持っている。顔洗ってこなきゃ。
す、と風が通った。どこか涼しげなその風が夏の終わりが始まることを告げている。そろそろ暑さも和らぐ頃。日は釣瓶落とし。
吹き抜ける風に目を閉じる。
何かが落ちたような、清涼感が私を満たす。
おかしなお菓子の夢はきっともう見ない。
十七時三十二分。
私は振り返り、正面玄関をくぐる。




