第十章
10
鵜飼いの撮影は滞りなく進み、私の臨時仕事は終わった。
今日も私は名古屋のサロンで髪を切る。映画に関わっていた日々がもう遠くにかすんで思える。けれどもあれからまだ三日しか経っていない。
「三枝さーん、ご予約の三谷さん、お見えですよー」
「あ、はーい」
私はシザーケースの中身を確かめ、すぐに鏡に向かう。
いつもの談笑。いつものカット。いつものカラー。いつものパーマ。いつものシャンプー。いつもと同じ、なのになぜだろう。私の心はどこか遠くに飛んで行ってしまっているような気がする。気もそぞろ。心ここにあらず。でも、どこに心があるのか私には、分からない。
三日前。撮影が終わった頃。すでに日付を越えており、人影は疎らどころかほとんどない。片付けを進めているスタッフたちの中、私は笙子先輩に別れの挨拶をしていた。
「ホント、無理言ってごめんね。助かったよ」
「いえいえ。あ、秋田の子、大丈夫そうですか?」
「ええ。今日最終の新幹線に乗ってこっちに入るわ」
翌日から私は名古屋のサロンに戻る。もう休みが取れない。こっちのロケはあと数日続くらしい。詳しいことは聞いていない。だって聞いたところで意味ないでしょ。そういうことはしない主義なんです、私は。
鵜匠たちの姿ももうなく、あたりは深夜の熱気に包まれたまま静寂を纏っていた。
「笙子先輩」
私は頭を下げた。
「何よ、気持ち悪い。頭下げるのはこっちだっていうのに……」
「いえ。何となく、お礼だけでも言わせてください。本当にありがとうございました」
「……ねぇミサキちゃん」
笙子先輩の顔がふ、と曇る。暗闇のせいだろうか。どこか怖い。
「本当は黙っていようと思ったんだけど、言った方がミサキちゃんのためになると思うから、言うことに決めた」
何だろう。なんだか深刻そうな話だ。その日はそういう星回りだったのかな……。深夜だからかぼんやりと薄い靄がかかったような頭で私は話を聞くことに決めた。
「何ですか?」
「あのね、ミサキちゃんをこの現場に呼んだの、私じゃなくて文城さんなの」
「ぇえ?」
突然の告白に頭の靄も吹っ飛んだ。
「え、だってアシスタント足りないって秋田って日本髪がどうのこうので私ってなったんじゃ? え? 意味わかんないんですけどえ? どうなった?」
「ちょ、口調がわやわやになってるよ」
「そそそそれだけのことを言ったんじゃないですか! ちょっとちゃんと説明してくださいよ! 私、今日ちょっと結構いろいろあったし絶賛今深夜のテンションでおかしいかもしれないけどちゃんと聞きますって!」
呆れたように笙子先輩は溜息をついた。
「どうしてアンタは気づかないんだろうね……頭いいくせに」
何が何だかさっぱりだった。
「だいたいねぇ、ヘアメイクの一人や二人忌引きしたって補充要員くらいどうにだってなるの。名古屋のサロン美容師なんて呼ばなくってもどうにでもなったの」
「い、言われてみれば……」
そもそも日本髪を結えるスタッフがいないなんておかしな話だった。どうしてそんなことに気づかなかったんだろう。あ、そうか。私、馬鹿なんだ。うん。
「だけどね、文城さんが是非にってアンタを薦めてくるから連絡しただけ。それだけよ」
「え、なんで文城さんが?」
「知らないわよ。…………と、言うつもりだったけどね、何となく分かった気がする。文城さんがミサキちゃんを呼んだ理由」
「な、何でですか?」
「自分で考えなさいよ」
それだけ言って、笙子先輩は私の肩を叩いた。お疲れ、とだけ残して。
「…………えええええ?」
私にはなにやらもやっとしたこう……言いようのない不快感だけが残った。
その妙な落ち着きのなさが、今日まで尾を引いている。おかげで危うくカラーの配合を間違えるところだった。危ない危ない。前が見切りすぎる危機も幾度かあったが何とか夕方まで保った。幸い今日のお客様は少なく、夕方になった今は予約もない。
「三枝さん、なんかあったんですかー? 今日変ですよー?」
「女はね、長く生きてるといろいろあるのよ」
若いあんたにはまだ分かんないでしょうけど。三十路過ぎた女にはいろいろある。言いたくないことも、言えないことも、言ってはいけないことも、山ほどできる。できることの天井も見えるし、可能性なんてもうしらみつぶしにして絞りカスも食い潰してしまった。そんな女のほのかに漂う哀愁を、この若い娘っこは「変」で片付ける。これだから年は取りたくない。若さに嫉妬をするのだから。
嫉妬。
私は潮江さらに嫉妬していたのかもしれない。だからあんなにあの子に腹が立ったのかもしれない。時間と距離を置いて考えてみれば、うん、よく分かる。そして恥ずかしい。なんてことしてたんだ、私。うわぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁあああぁぁぁ……。胸がわたわた動揺してくるのを抑えながら、地団駄を踏んだ。うわあ……恥ずかしい……! ウィッグがずれるほど私は足を踏みならし、ぐっと体を抱いた。店の若い子が引いているのが分かる。こういうときに限ってなぜか店長はいない。あの人、どこ行ったんだ。そんなことよりもなによりも恥ずかしさで身がちぎれそうなんだから仕方ない。
からんからん、
「いらっしゃいませー」
「いらっしゃいませ!」
悲しいほど私って、商売人だわ。入り口のベルが鳴った瞬間にスイッチが切り替わる。あ、涙出そう。
「……予約、していないんですけど……」
気の弱そうな女性が入ってきた。
「どうぞこちらへ」
見たことのない人だ。急な用事でもあったのだろうか。たまにそういう人はいる。馴染みでもないのにぱっと目に入った美容室に入ってくる人。突然不幸があったりした人。そういう人の対応って結構……
「三枝さん、お願いしまーす」
……やっぱり。
「……はーい」
どういうわけか、飛び込み客は私が切ることが多い。なんでだ。若いあんたが切りなさいよ。と思うけども、今まで結構長いこと休んでいた手前何も言えない。私は鏡台の前に座る女性の髪をいじりながら営業スマイルを浮かべた。引きつっていないことを鏡で確かめながら。
「どのようになさいますか?」
結構痛んでるなぁ……。あ、枝毛発見。
「え……あ、カットだけで……じゃあ……こう、丸く……」
丸く?
「エアリーにしてみましょうか?」
「え…………ああ、はい。お、お願いします」
おしゃべりの苦手な人かな? こういう人は無理に会話を弾ませる必要はないと私は思っている。話しかけられると逆に緊張してしまってどうにもならない人。そういう人はそっとしておくのが一番だ。
「じゃあまずは軽く髪を濡らしましょうか」
シャンプー台へと促し、タオルを掛ける。ガーゼで顔を保護し、
「お湯出しますねー。熱かったら言ってください」
シャワーをかける。夏の夕方。汗ばんだ地肌に適温の湯。ほぅ、と彼女の口から息が漏れた。温度はちょうどいいらしい。
私は若い子に目配せし、女性の座る鏡台の前に雑誌を何冊か置かせた。年代は私と同じくらいか少し上なので、ミセス用のファッション誌とヘアカタログ、女性誌に料理雑誌など様々。なぜか雑誌の品揃えだけはいいのがこの店の特徴だ。店長の趣味だろうけど。
「こちらへどうぞ」
髪にタオルを巻き、鏡台へ導き、ケープをかける。彼女はきょときょととしながらも雑誌に手を伸ばした。私はそれを確認して、ハサミを入れ始める。私は黙々と切り、彼女はおどおどと雑誌をめくる。あまりハサミの入れられていない髪だ。少しぱさついている。トリートメントもしたいけれど、カットだけって言ってたからなぁ。カラーリングもしたいけれどなぁ。白髪、結構光って見えるし。いろんなことを思いながら私はハサミを動かした。しょき、しゅき、ちっちっちっち。機械的に動かす音だけが響く。みのりちゃんは床に落ちた髪の毛を集めている。女性はたまに鏡を見ては、はっとして雑誌に目を落とす。
みのりちゃんはすることがなくなったのか、奥に入っていってしまった。サロンの中は妙に重苦しい沈黙が支配し始めた。
(……き、気まずい)
基本的に何か喋っていたい私は沈黙がすこぶる苦手だ。やけにBGMが大きく感じるし、どうにかしなきゃ……と気ばかりが焦る。
(いいお天気ですねーっていう話は苦手だしなあ……なんかこうもっと、ウケる話……)
なぜウケる話を模索するのか。これが関西人の悲しい性なのか。でも関西の人すべてがお笑いテイストな訳じゃないからなぁ。やっぱり私の特性ってことで片付けていいのかな?
「……あ、あの!」
「ぅわあはい! な、何でしょう?」
く、くだらないことを考えていたのがばれたのか、急に女性に話しかけられてしまった。おかげで変な声になったじゃないか。女性はいつの間にか雑誌を閉じて、鏡の中の私の目を見て言った。
「……み、美崎……まほろさん……ですよ……ね?」
手が止まった。
女性が口にした名前は、岐阜・名古屋周辺に来てから一度も言われたことのない名前だった。「美崎まほろ」という女優を覚えている人間が少なくなったことと、私が年を取って顔が変わったから、今まで誰も気づかなかっただけだと思っていた。なのにこの人は私を「美崎まほろ」と呼んだ。おどおどきょどきょどしながら、私をそう呼んだ。私はなぜか冷や汗が出た。
「…………その名前は捨てましたよ」
平静を装いながら、私はハサミを動かし続けた。
「あ、あの、べ、別に追っかけとか……そういうのじゃなくって…………その……」
妙に歯切れが悪い。
確かに、彼女は私のファンとかそういう類の人間じゃないだろう。かつての私のファンという人種はなぜか関西のおばちゃん連中が多かったし、そもそも男性ファンが主だった。この手の奥手そうな女性は、私を見つけても遠巻きに見ているのがほとんどだった気がする。
でもどうして声をかけてきたんだろう。てか美容室も狙って入ってきた? いやいやいやそれはさすがに自分、自意識過剰だわ。私はもう引退してずいぶん経った、とうが経って久しいおばさんだって。
「私……あ、姉です! ……結城美羽の……」
かしゃん、
ハサミを落とした。けれどもしばらく落としたことにも気づかなかった。BGMがノクターンからツィゴイネルワイゼンの重厚なバイオリンになってはっとした。
「……美羽、先輩の…………?」
「はい……。名乗るのが遅くなってごめんなさい。でもい、いてもたってもいられなくなって……」
「ちょ、ちょっと待ってください。せめて切り終わってからお話を……」
「あ! そ、そうですよね! す、すみません私ったら……」
仕上げの段階でよかった。
うるさい鼓動を鼓膜の奥に感じながら、私はドライヤーをつけた。濡れた髪を乾かし、切り落とされた細かい毛を落とす。細かく手が震える。顔の皮膚が引きつる。ぎゅっと目を閉じてすべてをやり過ごそうとするが、瞼の奥にちろちろと火が燃えていた。ガラスの割れる音。油の匂い。そんなものするはずないのに。
「こちらへどうぞ」
椅子を回し、受付の簡易応接セットに美羽先輩の姉とやらを案内した。残念ながらお茶のセットはない。みのりちゃんに言おうとも思ったけれど、彼女がいたら話がこじれそうだからやめた。なるべくこの人と、二人で、話をしたかった。
「と、突然すみません。本当に……」
「いいえ。……私に、お話があるんですね?」
彼女は黙って頷いた。
「でもどうしてここに私がいるって分かったんですか? 偶然ではないですよね?」
だって確か美羽先輩の地元は群馬。お姉さんもそっちにいるならわざわざ群馬から名古屋まで髪を切りにくるはずがない。
「申し訳ございません。あなたがこちらの美容室にお勤めだって……ある方から教えてもらって……」
もしかして。
「……文城さんですか?」
また彼女は頷いた。
溜息が出る。文城さんは一体私をどうしたいんだ。笙子先輩に掛け合って私を撮影現場に呼んだり、なぜか美羽先輩のお姉さんをよこしたり。しかも今更。そう、今更だ。私はとっくに芸能界から身を引いているのに。岐阜ロケがあったから? ……分からない。
「どうしても……どうしても渡したいものがあって……」
彼女は受付に預けておいた鞄を取り、中身を漁った。
「……これは?」
差し出されたのは白い封筒。
「妹の……最期の手紙です」
私は封筒を手に取った。よく見ると桜のはんこが押してある。
「結城美羽……本名・結城路子は、刑務所で病死しました。もう……五年も前に」
「え……」
「風邪をこじらせて、肺炎だったそうです。詳しいことは分かりませんが、精神的にも弱っていたらしくて……病院で亡くなりました」
知らなかった。あの時でさえ美羽先輩は切羽詰まっていたのだから、当然と言えば当選だけれども……。そうか……亡くなったのか……。
「まったく存じ上げず……ご愁傷様でした……」
頭を下げた。それ以外の言葉も行動も思いつかなかった。ああ、私、何も知らずに生きてきたんだ。五年前。私はすでに立ち直って、ユキちゃんと住んで、この店で髪を切っていた。その間美羽先輩は……。私が引退して十年。美羽先輩の刑期は何年だった? それすら記憶にない。
「あの子……死ぬ前に家族に手紙を書いていて……。これは……み、路子がまだ元気だった頃に書いた、あなた宛の手紙です。どうか、受け取ってやってください」
綺麗に整えられた髪の毛がさらりと垂れ下がる。私は手に取ったままのその手紙を、震える手で握りしめた。
「……もちろん、もちろん受け取らせていただきます」
それから私はどうやって帰ってきたのだろう。いつものように電車に乗って、バスに乗って帰ってきたのだろうけど、どこもかしこも記憶にない。どうやって電車に乗ったんだろう。定期通したかな? バス、料金払ったかな? その前に、足、地面についてたかな? 鞄の中に入れた白い封筒が、重い。
気づくと私はマンションの部屋の中にいた。ユキちゃんはいない。今日は遅番でまだ帰らない。部屋の中は暗い。午後八時。
美羽先輩のお姉さんはあれからすぐに帰った。実家の群馬でご両親とご主人、子供と住んでいるそうだ。子供の名前は美羽ちゃん。先輩が亡くなったあとに生まれた子だそうだ。
私は明かりをつけ、ソファに腰を下ろした。背もたれの縁に首を預け、肺腑の奥から溜息をついた。最近いろんなことがありすぎて、正直キャパシティが足りない。オーバーヒートしそうだ。
でも。それでもあの手紙を読まなければいけない。最初で最後の、美羽先輩からの手紙だ。私が読まないわけにはいかない。鞄の内ポケットに丁寧にしまっておいた白い封筒。ああ、指が震えている。情けない。私はローテーブルに置いてあったペーパーナイフで口を開けた。
拝啓 美崎まほろ様
お元気ですか……と言える義理ではありませんが、心配しております。
私のせいであなたが仕事を辞めたと聞いた時は、ざまぁみろと思いました。けれども、刑務所で冷静に考えてみると、なんと恐ろしいことをしたのか、ぞっとします。
私が言える立場じゃないことは重々承知の上で、あなたに伝えたいことがあります。
あなたは芝居から離れて、本当に平気ですか?
私は全然平気じゃない! あのスポットライトの輝きにカメラの目。カンペや足しの笑いすらなつかしくて、本当に悔しい。台本の匂い、監督の怒鳴り声、芸人さんのツッコミも、大好き。夢にまで見ちゃうくらい。
あなたは思い出しませんか? あの現場の空気。こいしくありませんか? 温かい拍手が。スクリーンに映し出される奇跡が、今もまぶしくないですか?
少しでも心が動いたなら、あなたは芝居に戻るべきです。
あなたは根っからの女優だった。だから私は悔しかった。いまさら言い訳にしかならないけれど、私はあなたが本当にうらやましくて、しかたなかった。だからあんなことを……。
私のせいで顔を傷物にしてしまったこと、悔やんでも悔やみきれません。どんなに謝っても許してはもらえないでしょう。
でも、それでも私はあなたに、芝居に関わってほしいと思います。これがどんなに身勝手でわがままなお願いか、重々承知です。でも、私はもう一度、あなたの名前をスタッフロールの中に見つけたい。
私は出所したら、もう一度芸能界に戻りたい。それが叶わないのなら、照明スタッフでもなんでもいい。映画に関わりたいと思っています。私の夢は、もう一度あなたと映画に関わる仕事をすることです。だからお願い。少しでも未練があるなら戻ってきて。あなたは芝居をして初めて輝く人だから。
最後に、本当に身勝手なことばかり書いてごめんなさい。出所したらあなたに会って、謝りたい。
敬具
結城美羽こと結城路子より
涙が落ちてインクが滲んだ。
何でこんなことをこの人は書けるんだろう。刑務所にいるのに、どうして夢が見られるんだろう。
私はおもむろに立ち上がり、冷蔵庫の中のビールを出した。缶を開け、一気に呷る。炭酸とアルコールが体を焼く。私は泣きながらビールを飲む。というより流し込んだ。
床に空き缶が転がる。私はもう一本、缶を開ける。呷る。流し込む。飲み込む。息をつく。開ける。呷る。流し込む。飲み込む。咳き込む。流し込む。飲み込む。呷る。流し込む。飲み込む。飲み込む。飲み込む。飲み込む。
床に転がる空き缶は六つ。私の手には七つ目のビールが握られている。
ちっとも酔えない。
「……どうして…………」
どうして誰もがそんなことを言うのだろう。文城さんも、小鈴も、笙子先輩も美羽先輩も意地悪だ。
「意地悪……ホント、いじわるだ……」
がしがしと頭の毛を毟りたくなる。毟ってもウィッグの毛が抜けるだけだけど、私は毟り始めた。
「わたし……先輩のこと、許す権利なんてないのに……!」
私の頭の中にユキちゃんの言葉が響いた。
「恨んでもない、憎んでもいない人のことを、一体どうやって許せと言うんですか」
私は、恨んでない。
「どうやって……許せって言うの? 許してほしいのは私なのに……!」
その答えを、私は永遠に知ることはない。だって美羽先輩は死んでしまったんだから。
「……ミサキさん、帰ってるの?」
女の子の、低い声。
「ユキちゃん…………」
私の足は速かった。アルコールなんて入っていないみたいに動いて、走った。ダイニングから玄関まで。
「ユキちゃん!」
広い胸板に飛び込んだ。男の人みたいに大きいけれど、やっぱり女の子の匂いがする。汗と消毒液の匂い。どこか甘い匂いもする。
「どうしたのミサキさん? ……飲んでるの?」
私はユキちゃんに抱きついたままで言った。
「わたし……お芝居がしたいよ……」
蚊の鳴くような声で言った。
「みんないじわるなんだもん……。文城さんも笙子先輩も小鈴も私が映画に関われば意地張らずに戻ってくるとか思ってて……でもわたし、戻っちゃいけなくって……」
開けてはいけない箱が開いた音がした。
「必死で押し隠していたのに…………みんなしていじわるして……わたし、わたし……お芝居しなくってもユキちゃんに会ってから本当に幸せだったのに……みんなして思い出させて……」
ユキちゃんは何も言わない。
「ひどいよ……わたし、戻ったって、顔、作れないのに……み、美羽先輩なんて……死んじゃうし……」
少しもユキちゃんは喋らない。
「許してもらうのは私の方なのに…………なのに、美羽先輩……私ともういっぺん、仕事したいって……み、未練があるなら戻れって……」
「じゃあ戻ればいいんだよ」
思いもしない言葉に顔を上げると、ユキちゃんが笑っていた。
「ミサキさんに未練があることくらい、みーんな知ってるんだから、戻っちゃえばいいんだよ」
「い……意外とあっさり言ってくれるね……」
「あっさりも何もさぁ。ミサキさんが芝居に未練たらたらだってもう会った時から分かってたし。どうせ撮影現場にいた時だって羨ましそうに現場見てたんじゃないの?」
「う……」
そうかもしれない。
「で、でもなんでみんなこう……狙い澄ましたみたいにたたみかけるみたいに私に戻れとか言うのかな? 何? みんなグルなの? 変な陰謀とか渦巻いてるの? 宇宙の意思かなんかなの?」
あ、わたし、もしかしたら酔っている……?
「宇宙の意思とか何とかは分かんないけど、少なくともみんなグルな訳じゃあないと思うよ」
ユキちゃんはずるずるに崩れた私を引っ張ってリビングに連れて行ってくれた。私をソファに座らせ、水を一杯くれた。差し出されたグラスを何とか受け取って飲み干した。うま。水、うま。
「私ね、よく思うんだ」
ユキちゃんが話し始めた。
「物事がいろいろ重なったり動き出したりするのはさ、何か大きなものが働いてる時だって。教会育ちだからね、私は。だからきっと神様が何かやってんだなーって思うんだ」
私は頷いた。
「私にもそれが、今来た」
ユキちゃんは静かに言った。
「ずっと考えないようにしていたんだ。昔のこと。考えたって仕方ないからね。だけどこの前、知っちゃった。すごいね。昔の夢を見たらもっと昔のこと知る羽目になるなんて」
ユキちゃんは笑っていた。どこか前とは違う、なんだかこう……影のとれた笑顔だ。これがもしかしたら本当のユキちゃんの顔じゃないのかな。五歳のユキちゃんから、ユキちゃんはやっと歩み出した。そんな気がする。
「ミサキさんにも、来たんだよ。その時が」
「私にも……?」
「そう。神様が言ってるんだよ。もうそろそろ自分に素直になりなって」
素直に……。
「さっきミサキさん、言ったよ。芝居がしたいって。それに、撮影に行ってた時のミサキさん、綺麗だったよ、すごく。今まで見てた中で一番嬉しそうだったし」
「……そうかなぁ?」
「ミサキさんさぁ、ポーカーフェイス気取ってるけど、自分で思っているほど表情隠しきれてないよ。てか感情丸出し」
「丸出し!?」
それはひどい。私は今まで元女優として必死に見せたくない感情は隠してきたのに丸出し!? それはひどい!
「いいじゃん。私はミサキさんが一人で百面相してるの、結構楽しく見てたし」
「それ言ってよ! うわぁはっずかしい!」
知らなかった。ホント……知らなかった。私って意外と知らないこと多かったんだ。
「ねぇ、ミサキさん」
ユキちゃんが私の顔を手で挟んで言った。
「まだロケ隊、岐阜にいるよ。やるなら今だよ」
ユキちゃんの目は本気だった。
「で、でもさ……どんな形であれさ、東京に行かなきゃいけないと思うんだ。そうなるとさ……」
――一緒にいられない。
「馬鹿」
「いったぁ!」
両手でビンタされた。痛い。凄く痛い。
「一緒に行くよ。私は」
「え……」
瞳が揺れる。
「老人ホームなんて全国各地腐るほどあって万年人手不足なの。私は今のところ辞めたって全然問題ない。この部屋だって綺麗に使ってきたから大掃除くらいしたら結構な額で売れる。だからたとえ東京だろうが横浜だろうがストックホルムだろうがウラジオストックだろうがどこにだって行ける。またこうやってマンション買ってもいいし、部屋借りてもいいし、一軒家買ってもいい。一緒にいられるなら、どんなとこだっていい。それとも何? 私と一緒じゃ嫌?」
「そんなわけない! ……でも!」
「言い訳してる暇があるならやらなきゃ損だよ」
ユキちゃんは強気に言った。
「チャンスなんて一瞬で通り過ぎちゃうよ? 世界陸上短距離金メダリストより早く行っちゃうんだよ? 今、ミサキさんのチャンスはここに、ここにあるんだから。獲るの? 獲らないの?」
「…………獲りたい……です」
「じゃあ四の五の言わずにやらなきゃ。チャンスの神様は前髪しかないって言うじゃない」
ユキちゃんは私を抱きしめて言った。
「私はずっと、ミサキさんの味方だ」
――ああ。
私はこのこと一緒にいてよかった。
端から見たら絶対臭すぎるくらいの三文芝居。でもそれが現実世界。スクリーンも液晶もブラウン管も通さない世界は、こんなにも鮮やかで、愚かで、愛おしい。
次の日。私は文城さんに電話をした。
「直接お目にかかってお話がしたいんですが……」
私はこの日、この時から一歩を踏み出す。
私の時計が動き出す。