第一章
前にあげていたものがこちらのミスで連載じゃなくて短編扱いになっていたので再度あげなおしました。
評価、感想お待ちしております。
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「殺してください殺してください。あなたに殺されるならわたしは本望です」
彼女は私を見る度にそう呟いた。
抱き起こされた体を震わせて、私の耳元でそっと囁く。
「殺してください殺してください。あなたに殺されるならわたしは本望です」
掠れた声は聞き取りづらいのに、小さくしか開かない唇がそれを更に邪魔してしまう。けれども彼女は私に訴える。
「殺してください殺してください。あなたに殺されるならわたしは本望です」
時には涙すら浮かべ、彼女は私にそう呟く。私はそれをただじっと聞いているだけ。言葉などかけない。表情すら変えない。私は彼女の痩せた体をただベッドに横たえるだけ。そして軽く会釈何ぞして、私は部屋を出る。
横峯たつ子さんは今年で御年七十五歳になる。だいぶ認知症が進み、正気でいる時間など皆無と言っていい。唯一の身内である娘さんも手を焼いて、先月からここ、介護付き有料老人ホーム「群青の空」に入居している。
「殺してください……か……」
「どうしたの、水埜さん?」
「あ、いえ。何でもないんです」
つい口に出してしまった。ヘルパー詰め所はこれでもかと言うほど閑散としていて一人いることに気付かなかった。私の独り言なんて川のせせらぎに紛れて消えてしまうと思っていたのに。思わぬところで引っかかるものなんだね。皮肉。
「夜勤明けで疲れてるんでしょ。今日はそんなにやることないし、早めに上がっちゃえば?」
「そうですね、そうさせてもらおっかな」
年配の常勤ヘルパーの悪戯っぽい言い方がおかしかったが、お言葉に甘えて私は黄緑色のエプロンを脱いで専用の洗濯カゴに突っ込んだ。ごり、と首が鳴った。腰も結構痛い。ヘルパーは体力勝負。ただでさえ高身長の私はこき使われ……もとい重宝されているのだ。あちこちが痛んで当然。今年入ったばかりの男性ヘルパーは頼りないし。
「大学出だからって使えるとは限らないな」
溜息混じりの独り言は今度こそ下流へと流れて海に出た。福祉系の大学とやらが最近は流行らしいけれども、そこを出て資格を取ったところで施設では即戦力にはなりにくい。どうしたって経験が物を言う職場。おまけに女所帯の職場だから男の子は肩身が狭い。決して同情するわけではない。むしろ溜息をつきたいくらい。利用者も女性が多い。いくらお年を召しているからと言っても、女は死ぬまで女。うら若い男児に下の世話をしてもらったりお風呂に入れてもらうのは抵抗がある。だから彼にはそういった直接的仕事ではなく、食事介助や歩行補助、それにおしぼりたたみや掃除といった雑務をやってもらう。これは私含む女性ヘルパーと利用者の総意でもあったりする。……暗黙だが。彼はそれに文句一つ言わず働いている。
「あなたが悪いんじゃないの。全部男が悪いのよ」
ロッカールームの扉を閉めて、私は一人呟いた。
そう。悪いのはいつだって男の人。
平気で人を傷つけて、貶めて。なのにそれに気付こうとすらしない。その人個人がどんなに清廉潔白で聖人君子だったとしても、その人を構成するY染色体がその人の株価を大暴落させる。今も一人、おしぼりをたたんでいる青年に落ち度なんてない。ただ、彼が男だという理由だけ。それだけで彼は閑職に追いやられて、おばあちゃん達に睨まれる。
「……だいっきらい」
何が? 誰が?
言葉の対象が自分でも分からない「だいっきらい」をロッカーに押し込んで、私は施設を出た。
介護付き有料老人ホーム「群青の空」は長良川と金華山に見守られている。この土地で生まれ、この土地で育った人たちの終の棲家として割と人気があるらしい。認知症であらゆる事を忘れてしまった人たちが過ごすこの施設。この田舎くささを、私は割に気に入っている。ご老人達の世話はそれなりにキツイし給料は安いが、この仕事もそれなりに気に入っている。一時間に一本しか通らないバスが走る路線。うらぶれた商店街。昭和の香り漂う錆びたブリキの看板。来月車検の軽自動車を転がして私は帰る。備え付けのカーステレオからはビートルズ。ストロベリー・フィールズ・フォーエバー。そこでは何もかもが幻。煩わしい事なんて一つもない。
「私も行ってみたいよ、ジョン・レノン」
丸いメガネをかけた顔を思い出す。出鱈目な発音で口ずさみながら、私はアクセルを踏む。私の愛車のスズキのラパンはチェリーピンク。残念ながらストロベリーじゃない。
細い道を抜ければすぐに大通りに出る。ギリギリ二台通れる道が開けて、片側二車線の道。どんなに毎日通っていても国道なんたら線とかうんちゃら通りとか、そういった名前が一向に覚えられない。だから今走っているのが国道だろうが県道だろうが、私には関係ない。どうだっていい。青い看板を見てもピンとこない。ビートルズは今度は声高に助けを求め始めている。誰か助けて!
「それはこっちの台詞」
赤信号で止まったすきにトラックを次へ移す。シャッフル再生だから次に何が出るかはお楽しみ。青信号に変わり、アクセルをふかせばポールが「Hey,Jude」と呼びかける。どうせなら私の名前を歌ってくれればいいのに。
「…………語呂が悪いわ」
ハンドルを切り、華麗に右折。自動車学校の頃からなぜか右折と坂道発進が得意だった。オートマ限定なんて厄介なものはかけていない。けれども最近はミッションの車なんてほとんどない。このラパンもオートマ車。妙に落ち着き払った左足がむず痒い。今度買い替えるなら絶対にマニュアル車にする。普通車の。
そうこうしている間にチェリーピンクのラパンは私の巣についてしまった。新築で入って早七年。煉瓦色の壁面が板チョコみたいで気に入っている。適当にバックしてラパンを狭苦しい駐車場に押し込める。この駐車場の狭さが普通車の購入を躊躇わせる原因なのかも知れない。なんてったって両隣がBMWなんだもの。どんな人が乗ってるのか見たことないけれど、きっとこの車で牛丼屋なんか行かないしファストフードのドライブスルーなんかもしない。卵の安売りに走らないし、泥だらけの高校球児を乗せることもないだろう。十円傷でもつけてやりたくなったが、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。
「破産しろ」
訳もなく呪いの言葉を吐いて私はエンジンを切った。またも助けを求め始めたビートルズがぶち切られる。ざまあないわね、ご愁傷様。いつもよりも乱暴に扉を閉めて、私は大股で闊歩する。エレベーターもあるけれど、あんな狭苦しい箱の中にいるなんてまっぴら御免。私は階段派だ。
いち、にぃ、さん。
一段ずつ数えながら昇っていく。次の階に行くまで七段と八段。計十五段。階段を登っているとなぜか『グリーンマイル』を思い出す。私の相方が何度も観る映画の一つ。
「マイルを歩く。マイルを歩く」
看守のいない穏やかな道のり。緑色じゃない階段。クリーム色の壁紙。十五段。私の部屋は五階。七十五段の階段を登って辿り着く。ミントグリーンのドア、金色の鍵穴。複雑な作りの鍵を差し込んで左に回せば狭くとも愛おしい我が家。ホーム・スウィート・ホーム。
「ただいま……っと」
言いかけて気付いた。今日は相方がいないんだった。
「あの人がいないと部屋が広い」
3LDKの一室がしんと静まりかえる。あっけらかんとした笑い声も、マイケル・ジャクソンも聞こえない。
相方と言っても別に漫才をしているわけではない。相方とはつまり、世間一般に言うならルームメイトだったり親友と言ってみたりする間柄。けれども私達の間で言うなら、彼女は私の「恋人」だ。スウィートラバーだ。甘いゴムではない。甘い恋人だ。
汗だくの仕事着が詰まったボストンバッグを投げ捨てて深く溜息をつく。カーテンの閉まったままの部屋は仄明るい。時計の針はもうすぐ十一時を指す。海の底にたゆたう海草になりたい。そうすれば私はもっとこの部屋にふさわしくなれるのに。薄い水色の壁紙、カーテンの雲の模様が魚影のように揺らめく。
「でも海なんて見たことない」
だって岐阜は山だらけなんだもん。私が生まれた長野県も内陸だし。川はあっても海はない。川を辿れば海に行けるのに私は河口にも行ったことがない。真夏の日差しが部屋をじりじり焼いている。クーラーのスイッチを入れてからシャワーを浴びに行く。出てくる頃にはよく冷えているだろう。さすがに汗も流さずに寝たくない。体中に施設の匂いが染みついているようで嫌だ。自分の汗と、他人の汗。老人の渇いた口の匂いにでろでろになったおかゆ、とろみ粉、糞尿の悪臭。全部が細胞の一つ一つに染みわたっているようで気持ち悪い。洗濯は後でする。とりあえず洗濯機に仕事のTシャツやズボン、今着ている服を投げ入れる。下着だけになると、首から下げた銀の指輪が目に入った。相方とペアで買った指輪。結婚指輪のような物。仕事じゃ嵌めてあげられないからこうやって首からチェーンで下げている。私はそれをいつものようにアクセサリーボックスに入れた。衣類達とは違って、ちょっと丁寧に。さて、あとは残りを脱ぎ捨てるだけだ。汗でブラジャーが張り付いて取りづらい。パンツもぺっちゃりしていて嫌だ。仕事の終わりは開放感よりも残った不快感の方が上回る。まとわりついた服を取っ払えばちょっとした開放感は訪れる。風呂場は妙に湿っぽくて重くて苦手だけれども、仕方ない。蛇口を捻れば適温のシャワーが私の上に降ってくる。汚れたものが流れ落ちて行くみたい。知らず、声が出る。
浴室の大きな姿見に映る私は可愛くない。
高すぎる背、広すぎる背中、しっかりとした筋肉。小さすぎる胸はBカップ。これじゃあ男と間違えられても仕方ない。現に利用者の家族から良いお嬢さんを紹介されたことすらある。しかも三度。髪も長いのは鬱陶しいからショートカットだし、染めるのも面倒だから何かの呪いのように真っ黒。それで仕事は施設のヘルパー。
「病院の看護師だったら話は変わったかな……?」
同じような仕事でも看護師とヘルパーじゃあ雲泥の差。マスクメロンとマクワウリくらい違う。できることも、やれることも、お給金も違う。そのくせ責任だけは同じくらい重い。
「……辞めたくても次がないか」
濡れた前髪を掻き上げ、私はシャワーを止める。こういう仕種が男に間違われる原因の一つか。バスタオルで適当に水を吸わせて、メンズのXLサイズのTシャツをかぶる。下着はつけない。締め付けるのは嫌い。髪も濡れたまま私はベッドに横たわる。
疲れた。
マリアナ海溝よりも深い溜息をついて私は目を閉じる。部屋は適度に冷えていて気持ちいい。手探りでリモコンを探し、設定温度を省エネモードに変える。ヴー……と音を立ててエアコンが静かになった。
「省エネ機能ってサボり機能よね」
これって褒め言葉よ? だってそれって要領が良いって事じゃない。効率よく期待通りの仕事をこなす。すばらしいわね。人もかくあるべきよね。はっはーだ。思いつく限りの皮肉を並べ立てて私は意識を手放し始めた。夜勤は疲れる。本当に疲れる。もう三十路前なんだから無理させないでほしい。
眠り始めるのは簡単だ。私は螺旋階段を想像する。長く、長く、地の底まで続いていそうな。大きな螺旋を描く階段を想像する。一段、二段、一歩、二歩。静かにゆっくり下りていく。意識を深く深く沈めるように。
行き着いた果てに(それはいつなのかは日によって違う)扉がある。古めかしい、木製の扉。金の取っ手がついているような。それをそっと開ければ、そこは理想の夢の世界。私は可愛い女の子で、誰からも愛されるような、誰から見ても可愛らしい女の子。ふわふわのシフォンや複雑な編み目のレースでできた洋服が似合うような。テディベアを抱いていても不釣り合いじゃないような。ケーキやクッキー、マカロン、チョコレート。そういったものに囲まれている夢。私の好きなものは全部今の私に似合わない。だから夢の中だけでも可愛くいたい。きゅ、とぬいぐるみを抱いて、私は少女になる。そんな少女のように私は生きたかった。白いお皿に載ったお菓子に手を伸ばして口に入れる。それが許されるような少女でいたい。
「殺してください殺してください。あなたに殺されるなら私は本望です」
はっと息を飲んで目が覚めた。冷房はほどよい涼しさを保っているのに私は汗だくだった。嫌な汗。冷や汗か何か、そういう嫌な汗をかいている。いつの間にか部屋は暗いオレンジ色に染まっていた。肩で息をしながら時計を見ると、もう六時半を過ぎていた。こんなに寝ていたのか……と思いながら、まだ寝惚けている頭をゆっくり起こす。軽い眩暈を覚えながら、キッチンへ向かう。冷蔵庫の中の麦茶をラッパ飲みする。相方が見たら激怒するだろうな。でも口をつけて飲んでない。だから許して。さらりとした液体が汗をスッと引かせる。
嫌な夢を見てしまった。
私の夢はいつだって同じ夢なのに、悪夢はそこの隙を突いてやって来る。狡猾なスリのようにそっと私の夢の中に忍び込んで安寧をかっ攫っていく。嫌なヤツだ。汗で額に貼り付いた前髪を掻き上げ、ゆるいオールバックにする。もう一度シャワーを浴びなきゃ。
電子音が鳴った。
相方の好きなフライ・ミー・トゥ・ザ・ムーンの着メロ。あの人からの電話だ。サイドボードに置きっぱなしになっている携帯電話を開き、通話ボタンを押す。
『そろそろ起きてる頃だと思って』
「大当たり。今さっき起きたとこ」
電話口の向こうはなんだか騒がしい。
「そっちはまだ仕事場?」
『そ。とある下手くそのせいで長引いちゃってさ。当分おまんまにはありつけそうにないっぽい』
はふー……なんて、あからさまな溜息。こういうところが可愛い。
『せっかく明日ユキちゃん休みなのにゴメンね? 一緒にいられなくって』
「いいよ。断れない仕事だったんでしょ?」
『うん……昔の先輩の頼みとあっちゃあ断れないってもんよ』
きっと今頃ミサキさんはガシガシ頭を掻いているんだろうな。美容師のくせにそういうところに気を配らないヤツだから。
「私も結局断り切れなくて遅番入っちゃったし。そっちもちゃんと仕事して来いよ」
『ハイハイ。わっかりまーしたっと』
本当はミサキさんもオフのはずだった。けれどもミサキさんは東京に行った。口ではあんなことを言っているが仕方なくなんかじゃない。それくらい分かる。なんだか複雑な気分だ。きっと宇宙飛行士はこういう気分で地球を旅立つのだろうな。プラスとマイナス、どちらが大きいか。彼らにもきっと分からない。私はベランダ側のカーテンを開けた。すっかり夕陽は沈み、藍色の空が東に見える。西はもうすぐ群青色だ。
『ねえ、ユキちゃん。そっちは暑い?』
「暑いよ。八月の岐阜は息が詰まりそうなくらい暑い。そっちはどうなん?」
『馬鹿みたいに暑いよ。何て言うの、照り返し? アスファルトの照り返しがすごいし、何よりビルの間が暑くて嫌』
「都会の宿命だね」
『人間のエゴだよ。そのくせ建物の中は不自然なくらい涼しすぎるし、やんなっちゃう』
夏は暑くて普通。そう吐き捨てたミサキさんがいる場所はきっとあり得ないくらいに涼しくなっているんだろうな。
『あ、聞いてよユキちゃん。これ、ホント後から聞いた話なんだけどね、』
「何?」
『今こっちでやってる撮影、今度岐阜でロケやるらしいの』
「ええ? 何それホントなの?」
『ホントよホント。大マジなんだって』
「いつ?」
『明後日から』
「ミサキさんが戻ってくる日じゃん」
映画の撮影とやらがどういうスケジュールで動いているのか素人の私は知らないが、随分な強行軍だと思う。随分メチャクチャなことを言う監督さんなんだろうか?よく分からないから知らない。
『そっちも手伝ってって言われててさ……ホント、参っちゃうよね』
「はは」
ミサキさんはきっと笑ってる。苦笑い。本当にそう思っているの?その言葉を私は飲み込んだ。
『あ、そろそろ再開しそう。またかけるわ』
「うん。無理すんなよ」
『そっちこそ。ちゃんと冷房つけるんだよ?一人だからってケチったら駄目だからね』
「分かってるよ。今だってついてるし」
『水分も摂って、ご飯も食べてよ』
「はいはい」
『あ、ヤバ。監督来たから。じゃね』
ぷちん、と回線は切られた。忙しいもんだな、都会は。それに比べて私の時間は随分ゆっくり進んでいる気がする。田舎の老人ホームはそこだけ時が歪んでいるかも知れない。一日一日がしっかりと、ゆったりと、穏やかに過ぎていく。
「殺してください」
ぎくりとする。心臓が跳ねる。汗が出る。
あの言葉だけが、いやに生々しく、ねっとりとまとわりついて離れない。平穏な毎日に垂らされた一滴の毒のようにその言葉はじわり、じわりと私の意識を蝕んでいく。たつ子さんはどうしてそんなことを言うのだろう? しかも私にだけ。他の人には言わないのに。私とたつ子さんに面識はない。手続きの時、たつ子さんの身元保証人になる娘さんもちらっと見たが、見覚えのない人だった。
「私に殺されるなら本望……?」
一体どういうことなのか皆目見当もつかない。
「……………………人違いよ」
頭を振って呪いの言葉を払い除ける。これから夕食を作るんだ。こんなことを考えてる余裕はない。鍋に適当に水を入れて火にかける。沸いたら一人分のパスタを引っ掴んで放り込む。冷蔵庫に残っていたしめじと明太子と作り置きのホワイトソースでパスタを和えればお終い。フォークを出すのも面倒だから箸でいい。一昨日の新聞が鎮座しているダイニングテーブルにパスタを置く。居住まいを正し、私は両手を合わせた。
「主よ、あなたの慈しみに感謝してこの食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧としてください。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」
この祈りだけは欠かしたことはない。職場でもむにゃむにゃ唱えてから食べる。十字を切り終え、私はテレビをつける。夜の七時は大抵どの曜日もバラエティをやっている。昨今流行の工場見学の映像を見ながら私はパスタを啜った。機械的に作られていく某有名菓子メーカーのロングヒット商品を眺めながらの夕食だ。チョコレートの滝をくぐってできあがるお菓子。腹に収まる明太子クリームパスタ、時々麦茶。お笑い芸人の軽快なナレーションを聞いていてもふと甦るたつ子さんの声。
「殺してください殺してください。あなたに殺されるならわたしは本望です……ねぇ」
唇と歯茎の間で存在感を放つ魚卵を下で舐めとりながらたつ子さんの台詞をなぞる。後味の悪い言葉だ。胃の腑から冷気が込み上げるような、底意地の悪い言葉。自身の生殺与奪を自ら人任せにするなんて無責任の極みだ。いくら老人ホームの入居者で、認知症が進んでいるからと言っても侵すことのできない永久の権利を放棄するなんてするものだろうか? 冷蔵庫から出したフルーツゼリーをちゅるりと吸い込む。うん、分からない。
「……ミサキさんに聞いてみよっかな……」
ミサキさんなら私の「何で?」に答えてくれる。あの人はそういう人のキビ? に詳しいし。携帯電話に手を伸ばし、リダイアルを押す。
「………………………………やめた」
ぱくん、とフタを閉じた。ミサキさんに聞くのはベストな選択だが、それは今じゃない。少なくとも今じゃ、ない。甘ったるいゼリーの味を麦茶で流し込んだ。もう一回風呂に入って寝よう。