大江戸ドラム缶温泉
ユニットバスというものがどうも俺は苦手だった。風呂とトイレを一緒にするという発想がまず謎だ。まああれは西洋発祥だし、文化的な意識の違いというものがあるのだろう。日本人というのは汚れを嫌う性質がとても強いようだし。時代や建物の作りによってはトイレが家とは直接繋がっていなく、一度外に出なければならないこともあったそうだ。水道設備が不十分だったということも勿論だが、そこには日本人の性質が現れているのかもしれない。聞くところによると、わざわざ自分用の箸、お茶碗などの食器があるのは日本だけらしい。
日本における物ノ怪、妖怪変化の類いにも汚れという概念を色濃く表すものが多い。そして海外の化け物どもと比べても、日本の物ノ怪というのは怖さや強さよりも卑しさや汚らしさを主張しているように思える。
日本人というのは汚れ――――すなわち穢れというものを本能的に嫌う傾向にあると言えよう。
となると、その血に穢れを宿した泡沫の人間は物ノ怪と変わりはないのかもしれない。
そして狂おしいほどの愛を語る女も人間ではないというのなら、彼女もまた穢れているのだろうか。
あの混じりけのない言葉も穢れ、汚れた戯言だとでもいうのだろうか。
それで……えっと、俺は何を話していたんだっけ?
あーそうそう、ユニットバス。お風呂について話していたんだ。
まあとにもかくにも俺はユニットバスが嫌いで、そして俺が何故急にお風呂の話題をし始めたかというと、どうも俺は風呂に入らなければいけないらしい。
それというのもシャクナゲが突然俺に風呂を勧めてきたのだ。
「ふむ。貴様確か小娘の家で風呂に入っておらんかったな。それは丁度いい、ここにも風呂はあるのだぞ。もちろん私のような物ノ怪物は入る必要などないのだが、ここは元々貴様と一緒に暮らすために作った家だからのう。大抵のものはそろっておるよ。タオルまできちんと準備してあるから入るといい。うん、それがいいそれがいい。ほれさっさと脱がんか。早く脱いでパンツをこちらに寄こすのだ。早くしないと冷めてしまう。パンツが」
俺の周りには変態しかいないのか。
八重樫の家の時と同じように拒否したいところだったが、首を握られている以上あまり強くも断れず。結局押し切られる形で入浴が決まってしまった。一応パンツだけは死守しておいた。いくらパンツを死守しようと目の前で素っ裸になっているので意味はない気がしたが、そこは気分の問題である。自分のパンツを好きなようにされるのと、自分の裸体を好きなだけ見られるのとでは俺は後者の方がマシだと思う。
……やっぱどっちも嫌だな。
そんな感じでそんなわけで、俺は素っ裸にタオル一枚という非常に心もとない姿でシャクナゲと共に部屋を出て、廃墟の廊下を歩いて風呂のあるという部屋に誘導される。
「ここだ!」
シャクナゲは自信たっぷりに壊れてドアノブがなくなった部屋の扉を蹴破り中に入って行く。それに続いて俺も入る。そこにあったのは焚き火用と思われる木材やらコンクリートブロックやら、そして水の入ったドラム缶だった。
ドラム缶風呂だった。
「まあ、さすがにガスは引けないか……」
半ば予想はしていたことなのでそこまで驚かなかった。むしろこれはこれでいいだろう。ドラム缶風呂は入ったことがなかった。まさか初体験が東京のど真ん中だとは思わなかったけれど、これも風情というやつだ。
粋だ、粋。
江戸だけにな。
「実は貴様が気絶していた間に一回沸かしていてのう。まだ完全に冷えてもおらんだろうし、すぐに沸くから待っておれ」
言って、シャクナゲはいくつか木材をドラム缶の下にブロックで作られた台に放り込み、火を点けた。竹筒で吹くかとも思ったが、さすがにそこまでベタではなく、うちわを使ってパタパタと仰いでいた。これも練習したのだろうか。物ノ怪がわざわざ火をおこす必要もないだろうしな。さっき一度沸かしたというのも練習の為だったのかもしれない。
シャクナゲの言った通り風呂はすぐに沸いた。
「ほれ、入れ入れ」
言われて、俺は湯をこぼさないよう気を付けながら風呂に浸かる。
おお、これは中々いい湯加減……、
「ってあっつ! 熱い! 底がめちゃくちゃ熱い!」
かと思ったら底が燃えるような熱さだった。足を付けた途端焼かれるかと思うくらいだ。
「シャクナゲ、この風呂壊れてるぜ!」
「ドラム缶風呂が壊れる時は穴が開くときくらいだ。底を直接熱しておるのだから熱いに決まっておろう」
む。言われてみれば確かにその通り。
「ほれ、ちゃんとすのこがひいてあるから、その上に立てばよい」
すのこの上に立つと、熱くなくなった。
「どうだ、湯加減のほどは」
「ああ、いいよ。凄くいいな、これ。足の方から温まっていくような感じだ。もしかしたらドラム缶風呂ってのは健康にもいいのかもしれないな」
「そしたら別にドラム缶でなくとも構わないだろうが……しかし気に入ってくれたのなら結構。私も嬉しいわい」
上を見ろ、とシャクナゲに言われ俺は上を見上げた。すると、俺の上の部分だけ崩れてしまったのか天井がなく、広い空まで吹き抜けになっていた。ちょうどいいことにそこからは綺麗な月が見えていた。昨日見たものよりも少し満月に近かった。
「綺麗だな……」
突然渡された景色に俺は素直な感想を述べた。まさか東京で綺麗な夜空が見えるとは思わなかった。少しだけれど、実家のことを思い出した。
「どうやら気に入っていただけたようだの」
感動に浸りしばらく何も言えなかった俺のことをわかっていたのか、シャクナゲは少し間を置いてから話を続けた。
「私も頑張って天井をぶち抜いた甲斐があったというものだ」
「お前がぶち抜いたのかよ」
俺はてっきり廃墟の中に奇跡的にできた情景かと思っていたのに。
感動三割減である。
「ありがとな」
しかし、そういうことなら残り七割の感動は彼女がくれたものだ。俺は礼を言った。簡単な礼でしかなかったが。
「くふふ。貴様は変なところで素直だのう」
「綺麗な景色でも見れば、人間だれでも素直になるってもんだろ」
「その程度で本当に素直になれる人間は最初から素直なのだよ。捻くれた阿呆は綺麗な景色を見てもなんとも思わんさ」
「でも、ひねた人間でも心現れる景色ってのがあるんじゃないのか」
「それこそ素直な者の発想さ。どれ、景色も堪能したことだしこの私自ら髪を洗ってやろう」
そう言って、シャクナゲはするすると自分の髪を俺の髪の方まで伸ばしてきた。
「いや待てお前何する気だ」
「ん? 何ってそりゃ髪を洗うのだが」
「髪で髪を洗うってどんな状況だよ!」
そんなこと聞いたこともない。どれだけ未来に生きたらそんな発想が浮かぶのか……。
「しかし、私は下で火を見てねばならんしのう」
そう言いながら、器用にもシャンプーの容器を掴んだ髪が俺の頭上に忍び寄る。
圧倒的恐怖!
「お、おいやめてくれ。つーかマジでやめて、俺ちょっと黒髪トラウマになりかけてるんだから!」
あんな気味の悪いものを見せられて、その髪で頭を握られても平気だという図太い神経を俺は持ち合わせてはいない。
「そうだ! 役割を逆にするのはどうだ? 髪で髪が洗えるのなら髪で火を見ることだってできるだろう!」
なんてったってこいつの髪は二年もの間俺を監視し続けた髪なのだ。それくらいの芸当はやってのけるだろう。
シャクナゲは仕方ないのう、とぶつぶつ言いながらむくりと立ち上がった。どうやら役割を交換してくれたらしい。一安心だ。
「ああ、でも。手で洗うとなると俺の頭まで届かないのか」
ちょっとした台の上に乗っているのでドラム缶風呂は意外と背が高い。別段俺の背は高くはないが、しかし見た目は女であるところのシャクナゲでは届かないだろう。何か踏み台を用意しなくては……
「よっと」
短い掛け声と共に、シャクナゲはさも当然のように宙に浮いた。その長い髪までなびかせている様は重力に逆らっているようにも見えた。
「ん? どうした海藤。口が開いておるぞ」
「いや、なんでもない」
空間固定だとか世界構築だとか意味のわからん術を使うやつだ。宙に浮くなんて物ノ怪としての基本スキルみたいなことはできて当然なのだろう。全く一々驚かせてくれるやつだ。退屈しない。あまり楽しいとは思わないけれど。
「ほれ、頭をこっちに持って来い。洗ってやろう、我儘さんめ」
俺は頭をシャクナゲの方に寄せた。一瞬シャンプーの冷たい感触を頭皮に感じた。わしゃわしゃとシャクナゲが手を動かすにつれて泡立っていく。優しい手つきだった。
「なあ、シャクナゲ」
「なんだ、海藤よ」
「八重樫はまだ捕まったままなのか」
一瞬だけシャクナゲの手が止まったような気がした。ただ本当に一瞬のことだったので俺の気のせいかもしれない。いずれにせよ彼女は変わらぬ口調で俺の問いに答えてくれた。
「もうとっくに解放したよ。しかしここには来られまい。貴様らが勘違いした迷わせの術というのを使っておるからのう。小娘を含めた人間、どころか物ノ怪だろうとここにはたどり着けまいて」
「そうか、もう出られたのか。じゃあやっぱり俺を探してるのかな」
「そうだろうが……そう心配することはない。あの娘も馬鹿ではないからのう。ここにたどり着けはしないとわかったら腰を落ち着かせて次の手を考えるだろうて。まさか永遠駈けずりまわっているわけはないさ」
「別に心配しているわけではないんだけどな」
「何を言うか。心配だと顔に書いておるぞ」
そう指摘され、なんとなく自分の中の知らない部分を指されたような気分になった。嫌なわけではないけれど。
わしゃわしゃとどんどん俺の頭が泡立っていく。散髪するときくらいしか人に頭を洗ってもらうことはないし、ましてや裸の状態でなんていつ以来だろう。叔母さんと一緒に入った記憶もないし。まさか母さんが死ぬ前とかか。そんなに昔のことなのか。
「ふう……」
すると突然、シャクナゲはため息を吐いた。
「どうしたよ、いきなり」
「いやのう、こうして貴様の頭でも洗ってやれば合法的に貴様の局部が観察できるかと思っておったのだが、湯気やらなんやらで見えんものだと思うてな」
「とんでもなくくだらない理由にびっくりだわ」
「安心しろ。何も陰茎の大きさを見たいわけではない。私は陰茎の大きさで男を判断したりはせぬよ。単純に貴様の陰茎が見たいだけだ。私は貴様の陰茎にしか興味がない」
「うるせぇ、変態」
陰茎陰茎言うな。
「……ブルーレイでは湯気が消えたりするかのう」
「まずブルーレイ化がしねぇよ」
というか、ブルーレイとか知ってるのね。
「一応はな。私は人間文明への理解も深い。そういうものに全く縁のない物ノ怪もいるがのう」
よくも悪くも私ははぐれ者だ。と、おどけるようにシャクナゲは言った。
だとすると、やはり彼女を物ノ怪の中でも変わったやつなのだろう。まあここまで話のできるやつがそう多いとも思えない。物ノ怪自体人間からしてみれば珍しいことを考えれば、こいつはかなりの希少種なのではないのだろうか。ハートのピノとかみたく幸せを運んだりしてくれないだろうか。してくれないだろうなぁ……。
ため息。
その時、突然シャクナゲが俺の頭を抑え、というか押した。かなり強い力で押されたので俺はそのままドラム缶の中に沈んだ。息を吐いた瞬間だったということもあり盛大に水を飲んだ。
「何しやがる!」
水から上半身を出すことに成功した俺はせき込みながらシャクナゲに問い詰めた。いやさ怒鳴った。
「何って、ここにはシャワーがないから頭の泡を流すにはこうするしかないだろう」
「だったら先に一言言えよ! 足がつくのに溺れるかと思ったぞ!」
怒りを表し抗議する俺の顔を見て、シャクナゲは愉快そうに笑う。
「くふふ。先程の仕返しだ。物ノ怪ゆえに丈夫だからたいしたことはないが、しかし殴られっぱなしも性に合わんしのう。まあ戯れだ、許せ」
言いながら、宙に浮きっぱなしだった彼女は地に足を付けた。そのままぺちぺちと音を立てながら部屋の出口に向かう。
「タオルを取ってこよう。貴様はその間に頭を流しておけ。しっかり流さんと髪が傷むぞ。くふふふ」
ひらひらと手を振るシャクナゲの姿はやがて見えなくなった。
俺は一度大きく息を吸い込み、頭まで一気に潜った。
逃げるな、彼女はそう言った。
だから考えよう、逃げずに考えよう。
まず、俺の家について。泡沫家について。
これは信じてもいいだろう。多分本当に俺の家は陰陽師の家系だった。俺のへそに刻まれている印がまさしく証拠である。物心つく前からこの印は見てきたのだから、これに関しては信用できる。叔母さんがぽろりと話してしまうのもあの人をよくしる俺からしてみれば十分現実味のある話だ。
次に、シャクナゲ。
彼女については今のところ信用には値しない。俺を守るためだと言っていた昨晩の侵入も俺からしてみればやっぱり襲撃でしかない。しかし、今のところ彼女は俺に対しては好意的だ。だが油断してはいけない。最初はいい顔で近づいてきて、最後に裏切って人を貶める物ノ怪の話など腐るほどあるだろう。ただなんにせよ彼女の言う通り俺は八重樫についてももっと考えねばならないだろう。考えるべきだ。
だから、八重樫。八重樫なずな。彼女について考える。
正直、俺は彼女のことをある程度信用している。突然現れた頭のおかしな女ではあるけれども、しかし実際彼女がいなければ俺は自分の置かれている状況すら理解することができなかったであろう。シャクナゲは否定していたが、彼女の言葉を疑い、昨晩の事件を本当に物ノ怪の襲撃だとするならば、俺は八重樫がいなければ死んでいてもおかしくなかったのだ。さながら狼に食べられた赤ずきんのように、物ノ怪に食べられてしまっていたかもしれないのだ。そして泡沫の穢れた血によってより強くなった物ノ怪が他の誰かを傷つけることだってあったかもしれないのだ。
しかし、それらは結果論でしかなく、あくまでも俺の主観、感じたことに過ぎない。彼女を信用してもいいと言えるような物的証拠は全くないのだ。そもそも彼女には俺を助ける理由がない。目的がない。
今のところ、八重樫なずなが俺を助ける理由は彼女の言った、愛しているの言葉だけなのだ。恋愛感情だけなのだ。彼女の言葉には余計なものはなく、純粋な愛の言葉でしかなかった。だけれどそれは純粋な――純粋すぎる嘘なのかもしれないのだ。それは裏返してしまえば、何が出てくるかはわからない。純度が高いだけに、そっくりそのままひっくり返る可能性だってある。
八重樫の言葉が嘘であるのかもしれないし。
シャクナゲの言葉こそ虚実であるかもしれない。
それを判断することは今の俺には難しい。
逃げるのをやめようと、わからないものはわからないのかもしれない。
俺はふと上を見上げた。水中から見える月はいびつに歪んで見えた。
息が苦しかった。