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アーク・コントラクター  作者: 瑠志彦
第29章:蒼穹の澱(よどみ)

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29-5

第七港湾区の重苦しい空気を背に、アレンたちはラグナ・ティレオンの案内で、王宮に隣接する「海洋技術開発局」の重厚な石造りの回廊を歩いていた。白亜の壁面に埋め込まれた魔導配線は、規則的な青い脈動を繰り返し、一定の間隔で配置された監視ドローンが、無機質な駆動音を立てて頭上を巡回している。窓から差し込む陽光は先ほどの港湾区とは対照的に清潔で明るく、その落差そのものが、この国の抱える歪みを静かに物語っているようだった。


「王子は今、特別応接室にてセレノア王国から招いたという『特別顧問』と面会されています。……マリス族の犠牲をなくすための、新たな技術導入についての協議だと伺っておりますが」


ラグナが、濃い青色の瞳に微かな懸念を滲ませながら、通路の先にある防音扉を指し示した。その扉には、内部の安全を外から目視するための小窓──多層式の強化魔導ガラスが嵌め込まれている。一行がその横を通り過ぎようとした瞬間、リィナ・フェルウェンが足を止め、静かにその小窓へと視線を向けた。


リィナは自身の固有能力である思考読解を、ガラス越しに見える二人の男へと走らせる。室内の音は完全に遮断されていたが、リィナの瞳には、二人の精神が描く波形が鮮明に映し出されていた。


(……冷たい。怒りや憎しみではなく、まるで氷の回路を流れる電流のような、無機質な波形。……このケインという方は、心から『正しいこと』をしていると信じ込んでいます)


リィナは胸元を小さく押さえ、隣を歩くアレンへと寄り添った。彼女の唇が、他の者には聞こえないほどの微細な音量で、アレンの耳元だけに情報を落とす。


「……アレン様。あの方は、セレニス魔導生態学院から来たケイン・ヴァルゼと名乗っています。……王子に『規格スタンダード』や『管理』という言葉を何度も投げかけていますが……その心根には、人間らしい熱が欠片も感じられません」


アレン・ヴァルグレイは歩みを止めず、無機質な瞳で前方の角を見据えたまま、リィナの報告を演算した。アレンが掌を壁に添えると、感覚触手が室内で展開されている高解像度のホログラムウィンドウの波長を捉えた。そこには、海洋魔獣の出現予測グラフと、それに対処するマリス族の死亡率が冷徹な数値となって並んでいるのが見えた。数字の羅列は端正に整えられ、そこに命の重みなどまるで存在しないかのように、淡々と行と列を成していた。


リィナの囁きを隣で聞いていたラグナ・ティレオンは、苦渋に満ちた表情で独白を漏らした。


「……『規格』、ですか。王子はかねてより、マリス族が魔獣討伐の盾とされる現状を『野蛮な不平等』だと嘆いておられました。システムの力で海を統治し、犠牲をゼロにする……。その甘い救済の論理は、今の彼にとって、抗いがたい福音なのでしょうな」


アレンは極低温の視線を、通り過ぎた扉へと一度だけ向けた。


「……人の考えは消せない。奴らが提示しているのが『技術による救済』である限り、俺たちが今介入すれば、それは王子の希望を理不尽に奪う暴挙になる」


アレンたちはそのまま、廊下の角を曲がり、海洋技術開発局を後にした。


──だが、その時。防音扉の向こう側では、アレンたちの去った後も、数時間に及ぶ「誠実な悪意」の植え付けが続いていた。


特別応接室の室内。エルシアン王子は、テーブルに投影されたホログラムを食い入るように見つめていた。その向かい側に座るケイン・ヴァルゼは、セレノア王国の精密な紋章が刻まれたバッジを光らせ、穏やかで説得力に満ちた声を紡ぎ続けていた。整った所作の一つ一つに、学者らしい冷静さと、それを超えた奇妙な確信が滲んでいる。


『王子、思い出してください。昨年の大嵐の際、失われたマリス族の戦士たちは三十名。……彼らの勇気は称えられましたが、それは同時に、この国のシステムが「個人の犠牲」を前提にしているという敗北の証明なのです』


「……それは分かっている。だからこそ、私は彼らを救いたいのだ」


エルシアンの声には、混血として両種族の架け橋になろうとする焦燥が混じっていた。ケインはその心の隙間に、冷たく研ぎ澄まされた「正解」を滑り込ませる。


『左様です。感情に左右される勇気など、もはや不要なのです。我らセレノアが提唱する「国際管理規格スタンダード」に基づき、海そのものをシステムで均質化すれば、差別という名の不協和音は消滅します。……人を、種族を、一つの規格に当てはめる。それこそが、感情に左右されない完璧な平等なのです』


ケインは何度も、何度も同じ言葉を繰り返した。「規格」「管理」「最適化」「平等」。それらは一見すればどこまでも誠実で、救済に満ちた福音であった。エルシアン王子の瞳から、次第にマリス族特有の野生の熱量が消え、代わりに無機質な「正義」への陶酔が広がっていく。


『マリス族が命を懸けて海洋魔獣を狩ることを、人々は「誇り」と呼びますが……それは効率の悪い野蛮な風習に過ぎません。これからは、我々の提供するデバイスが海流を整え、魔獣の衝動を情報のなぎで塗りつぶします。……そうすれば、もう誰も特攻などする必要はなくなるのですよ。貴方は、彼らを野蛮な労働から解放する英雄となるのです』


「野蛮な、労働……。解放される、英雄……」


エルシアンの呟きを満足げに聞き届けたケインは、懐から小さな、しかし精密な魔導チップを取り出した。それはセレニス魔導生態学院の刻印が打たれた、最新の「集魚誘導チップ」の最終プロトタイプであった。艶やかな黒鋼の表面が、室内の照明を鈍く跳ね返していた。


『これを、王子の手で海へ。……これは本来、セレノアの最重要機密ですが、貴方の志に共鳴し、特別に持ち出したものです。これを設置すれば、海はシステムによって統治されます。……貴方は、自分自身のマリスを恥じる必要もなくなるのです。規格こそが、貴方を「不純物」から「完成された管理者」へと変えるのですから』


「……私の、手で。私が、この国を……」


エルシアン王子の手が、震えながらそのチップを包み込んだ。彼の脳裏には、かつて見たマリス族の同胞たちの泥にまみれた姿と、それを「不効率」だと断じる冷徹な理論が、一つの完璧な設計図として結実していた。窓の外に広がる港の景色が、まるで彼の内側の揺らぎに呼応するように、うっすらと霞んで見えた。


数時間後。アレンたちが既に王宮の別の区画へ移動した頃、エルシアン王子は独り、チップを握りしめて港を見下ろすバルコニーに立っていた。潮風が彼の前髪を揺らし、遠くから響く船の汽笛が、静かな決意の背中を押すように鳴り渡っていた。その瞳には、かつて母ミオラが愛したマリスの誇りはもはや宿っておらず、不気味なほど透明で、冷たい「規格化された正義」だけが揺らめいていたのである。


バルコニーの手すりを握る指先に、力がこもる。眼下に広がる港湾区の灯りは、まるで無数の小さな正義が瞬いているかのように見えた。だがその光の一つ一つの下に、誰かの疲弊した肩や、握りしめられた三叉槍があることを、今の王子は思い出すことができなかった。ケインが去り際に残した言葉だけが、耳の奥で静かに、しかし執拗に反響し続けていた。


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