27-11
黄金の豊穣を謳歌していたフェルシア農業国の王都フェルシアナに、破滅の音は唐突、かつ無慈悲に響き渡った。
「──が、はっ、あ……熱い、身体が……熱いッ!!」
活気に満ちていた中央広場の市場で、一人の商人が胸を掻きむしりながら崩れ落ちた。先日、アレン・ヴァルグレイを乗せた装甲車が通り過ぎた際、「魔力が軽くなった、まるで全身が洗浄されているようだ」と黄金小麦のパンを掲げて笑っていた男だ。だが今、彼の肌の隙間からは、不自然に鮮烈な蒼い燐光が噴き出し、血管が浮き上がるたびにその光は明滅の速度を速めていく。額に浮いた脂汗が、日差しを弾いて不気味な輝きを放っていた。
「おい、どうした!? しっかりしろ!」
周囲の市民たちが駆け寄ろうとしたその瞬間、鼓膜を直接引き裂くような乾いた破裂音が、平和な午後の喧騒を粉砕した。
ドォォォォォォン!!
肉体が耐えきれぬ魔力圧の臨界に達し、内側から爆発する──魔力暴発。男を飲み込んだのは、かつて彼らが「魔力洗浄」の福音と信じていたあの軽やかな光ではない。それは鉛のように重く、あらゆる理を圧殺する深層特有の不協和音を伴った、蒼い火柱であった。噴き上がった熱風が周囲の露店の日除け布を吹き飛ばし、地面には黒く焦げた同心円が刻まれていく。
惨劇は、一箇所に留まらなかった。
市場のあちこちで、同様の悲鳴が連鎖的に上がっていく。幸福な食卓を象徴していたはずの「黄金小麦」の実は、今や市民たちの魔力回路を内側から食い破り、深淵の泥で塗りつぶす「動く迷宮」の楔へと変貌していた。長期にわたる摂取によって、彼らの魔力系統は三十二階層魔石の波長に強制的に「調律」され、その質量の重さに耐えかねて、全身の回路が音を立てて自壊を始めたのである。老いた女が、幼子を抱いた若い母が、市場で談笑していた少女たちが、次々とその場に頽れていった。誰もが「助けて」の一言すら発せぬまま、光の中に呑まれていく。
一人、十人、百人──。
広場から目抜き通り、そして住宅街へ。連鎖する蒼い火柱は、まるで街そのものが巨大な魔石炉となって暴走を始めたかのような地獄絵図を描き出した。噴き上がる燐光は空を不気味な藍色に染め、飛散する魔力の残滓が、肺に粘りつくような不快な重圧となって地上を覆い尽くしていく。焦げた匂いと、麦の甘い香りが奇妙に混ざり合い、鼻の奥を刺した。
「《水盾》! 救護班、急ぎなさい!」
広場を警備していた保安官たちが、阿鼻叫喚の渦中にある市民を保護しようと、魔術式を起動させた。空中に浮かび上がる複雑な幾何学模様の術式陣。だが、その青白い光の設計図は、完成の直前で、まるで作法を忘れたガラス細工のように脆く砕け散った。
パリンッ、と無機質な音が響く。
「なっ……魔術が、形にならない……!? 術式が物理的に押し潰されているだと!?」
警備隊の絶叫が響く。大気そのものが異常な密度の魔力に飽和され、精緻な魔術の定規では、もはやその流れを測ることも、制御することも叶わない。血管を流れる魔力は溶けた鉛のように重く、無理に術式を編もうとすれば、逆に術者の指先から回路が焼き切れていく。街を包む空気は、もはや深層迷宮の深部と何ら変わらぬ死の領域──バルトロメウス教授が描き出した「テロの完成形」へと変質していた。
王宮のバルコニーから、その惨状を見下ろす国王アウロス・フェルシアは、手すりを握る指が白くなるほどに震えていた。
(……救済、だったはずだ。この国を、民を救うための光だったはずだ!)
窓の外に広がるのは、かつての黄金色を失い、蒼い燐光と絶望に塗りつぶされた街並み。アウロスの脳裏に、数日前の、あの光景が鮮烈に蘇る。
空港から王宮へと向かう装甲車の中。市民の歓喜の声に耳を傾ける自分たちの隣で、漆黒のコートを纏った「零番」は、一度も表情を崩さなかった。彼は窓外の空気を肺に吸い込み、温度を欠いた声でこう呟いたはずだ。
『……重いな。この街の空気は、不自然に澄みすぎている』
あの時、アウロスはその言葉を「迷宮探索者の過敏な反応」として聞き流した。救世主として名高い男の直感よりも、学術国家セレノアの権威が保証する「科学的データ」という正論を優先し、忠告を「テロリストの詭弁」と断じてアレンを監獄へと追いやったのは、他でもない自分自身だ。
目の前で上がる一万を超える民の悲鳴。吹き上がる蒼い火柱の一つ一つが、アウロスの無知と慢心に下された、残酷なまでの「代償」の証明であった。アレンが指摘した「重さ」の正体は、大地が自壊を目前にして上げていた断末魔そのものだったのだ。
「陛下……! 全域で魔力暴発が止まりません! 犠牲者はすでに一万人を超え……市街地の二割が消失しました!」
侍従の悲痛な報告が室内に響くが、王にできることは何一つなかった。王都を包囲する巨大な都市防衛障壁が、内側からの異常な魔力圧に耐えかねて、ギギギ、と不気味な高周波のノイズを上げ始める。硝子窓の向こうで、遠く煙が幾筋も立ち上っているのが見えた。
一方、地下の封印房。
石壁一枚を隔てた地上の狂乱を、アレン・ヴァルグレイは掌から伝わる大地の脈動だけで、冷徹に観測し続けていた。
(……始まったか。臨界点を超えたな)
アレンの脳内では、大地の魔力波形が絶望的な角度で上昇を続けている。土壌から作物へ、作物から人へ。連鎖した不純物の循環は、もはや一つの巨大な「濁流」となって、この国というシステムそのものを内側から食い破ろうとしている。地下深くまで伝わる振動が、規則正しかった鼓動を乱すように石床を揺らしていた。
(重い……な。もう、人間が立っていられる密度じゃない。……数え間違えたのは、俺の方ではなく、あんたたちだったな、教授)
アレンは瞑想を解き、漆黒の瞳を静かに開いた。
彼の耳には、遠く市街地で爆ぜる魔力暴発の震動と、理(魔術)を奪われた人々の悲痛な絶叫が、石床を通じて絶え間なく伝わってくる。天井の魔導灯が、不規則な振動に呼応してわずかに瞬いた。
崩壊のカウントダウンは、既にゼロへと差し掛かっていた。
黄金の罠がその真の顎を開き、豊穣の国を飲み込もうとする瞬間。監獄を支配する重厚な静寂の中で、理外の零番は、ただ一筋の「光」が灯るその瞬間を、誰よりも静かに待っていた。




