19-13
静寂が支配する裏庭で、バルバラが重い足取りでアレンへと歩み寄った。雪を踏みしめる彼女の足音が、岩壁に囲まれた空間に硬く反響する。彼女の視線は、アレンの腰に差された銀色の脇差──二千年前の我儘な注文を、ドワーフの執念で形にした「折れぬ牙」に固定されている。その眼差しには、長年の家業を全うした職人としての誇りと、僅かな寂しさが同居していた。
「立ち合いは終わったな。サツキが認めた以上、あたしに否はねえ。……その『かたな』は、今日から正式にお前の所有物だ」
アレンは無言で頷き、腰のベルトに新たな「理外の刃」を固定した。白銀の輝きを放つ鞘が驚くほど自然に馴染んでいる。現代魔術の粋を集めた魔導剣のような華美さはないが、その沈黙した鋼には、あらゆる衝撃を受け止め、決して折れないという無骨な意志が宿っていた。冷たい風がその鞘を撫でるように吹き抜け、雪の欠片がわずかに刃の表面を滑り落ちていった。
「……感謝する」
「礼なら先祖に言いな。あたしゃ家訓を守っただけだ」
バルバラは鼻を鳴らし、懐から一冊の、異様に分厚い帳簿を取り出した。その表紙は年季の入った革張りで、幾重にも折り目のついたページが、ぎっしりと数字と記録で埋め尽くされているのが見て取れた。
「だがな、アレン。一つ、現実的な話をさせてもらうぜ。……本体代金は二千年前、お前……いや『アレ』が古代金貨で支払い済みだ」
「……ああ、聞いている」
「だがな。完成してから今日までの千八百年。特殊な岩への封印、魔力供給、定期的な研ぎ直し……。これら全ての維持管理費は、代金に含まれちゃいねえ」
リィナが不安げにアレンの顔を覗き込んだ。彼女の淡い青の瞳には、これから告げられるであろう金額への漠然とした恐れが滲んでいた。
「維持管理費……。千八百年分、ですか?」
「ええ。ドワーフの技術料を考えれば、恐ろしい額になりそうですわね……」
セリスが頬を引きつらせ、令嬢らしくハンカチで冷や汗を拭った。彼女は貴族としての金銭感覚を持ちながらも、千八百年という桁外れの年月を前にしては、その予測すら立てられずにいた。
バルバラは算盤を弾くような手つきで、アーク・リンクを操作した。指先が画面を滑らせるたびに、桁の大きな数字が次々と積み重なっていく様子が、リィナとセリスの目にもちらりと映った。
「計算は終わってる。千八百年分の特別メンテナンス費用……。百八億エルだ。端数は切り捨ててやったよ」
「百八億……っ!?」
リィナの声が裏返った。彼女の健全な金銭感覚をもってしても、その額はあまりに非現実的だった。彼女は思わず両手で口元を覆い、目を大きく見開いたまま固まってしまった。セリスも言葉を失い、ただ呆然と画面を凝視している。
だが、アレン・ヴァルグレイという男にとって、その数字は足を止める理由にはならなかった。
「……分かった」
アレンは自身の『アーク・リンク』を取り出した。漆黒の端末に右手をかざし、迷いなく指を滑らせる。魔力署名が瞬時に認証され、ガルディア公国銀行から巨大な魔力資本が移動を開始した。画面に表示される送金完了の光が、静かな裏庭の中で青白く明滅する。
──ピロン。
工房に、あまりにも軽い受信音が響いた。
「……確認した。確かに受け取ったよ」
バルバラが、自身の端末を見て呆れたように溜息をついた。彼女は帳簿を閉じ、その表紙を軽く指で叩いた。
「百億を超える大金を、眉一つ動かさずに一発で払い込みやがった。……お前さん、本当に何者なんだい?」
「俺はただの魔軌士だ」
アレンが短く答えると、バルバラは銀の脇差を改めて愛おしげに見つめた。その視線には、これまで千八百年もの間、代々の店主が守り続けてきた「物」への深い愛着が滲んでいた。
「……ふん。百億が、安く感じるほどだぜ」
バルバラは声を落とし、アレンにだけ聞こえるように囁いた。彼女の褐色の顔が、いつになく真剣な表情を浮かべている。
「いいか。素材のヒヒイロカネ、失われた魔導精錬の技術……。今、同じものを一から作れと言われたら、一〇〇〇億エル積まれても断る。それほどの品だ」
「一〇〇〇億……。聞かなかったことにしよう」
アレンは視線を逸らした。己の腰にある刃が、単なる武器ではなく、「時の結晶」であることを再認識する。彼はその重みを噛みしめるように、腰の柄へと右手を軽く添えた。
「大事にしな。そいつは、お前を二千年も待ち続けていたんだからな」
バルバラの言葉と共に、アレンたちは工房を後にした。夕暮れが迫るアイアンフォージの裏路地。魔石精錬の煙がオレンジ色の街灯に照らされ、雪の粒子と共に幻想的に舞っている。石畳の上に落ちる街灯の光の輪が、三人の影を細長く伸ばしていた。
その時だった。
「……リィナ、セリス。止まれ」
アレンの平坦だが鋭い制止に、二人が足を止めた。二千年前の剣技が覚醒しつつあるアレンの直感は、人気のない路地の、わずかな「影の揺らぎ」を正確に捉えていた。リィナは咄嗟に息を詰め、セリスの手が無意識のうちにレイピアの柄へと伸びていく。
アレンは無造作に、道の突き当たりにある廃工場の壁際へと視線を向けた。その暗がりには、これといって異変らしきものは見当たらない。だが、アレンの黒い瞳だけが、その一点を確信を持って捉え続けていた。
「……そこにいるのは分かっている。ゼルハルトの『影』か」
アレンの言葉に、セリスが弾かれたようにレイピアの柄へ手をかけた。彼女の特級としての知覚ですら、今の今までその存在を察知できていなかった。その事実に、彼女は僅かな戦慄を覚えていた。
(気配が……まったく読めませんでしたわ。魔力の揺らぎすら感じなかった……)
セリスの内心の動揺をよそに、沈黙が路地に満ちていった。
沈黙の後。壁の影から、雪の結晶が風に巻かれるような音と共に、一人の青年が姿を現した。夜の闇に溶け込むような黒装束を纏い、感情を削ぎ落とした静かな佇まい。ゼルハルト王国が誇る「影の刃」──魔軌士No.7、フェルナー・クレイスであった。
「……不躾な検分を失礼した、No.0」
フェルナーの声は、風の音に紛れるほど細く、それでいて確かな重みを持っていた。彼は姿を現しこそしたが、その気配は依然として希薄なままである。街灯の光がその輪郭を照らしても、彼の存在感は不思議とその場に溶け込んでいくかのようだった。
「ゼルハルトの魔軌士No.7……! あなた、どうしてここに……!?」
セリスの驚愕の声。既存の特級序列七位という頂点の一角が、王国の裏路地に潜んでいた事実は、事態の重さを物語っていた。彼女は思わず一歩前に出かけたが、フェルナーの静かな佇まいに、その動きを止めた。
「この国にとって、『鍛冶神の遺産』が引き抜かれる瞬間は、何よりも重大な歴史的事象だ」
フェルナーは、アレンの腰にある《白緋》に一瞬だけ視線を落とし、即座にアレンの漆黒の瞳へと戻した。彼の視線の動きには、余分な力みが一切なかった。
「王に代わり、持ち主の資格を『影』より確認させてもらった。……隠密の極致にいた私に、こうも容易く視線を合わせるとは。……なるほど、理外というわけか」
フェルナーの瞳に、微かな戦慄と、それ以上の敬意が灯った。彼の声には、長年培ってきた隠密術の誇りが、静かに崩されたことへの複雑な感情が滲んでいた。
「……見ての通り、回収は終わった。不満があるなら受けるが?」
アレンの静かな、だが拒絶を許さない宣言に対し、フェルナーは音もなく頭を下げた。その所作には、これ以上の争いを望まぬという、明確な意志が込められていた。
「否。正式な代金も、ドワーフの家訓も果たされた。王国として異論はない」
フェルナーの姿が、再び夜の帳へと溶け込み始める。彼の輪郭が徐々に薄れていく様子を、リィナとセリスは息を呑んで見つめていた。
「……No.0。その刃が、貴殿の行く末を切り拓く力とならんことを」
次の瞬間、そこには雪が降り積もるだけの空虚な影が残されているのみであった。まるで最初から誰もいなかったかのような静寂が、路地に戻ってくる。
「……消えましたわ。特級七位の隠密術、これほどとは……」
セリスが安堵の溜息を吐き、レイピアから手を離した。彼女の指先には、まだ微かな緊張の震えが残っていた。
「……アレン様、ゼルハルト王国も、アレン様のことをずっと見ていたのですね」
リィナが少しだけ身を寄せ、アレンの袖を握った。彼女の声には、これまでのような不安ではなく、ある種の静かな感慨が滲んでいた。世界中がアレンの存在を注視している──その事実の重みを、彼女は改めて実感していた。
「……ああ。だが、これでゼルハルトでの用は済んだ。帰るか、ガルディアへ」
アレンは一度だけ腰の《白緋》を撫で、空港へと向かって歩き出した。銀色の鞘が、夕暮れのアイアンフォージに長い影を落とし、理外の騎士の新たな歩みに寄り添っていた。三人の足音が、静まり返った路地に規則正しく響いていく。魔石精錬の煙が、なおも夕焼けの空へと立ち昇り続けていた。




